有島武郎 或る女109

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(「おねえさまなの・・・いつかえってきたの。おかあさまがさっきいらしってよ)

「おねえ様なの・・・いつ帰って来たの。おかあ様がさっきいらしってよ

(・・・いやおねえさま、びょういんいやかえるかえる・・・おかあさまおかあさま)

・・・いやおねえ様、病院いや帰る帰る・・・おかあ様おかあ様

((そういってきょろきょろとあたりをみまわしながら)かえらして)

(そういってきょろきょろとあたりを見回しながら)帰らして

(ちょうだいよう。おうちにはやく、おかあさまのいるおうちにはやく・・・」)

ちょうだいよう。お家に早く、おかあ様のいるお家に早く・・・」

(ようこはおもわずけあながいっぽんいっぽんさかだつほどのさむけをかんじた。)

葉子は思わず毛穴が一本一本逆立つほどの寒気を感じた。

(かつてははということばもいわなかったさだよのくちからおもいもかけずこんなことを)

かつて母という言葉もいわなかった貞世の口から思いもかけずこんな事を

(きくと、そのへやのどこかにぼんやりたっているははがかんぜられるようにおもえた。)

聞くと、その部屋のどこかにぼんやり立っている母が感ぜられるように思えた。

(そのははのところにさだよはいきたがってあせっている。)

その母の所に貞世は行きたがってあせっている。

(なんというふかいあさましいこつにくのしゅうちゃくだろう。)

なんという深いあさましい骨肉の執着だろう。

(かんごふがいってしまうとまたびょうしつのなかはしんとなってしまった。)

看護婦が行ってしまうとまた病室の中はしんとなってしまった。

(なんともいえずかれんなすんだおとをたててみずたまりにおちるあまだれのおとは)

なんともいえず可憐な澄んだ音を立てて水たまりに落ちる雨だれの音は

(なおたえまなくきこえつづけていた。ようこはなくにもなかれないような)

なお絶え間なく聞こえ続けていた。葉子は泣くにも泣かれないような

(こころになって、くるしいこきゅうをしながらもうつらうつらとせいしのあいだを)

心になって、苦しい呼吸をしながらもうつらうつらと生死の間を

(しらぬげにねむるさだよのかおをのぞきこんでいた。)

知らぬげに眠る貞世の顔をのぞき込んでいた。

(と、あまだれのおとにまじってとおくのほうにくるまのわだちのおとをきいたようにおもった。)

と、雨だれの音にまじって遠くのほうに車の轍の音を聞いたように思った。

(もうめをさましてようじをするひともあるかと、なんだかちがったせかいの)

もう目をさまして用事をする人もあるかと、なんだか違った世界の

(できごとのようにそれをきいていると、そのおとはだんだんびょうしつのほうに)

出来事のようにそれを聞いていると、その音はだんだん病室のほうに

(ちかよってきた。・・・あいこではないか・・・ようこはがくぜんとして)

近寄って来た。・・・愛子ではないか・・・葉子は愕然として

(ゆめからさめたひとのようにきっとなってさらにみみをそばだてた。)

夢からさめた人のようにきっとなってさらに耳をそばだてた。

(もうそこにはせいしをめいそうしてじぶんのもうしゅうのはかなさをしみじみと)

もうそこには生死を瞑想して自分の妄執のはかなさをしみじみと

など

(おもいやったようこはいなかった。がしゅうのためにきんちょうしきったそのめは)

思いやった葉子はいなかった。我執のために緊張しきったその目は

(あやしくかがやいた。そしておおいそぎでかみのほつれをかきあげて、かがみにかおを)

怪しく輝いた。そして大急ぎで髪のほつれをかき上げて、鏡に顔を

(うつしながら、あちこちとゆびさきでようすをととのえた。えもんもなおした。)

映しながら、あちこちと指先で容子を整えた。衣紋もなおした。

(そしてまたじっとげんかんのほうにききみみをたてた。)

そしてまたじっと玄関のほうに聞き耳を立てた。

(はたしてげんかんのとのあくおとがきこえた。)

はたして玄関の戸のあく音が聞こえた。

(しばらくろうかがごたごたするようすだったが、やがてにさんにんのあしおとが)

しばらく廊下がごたごたする様子だったが、やがて二三人の足音が

(きこえて、さだよのびょうしつのとがしめやかにひらかれた。ようこはそのしめやかさで)

聞こえて、貞世の病室の戸がしめやかに開かれた。葉子はそのしめやかさで

(それはおかがひらいたにちがいないことをしった。やがてひらかれたとぐちから)

それは岡が開いたに違いない事を知った。やがて開かれた戸口から

(おかにちょっとあいさつしながらあいこのかおがしずかにあらわれた。ようこのめは)

岡にちょっと挨拶しながら愛子の顔が静かに現われた。葉子の目は

(しらずしらずそのどこまでもじゅうじゅんらしくふしめになったあいこのおもてに)

知らず知らずそのどこまでも従順らしく伏し目になった愛子の面(おもて)に

(はげしくそそがれて、そこにかかれたすべてをいっときによみとろうとした。)

