有島武郎 或る女111

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(ゆうべおそくまくらについたあいこはやがてようやくねむそうにおおきなめを)

ゆうべおそく枕についた愛子はやがてようやく睡そうにおおきな目を

(しずかにひらいて、あねがまくらもとにいるのにきがつくと、ねすごしでもしたと)

静かに開いて、姉が枕もとにいるのに気がつくと、寝過ごしでもしたと

(おもったのか、あわてるようにはんしんをおこして、そっとようこをぬすみみる)

思ったのか、あわてるように半身を起こして、そっと葉子をぬすみ見る

(ようにした。ひごろならばそんなきょどうをすぐかんしゃくのたねにするようこも、)

ようにした。日ごろならばそんな挙動をすぐ疳癪の種にする葉子も、

(そのあさばかりはかわいそうなくらいにおもっていた。)

その朝ばかりはかわいそうなくらいに思っていた。

(「あいさんおよろこび、さあちゃんのねつがとうとうしちどだいにさがってよ。)

「愛さんお喜び、貞(さあ)ちゃんの熱がとうとう七度台に下がってよ。

(ちょっとおきてきてごらん、それはいいかおをしてねているから・・・しずかにね」)

ちょっと起きて来てごらん、それはいい顔をして寝ているから・・・静かにね」

(「しずかにね」といいながらようこのこえはみょうにはずんでたかかった。)

「静かにね」といいながら葉子の声は妙にはずんで高かった。

(あいこはじゅうじゅんにおきあがってそっとかやをくぐってでて、まえをあわせながら)

愛子は柔順に起き上がってそっと蚊帳をくぐって出て、前をあわせながら

(しんだいのそばにきた。)

寝台のそばに来た。

(「ね?」ようこはえみかまけてあいこにこうよびかけた。)

「ね?」葉子は笑みかまけて愛子にこう呼びかけた。

(「でもなんだか、だいぶにあおじろくみえますわね」)

「でもなんだか、だいぶに蒼白く見えますわね」

(とあいこがしずかにいうのをようこはせわしくひったくって、)

と愛子が静かにいうのを葉子はせわしく引ったくって、

(「それはでんとうのふろしきのせいだわ・・・それにねつがとれればびょうにんはみんな)

「それは電燈の風呂敷のせいだわ・・・それに熱が取れれば病人はみんな

(いちどはかえってわるくなったようにみえるものなのよ。ほんとうによかった。)

一度はかえって悪くなったように見えるものなのよ。ほんとうによかった。

(あなたもしんみにせわしてやったからよ」)

あなたも親身に世話してやったからよ」

(そういってようこはみぎてであいこのかたをやさしくだいた。そんなことを)

そういって葉子は右手で愛子の肩をやさしく抱いた。そんな事を

(あいこにしたのはようことしてははじめてだった。あいこはおそれをなしたように)

愛子にしたのは葉子としては始めてだった。愛子は恐れをなしたように

(みをすぼめた。)

身をすぼめた。

(ようこはなんとなくじっとしてはいられなかった。こどもらしく、はやくさだよが)

葉子はなんとなくじっとしてはいられなかった。子供らしく、早く貞世が

など

(めをさませばいいとおもった。そうしたらねつのさがったのをしらせて)

目をさませばいいと思った。そうしたら熱の下がったのを知らせて

(よろこばせてやるのにとおもった。しかしさすがにそのちいさなねむりをゆりさます)

喜ばせてやるのにと思った。しかしさすがにその小さな眠りを揺りさます

(ことはしえないで、しきりとへやのなかをかたづけはじめた。あいこがちゅういのうえに)

事はし得ないで、しきりと部屋の中を片づけ始めた。愛子が注意の上に

(ちゅういをしてこそとのおともさせまいときをつかっているのに、ようこが)

注意をしてこそとの音もさせまいと気をつかっているのに、葉子が

(わざとするかともおもわれるほどそうぞうしくはたらくさまは、ひごろとはまるで)

わざとするかとも思われるほど騒々しく働くさまは、日ごろとはまるで

(はんたいだった。あいこはときどきふしぎそうなめつきをしてそっとようこのきょどうを)

反対だった。愛子は時々不思議そうな目つきをしてそっと葉子の挙動を

(ちゅういした。)

注意した。

(そのうちによるがどんどんあけはなれて、でんとうのきえたしゅんかんはちょっと)

そのうちに夜がどんどん明け離れて、電灯の消えた瞬間はちょっと

(へやのなかがくらくなったが、なつのあさらしくみるみるうちにしろいひかりがまどから)

部屋の中が暗くなったが、夏の朝らしく見る見るうちに白い光が窓から

(ようしゃなくながれこんだ。ひるになってからのあつさをよそうさせるようなすずしさが)

容赦なく流れ込んだ。昼になってからの暑さを予想させるような涼しさが

(あおばのかるいにおいとともにへやのなかにみちあふれた。あいこのきかえた)

