有島武郎 或る女105

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問題文

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(くらちはいんうつなあまあしではいいろになったがらすまどをはいけいにしてつったちながら、)

倉地は陰鬱な雨脚で灰色になったガラス窓を背景にして突っ立ちながら、

(だまったままふあんらしくくびをかしげた。おかはひごろのめったになかない)

黙ったまま不安らしく首をかしげた。岡は日ごろのめったに泣かない

(せいしつににず、くらちのうしろにそっとひきそってなみだぐんでいた。ようこには)

性質に似ず、倉地の後ろにそっと引きそって涙ぐんでいた。葉子には

(うしろをふりむいてみないでもそれがめにみえるようにはっきりわかった。)

後ろを振り向いて見ないでもそれが目に見えるようにはっきりわかった。

(さだよのことはじぶんひとりでせおってたつ。よけいなあわれみはかけてもらいたく)

貞世の事は自分一人で背負って立つ。よけいなあわれみはかけてもらいたく

(ない。そんないらいらしいはんこうてきなこころもちさえそのばあいおこらずには)

ない。そんないらいらしい反抗的な心持ちさえその場合起こらずには

(いなかった。すぐるとおかというものいちどもみまうことをせずにいて、)

いなかった。過ぐる十日というもの一度も見舞う事をせずにいて、

(いまさらそのゆゆしげなかおつきはなんだ。そうくらちにでもおかにでも)

今さらその由々しげな顔つきはなんだ。そう倉地にでも岡にでも

(いってやりたいほどようこのこころはとげとげしくなっていた。で、ようこは)

いってやりたいほど葉子の心はとげとげしくなっていた。で、葉子は

(うしろをふりむきもせずに、はしのさきにつけただっしめんをこおりみずのなかにひたしては、)

後ろを振り向きもせずに、箸の先につけた脱脂綿を氷水の中に浸しては、

(さだよのくちをぬぐっていた。)

貞世の口をぬぐっていた。

(こうやってもののややにじゅっぷんがすぎた。かざりけもないなにもないいたばりの)

こうやってもののやや二十分が過ぎた。飾りけもない何もない板張りの

(びょうしつにはだんだんゆうぐれのいろがもよおしてきた。さみだれはじめじめと)

病室にはだんだん夕暮れの色が催して来た。五月雨はじめじめと

(おやみなくこがいではふりつづいていた。)

小休(おや)みなく戸外では降り続いていた。

(「おねえさまなおしてちょうだいよう」とか「くるしい・・・くるしいから)

「おねえ様なおしてちょうだいよう」とか「苦しい・・・苦しいから

(おくすりをください」とか「もうねつをはかるのはいや」とかときどきうわごとのように)

お薬をください」とか「もう熱を計るのはいや」とか時々譫言のように

(いっては、ようこのてにかじりつくさだよのすがたはいついきをひきとるかも)

言っては、葉子の手にかじりつく貞世の姿はいつ息を引き取るかも

(しれないとようこにおもわせた。)

しれないと葉子に思わせた。

(「ではもうかえりましょうか」)

「ではもう帰りましょうか」

(くらちがおかをうながすようにこういった。おかはくらちにたいしようこにたいして)

倉地が岡を促すようにこういった。岡は倉地に対し葉子に対して

など

(すこしのあいだへんじをあえてするのをはばかっているようすだったが、とうとう)

少しの間返事をあえてするのをはばかっている様子だったが、とうとう

(おもいきって、くらちにむかっていっていながらすこしようこにたいしてたんがんするような)

思いきって、倉地に向かって言っていながら少し葉子に対して嘆願するような

(ちょうしで、「わたし、きょうはなんにもようがありませんから、こちらに)

調子で、「わたし、きょうはなんにも用がありませんから、こちらに

(のこらしていただいて、ようこさんのおてつだいをしたいとおもいますから、)

残らしていただいて、葉子さんのお手伝いをしたいと思いますから、

(おさきにおかえりください」といった。)

お先にお帰りください」といった。

(おかはひどくいしがよわそうにみえながらいちどおもいいっていいだしたことは、)

岡はひどく意志が弱そうに見えながら一度思い入っていい出した事は、

(とうとうしおおせずにはおかないことを、ようこもくらちもいままでのけいけんから)

とうとう仕畢せずにはおかない事を、葉子も倉地も今までの経験から

(しっていた。ようこはけっきょくそれをゆるすほかはないとおもった。)

知っていた。葉子は結局それを許すほかはないと思った。

(「じゃわしはおさきするがおようさんちょっと・・・」)