激しく注がれて、そこに書かれたすべてを一時に読み取ろうとした。

(こひつじのようにまつげのながいやさしいあいこのめはしかしふしぎにも)

小羊のようにまつ毛の長いやさしい愛子の目はしかし不思議にも

(ようこのするどいがんこうにさえなにものをもみせようとはしなかった。ようこはすぐ)

葉子の鋭い眼光にさえ何物をも見せようとはしなかった。葉子はすぐ

(いらいらして、なにごともあばかないではおくものかとこころのなかでじぶんじしんに)

いらいらして、何事もあばかないではおくものかと心の中で自分自身に

(せいごんをたてながら、「くらちさんは」)

誓言を立てながら、「倉地さんは」

(ととつぜんましょうめんからあいこにこうたずねた。あいこはたこんなめをはじめてまともに)

と突然真正面から愛子にこう尋ねた。愛子は多恨な目を初めてまともに

(ようこのほうにむけて、さだよのほうにそれをそらしながら、またようこを)

葉子のほうに向けて、貞世のほうにそれをそらしながら、また葉子を

(ぬすみみるようにした。そしてくらちさんがどうしたというのかいみが)

ぬすみ見るようにした。そして倉地さんがどうしたというのか意味が

(よみとれないというふうをみせながらへんじをしなかった。)

読み取れないというふうを見せながら返事をしなかった。

(なまいきをしてみるがいい・・・ようこはいらだっていた。)

生意気をしてみるがいい・・・葉子はいらだっていた。

(「おじさんもいっしょにいらしったかいというんだよ」「いいえ」)

「おじさんも一緒にいらしったかいというんだよ」「いいえ」

(あいこはぶあいそうなほどむひょうじょうにひとことそうこたえた。ふたりのあいだには)

愛子は無愛想なほど無表情に一言そう答えた。二人の間には

(むずかしいちんもくがつづいた。ようこはすわれとさえいってやらなかった。)

むずかしい沈黙が続いた。葉子はすわれとさえいってやらなかった。

(いちにちいちにちとうつくしくなっていくようなあいこはこぶとりなからだをつつましく)

一日一日と美しくなっていくような愛子は小肥りなからだをつつましく

(ととのえてしずかにたっていた。)

整えて静かに立っていた。

(そこにおかがこどうぐをりょうてにさげてげんかんのほうからかえってきた。がいとうを)

そこに岡が小道具を両手に下げて玄関のほうから帰って来た。外套を

(びっしょりあめにぬらしているのからみても、このまよなかにおかがどれほど)

びっしょり雨にぬらしているのから見ても、この真夜中に岡がどれほど

(はたらいてくれたかがわかっていた。ようこはしかしそれにはひとことのあいさつもせずに、)

働いてくれたかがわかっていた。葉子はしかしそれには一言の挨拶もせずに、

(おかがどうぐをへやのすみにおくやいなや、「くらちさんはなにかいっていまして?」)

岡が道具を部屋のすみにおくや否や、「倉地さんは何かいっていまして?」

(とけんをことばにもたせながらたずねた。)

と剣を言葉に持たせながら尋ねた。

(「くらちさんはおいでがありませんでした。でばあやにことづてをしておいて、)

「倉地さんはおいでがありませんでした。で婆やに言伝てをしておいて、

(おいりようのにもつだけつくってもってきました。これはおかえししておきます」)

お入り用の荷物だけ造って持って来ました。これはお返ししておきます」

(そういってかくしのなかかられいのしへいのたばをとりだしてようこにわたそうとした。)

そういって衣嚢の中から例の紙幣の束を取り出して葉子に渡そうとした。

(あいこだけならまだしも、おかまでがとうとうじぶんをうらぎってしまった。)

愛子だけならまだしも、岡までがとうとう自分を裏切ってしまった。

(ふたりがふたりながらみえすいたうそをよくもああしらじらしく)

二人が二人ながら見えすいた虚言(うそ)をよくもああ白々しく

(いえたものだ。おおそれたよわむしどもめ。ようこはよのなかがてぐすねひいて)

いえたものだ。おおそれた弱虫どもめ。葉子は世の中が手ぐすね引いて

(じぶんひとりをてきにまわしているようにおもった。)

自分一人を敵に回しているように思った。

(「へえ、そうですか。どうもごくろうさま。・・・あいこさんおまえはそこに)

「へえ、そうですか。どうも御苦労さま。・・・愛子さんお前はそこに

(そうぼんやりたってるためにここによばれたとおもっているの?)

そうぼんやり立ってるためにここに呼ばれたと思っているの?

(おかさんのそのぬれたがいとうでもとっておあげなさいな。そしてしゅくちょくしつにいって)

岡さんのそのぬれた外套でも取ってお上げなさいな。そして宿直室に行って

(かんごふにそういっておちゃでももっておいで。あなたのだいじなおかさんが)

看護婦にそういってお茶でも持っておいで。あなたの大事な岡さんが

(こんなにおそくまではたらいてくださったのに・・・さあおかさんどうぞ)

こんなにおそくまで働いてくださったのに・・・さあ岡さんどうぞ

(このいすに(といってじぶんはたちあがった)・・・わたしがいってくるわ、)

この椅子に(といって自分は立ち上がった)・・・わたしが行って来るわ、

(あいさんもはたらいてさぞつかれたろうから・・・よござんす、)

愛さんも働いてさぞ疲れたろうから・・・よござんす、

(よござんすったらあいさん・・・」)

よござんすったら愛さん・・・」

(じぶんのあとをおおうとするあいこをさしつらぬくほどねめつけておいて)

自分のあとを追おうとする愛子を刺し貫くほど睨(ね)めつけておいて

(ようこはへやをでた。そうしてひをかけられたようにかっとぎゃくじょうしながら、)

葉子は部屋を出た。そうして火をかけられたようにかっと逆上しながら、

(ほろほろとくやしなみだをながしてくらいろうかをむちゅうでしゅくちょくしつのほうへいそいでいった。)

ほろほろとくやし涙を流して暗い廊下を夢中で宿直室のほうへ急いで行った。

(よんじゅうしたたきつけるようにしてくらちにかえしてしまおうとしたかねは、)

【四四】 たたきつけるようにして倉地に返してしまおうとした金は、

(やはりてにもっているうちにつかいはじめてしまった。ようこのせいへきとしていつでも)

やはり手に持っているうちに使い始めてしまった。葉子の性癖としていつでも

(できるだけゆたかなこころよいよるひるをおくるようにのみかたむいていたので、)

できるだけ豊かな快い夜昼を送るようにのみ傾いていたので、

(さだよのびょういんせいかつにも、だれにみせてもひけをとらないだけのことを)

貞世の病院生活にも、だれに見せてもひけを取らないだけの事を

(うわべばかりでもしていたかった。やぐでもちょうどでもいえにあるもののなかで)

上辺ばかりでもしていたかった。夜具でも調度でも家にあるものの中で

(いちばんすぐれたものをえらんできてみると、すべてのことまでそれに)

いちばん優れたものを選んで来てみると、すべての事までそれに

(ふさわしいものをつかわなければならなかった。ようこがせんようのかんごふを)

ふさわしいものを使わなければならなかった。葉子が専用の看護婦を

(ふたりもたのまなかったのはふしぎなようだが、どういうものかさだよのかんごを)

二人も頼まなかったのは不思議なようだが、どういうものか貞世の看護を

(どこまでもじぶんひとりでしてのけたかったのだ。そのかわりとしとったおんなを)

どこまでも自分一人でしてのけたかったのだ。その代わり年とった女を

(ふたりやとってこうたいにびょういんにこさして、あらいものからしょくじのことまでをまかなわした。)

二人傭って交代に病院に来さして、洗い物から食事の事までを賄わした。

(ようこはとてもびょういんのしょくじではすましていられなかった。ざいりょうのいいわるいは)

葉子はとても病院の食事では済ましていられなかった。材料のいい悪いは

(とにかく、あじはとにかく、なによりもきたならしいかんじがして)

とにかく、味はとにかく、何よりもきたならしい感じがして

(はしもつけるきになれなかったので、ほんごうどおりにあるあるりょうりやから)

箸もつける気になれなかったので、本郷通りにある或る料理屋から

(ひびいれさせることにした。こんなあんばいで、ひようはしれないところにおもいのほか)

日々入れさせる事にした。こんなあんばいで、費用は知れない所に思いのほか

(かかった。ようこがくらちがもってきてくれたしへいのたばからしはらおうとしたときは、)

かかった。葉子が倉地が持って来てくれた紙幣の束から支払おうとした時は、

(いずれそのうちきむらからそうきんがあるだろうから、ありしだいそれから)

いずれそのうち木村から送金があるだろうから、あり次第それから

(うめあわせをして、すぐそのままかえそうとおもっていたのだった。しかし)

埋め合わせをして、すぐそのまま返そうと思っていたのだった。しかし

(きむらからは、ろくがつになっていらいいちどもそうきんのつうちはこなかった。)

木村からは、六月になって以来一度も送金の通知は来なかった。

(ようこはそれだからなおさらのこともうきそうなものだとこころまちをしたのだった。)

葉子はそれだからなおさらの事もう来そうなものだと心待ちをしたのだった。

(それがいくらまってもこないとなるとやむをえずもちあわせたぶんからつかって)

それがいくら待っても来ないとなるとやむを得ず持ち合わせた分から使って

(いかなければならなかった。まだまだとおもっているうちにたばのあつみは)

行かなければならなかった。まだまだと思っているうちに束の厚みは

(どんどんへっていった。それがはんぶんほどへると、ようこはまったくへんさいのことなどは)

どんどん減って行った。それが半分ほど減ると、葉子は全く返済の事などは

(わすれてしまったようになって、あるにまかせておしげもなくしはらいをした。)

忘れてしまったようになって、あるに任せて惜しげもなく支払いをした。

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