「じゃわしはお先するがお葉さんちょっと・・・」

(といってくらちはいりぐちのほうにしざっていった。おりからさだよは)

といって倉地は入り口のほうにしざって行った。おりから貞世は

(すやすやとこんすいにおちいっていたので、ようこはそっとじぶんのそでをとらえている)

すやすやと昏睡に陥っていたので、葉子はそっと自分の袖を捕えている

(さだよのてをほどいて、くらちのあとからびょうしつをでた。びょうしつをでるとすぐ)

貞世の手をほどいて、倉地のあとから病室を出た。病室を出るとすぐ

(ようこはもうさだよをかんごしているようこではなかった。)

葉子はもう貞世を看護している葉子ではなかった。

(ようこはすぐにくらちにひきそってかたをならべながらろうかをおうせつしつのほうに)

葉子はすぐに倉地に引き添って肩をならべながら廊下を応接室のほうに

(つたっていった。)

伝って行った。

(「おまえはずいぶんとつかれとるよ。ようじんせんといかんぜ」)

「お前はずいぶんと疲れとるよ。用心せんといかんぜ」

(「だいじょうぶ・・・こっちはだいじょうぶです。それにしてもあなたは・・・)

「大丈夫・・・こっちは大丈夫です。それにしてもあなたは・・・

(おいそがしかったんでしょうね」)

お忙しかったんでしょうね」

(たとえばじぶんのことばはかどばりで、それをくらちのしんぞうにもみこむというような)

たとえば自分の言葉は稜針で、それを倉地の心臓に揉み込むというような

(するどいごきになってそういった。)

鋭い語気になってそういった。

(「まったくいそがしかった。あれからわしはおまえのいえにはいちどもよういかずに)

「全く忙しかった。あれからわしはお前の家には一度もよう行かずに

(いるんだ」)

いるんだ」

(そういったくらちのへんじにはいかにもわだかまりがなかった。)

そういった倉地の返事にはいかにもわだかまりがなかった。

(ようこのするどいことばにもすこしもひけめをかんじているふうはみえなかった。)

葉子の鋭い言葉にも少しも引け目を感じているふうは見えなかった。

(ようこでさえがあやうくそれをしんじようとするほどだった。しかしそのしゅんかんに)

葉子でさえが危うくそれを信じようとするほどだった。しかしその瞬間に

(ようこはつばめがえしにじぶんにかえった。なにをいいかげんな・・・それはしらじらしさが)

葉子は燕返しに自分に帰った。何をいいかげんな・・・それは白々しさが

(すこしすぎている。このとおかのあいだに、くらちにとってはこのうえもないきかいの)

少し過ぎている。この十日の間に、倉地にとってはこの上もない機会の

(あたえられたとおかのあいだに、すぎもりのなかのさびしいいえにそのあしあとのしるされなかった)

与えられた十日の間に、杉森の中のさびしい家にその足跡の印されなかった

(わけがあるものか。・・・さらぬだに、やみはてつかれはてたずのうに、)

わけがあるものか。・・・さらぬだに、病み果て疲れ果てた頭脳に、

(きょくどのきんちょうをくわえたようこは、ぐらぐらとよろけたあしもとがろうかのいたに)

極度の緊張を加えた葉子は、ぐらぐらとよろけた足もとが廊下の板に

(ついていないようなふんぬにおそわれた。)

着いていないような憤怒に襲われた。

(おうせつしつまできてうわっぱりをぬぐと、かんごふがふんむきをもってきて)

応接室まで来て上っ張りを脱ぐと、看護婦が噴霧器を持って来て

(くらちのみのまわりにしょうどくやくをふりかけた。そのかすかなにおいがようやく)

倉地の身のまわりに消毒薬を振りかけた。そのかすかなにおいがようやく

(ようこをはっきりしたいしきにかえらした。ようこのけんこうがいちにちいちにちといわず、)

葉子をはっきりした意識に返らした。葉子の健康が一日一日といわず、

(いちじかんごとにもどんどんよわっていくのがみにしみてしれるにつけて、)

一時間ごとにもどんどん弱って行くのが身にしみて知れるにつけて、

(くらちのどこにもひてんのないようながんじょうなごたいにもこころにも、ようこは)

倉地のどこにも批点のないような頑丈な五体にも心にも、葉子は

(やりどころのないひがみとにくしみをかんじた。くらちにとってはようこはだんだんと)

やり所のないひがみと憎しみを感じた。倉地にとっては葉子はだんだんと

(ようのないものになっていきつつある。たえずなにかめあたらしいぼうけんを)

用のないものになって行きつつある。絶えず何か目新しい冒険を

(もとめているようなくらちにとっては、ようこはもうちりぎわのはなにすぎない。)

求めているような倉地にとっては、葉子はもう散りぎわの花に過ぎない。

(かんごふがそのへやをでると、くらちはまどのところによっていって、)

看護婦がその室(へや)を出ると、倉地は窓の所に寄って行って、

(かくしのなかからおおきなわにがわのぽけっとぶっくをとりだして、じゅうえんさつの)

衣嚢の中から大きな鰐皮のポケットブックを取り出して、拾円札の

(かなりのたばをひきだした。ようこはそのぽけっとぶっくにもいろいろの)

かなりの束を引き出した。葉子はそのポケットブックにもいろいろの

(きおくをもっていた。たけしばかんでいちやをすごしたそのあさにも、そのあとの)

記憶を持っていた。竹柴館で一夜を過ごしたその朝にも、その後の

(たびたびのあいびきのあとのしはらいにも、ようこはくらちからそのぽけっとぶっくを)

たびたびのあいびきのあとの支払いにも、葉子は倉地からそのポケットブックを

(うけとって、ぜいたくなしはらいをこころもちよくしたのだった。そして)

受け取って、ぜいたくな支払いを心持ちよくしたのだった。そして

(そんなきおくはもうにどとはくりかえせそうもなく、なんとなくようこにはおもえた。)

そんな記憶はもう二度とは繰り返せそうもなく、なんとなく葉子には思えた。

(そんなことをさせてなるものかとおもいながらも、ようこのこころはみょうに)

そんな事をさせてなるものかと思いながらも、葉子の心は妙に

(よわくなっていた。)

弱くなっていた。

(「またたらなくなったらいつでもいってよこすがいいから・・・)

「また足らなくなったらいつでもいってよこすがいいから・・・

(おれのほうのしごとはどうもおもしろくなくなってきおった。まさいのやつ)

おれのほうの仕事はどうもおもしろくなくなって来おった。正井のやつ

(なにかよういならぬわるさをしおったようすもあるし、ゆだんがならん。)

何か容易ならぬ悪戯(わるさ)をしおった様子もあるし、油断がならん。

(たびたびおれがここにくるのもかんがえものだて」)

たびたびおれがここに来るのも考え物だて」

(しへいをわたしながらこういってくらちはおうせつしつをでた。かなりぬれているらしい)

紙幣を渡しながらこういって倉地は応接室を出た。かなりぬれているらしい

(くつをはいて、あまみずでおもそうになったこうもりをばさばさいわせながら)

靴をはいて、雨水で重そうになった洋傘(こうもり)をばさばさいわせながら

(ひらいて、くらちはかるいあいさつをのこしたままゆうやみのなかにきえていこうとした。)

開いて、倉地は軽い挨拶を残したまま夕闇の中に消えて行こうとした。

(あいだをおいてみちわきにともされたでんとうのひが、ぬれたあおばをすべりおちて)

間を置いて道わきにともされた電灯の灯(ひ)が、ぬれた青葉をすべり落ちて

(ぬかるみのなかにりんのようなひかりをただよわしていた。そのなかをだんだん)

ぬかるみの中に燐のような光を漂わしていた。その中をだんだん

(みなみもんのほうにとおざかっていくくらちをみおくっているとようこはとても)

南門のほうに遠ざかって行く倉地を見送っていると葉子はとても

(そのままそこにいのこってはいられなくなった。)

そのままそこに居残ってはいられなくなった。

(だれのはきものともしらずそこにあったあづまげたをつっかけてようこは)

だれの履き物とも知らずそこにあった吾妻下駄をつっかけて葉子は

(あめのなかをげんかんからはしりでてくらちのあとをおった。そこにあるひろばには)

雨の中を玄関から走り出て倉地のあとを追った。そこにある広場には

(けやきやさくらのきがまばらにたっていて、だいきぼなぞうちくのためのざいりょうが、)

欅や桜の木がまばらに立っていて、大規模な増築のための材料が、

(れんがやいしや、ところどころにつみあげてあった。とうきょうのちゅうおうにこんなところが)

煉瓦や石や、ところどころに積み上げてあった。東京の中央にこんな所が

(あるかとおもわれるほどものさびしくしずかで、がいとうのひかりのとどくところだけに)

あるかと思われるほど物さびしく静かで、街灯の光の届く所だけに

(しろくひかってななめにあめのそそぐのがほのかにみえるばかりだった。)

白く光って斜めに雨のそそぐのがほのかに見えるばかりだった。

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