青葉の軽いにおいと共に部屋の中に充ちあふれた。愛子の着かえた

(おおがらなしろのかすりも、あかいめりんすのおびも、ようこのめをすがすがしくしげきした。)

大柄な白の飛白も、赤いメリンスの帯も、葉子の目を清々しく刺激した。

(ようこはじぶんでさだよのしょくじをつくってやるためにしゅくちょくしつのそばにある)

葉子は自分で貞世の食事を作ってやるために宿直室のそばにある

(ちいさなほうちゅうにいって、ようしょくてんからとどけてきたそっぷをあたためて)

小さな庖厨に行って、洋食店から届けて来たソップを温めて

(しおであじをつけているあいだも、だんだんおきでてくるかんごふたちに)

塩で味をつけている間も、だんだん起き出て来る看護婦たちに

(さだよのさくやのけいかをほこりがにはなしてきかせた。)

貞世の昨夜の経過を誇りがに話して聞かせた。

(びょうしつにかえってみると、あいこがすでにめざめたさだよにあさじまいをさせていた。)

病室に帰って見ると、愛子がすでに目ざめた貞世に朝じまいをさせていた。

(ねつがさがったのできげんのよかるべきさだよはいっそうふきげんになってみえた。)

熱が下がったのできげんのよかるべき貞世は一層ふきげんになって見えた。

(あいこのすることひとつひとつにこしょうをいいたてて、なかなかいうことをきこうとは)

愛子のする事一つ一つに故障をいい立てて、なかなかいう事を聞こうとは

(しなかった。ねつのさがったのにつれてはじめてさだよのいしがにんげんらしく)

しなかった。熱の下がったのに連れて始めて貞世の意志が人間らしく

(はたらきだしたのだとようこはきがついて、それもゆるさなければならないことだと、)

働き出したのだと葉子は気がついて、それも許さなければならない事だと、

(じぶんのことのようにこころでべんそした。ようやくせんめんがすんで、それから)

自分の事のように心で弁疏した。ようやく洗面が済んで、それから

(しんだいのしゅういをせいとんするともうまったくあさになっていた。けさこそはさだよが)

寝台の周囲を整頓するともう全く朝になっていた。今朝こそは貞世が

(きっとしょうびしながらしょくじをとるだろうとようこはいそいそとたけのたかいしょくたくを)

きっと賞美しながら食事を取るだろうと葉子はいそいそとたけの高い食卓を

(しんだいのところにもっていった。)

寝台の所に持って行った。

(そのときおもいがけなくもあさがけにくらちがみまいにきた。くらちもすずしげなひとえに)

その時思いがけなくも朝がけに倉地が見舞いに来た。倉地も涼しげな単衣に

(ろのはおりをはおったままだった。そのきょうけんな、ものをものともしないすがたは)

絽の羽織を羽織ったままだった。その強健な、物を物ともしない姿は

(なつのあさのきぶんとしっくりそぐってみえたばかりでなく、そのひにかぎって)

夏の朝の気分としっくりそぐって見えたばかりでなく、その日に限って

(ようこはえじままるのなかでかたりあったくらちをみいだしたようにおもって、)

葉子は絵島丸の中で語り合った倉地を見いだしたように思って、

(そのかんかつなようすがなつかしくのみながめられた。くらちもつとめて)

その寛濶な様子がなつかしくのみながめられた。倉地もつとめて

(ようこのたちなおったきぶんにどうじているらしかった。それがようこを)

葉子の立ち直った気分に同(どう)じているらしかった。それが葉子を

(いっそうかいかつにした。ようこはひさしぶりでそのぎんのすずのような)

いっそう快活にした。葉子は久しぶりでその銀の鈴のような

(すみとおったこえでたかちょうしにものをいいながらふたことめにはすずしくわらった。)

澄みとおった声で高調子に物をいいながら二言目には涼しく笑った。

(「さ、さあちゃん、ねえさんがじょうずにあじをつけてきてあげたから)

「さ、貞(さあ)ちゃん、ねえさんが上手に味をつけて来て上げたから

(そっぷをめしあがれ。けさはきっとおいしくたべられますよ。)

ソップを召し上がれ。けさはきっとおいしく食べられますよ。

(いままではねつであじもなにもなかったわね、かわいそうに」)

今までは熱で味も何もなかったわね、かわいそうに」

(そういってさだよのみぢかにいすをしめながら、のりのつよいなふきんを)

そういって貞世の身近に椅子を占めながら、糊の強いナフキンを

(まくらからのどにかけてあてがってやると、さだよのかおはあいこのいうように)

枕から喉にかけてあてがってやると、貞世の顔は愛子のいうように

(ひどくあおみがかってみえた。ちいさなふあんがようこのあたまをつきぬけた。)

ひどく青味がかって見えた。小さな不安が葉子の頭をつきぬけた。

(ようこはせいけつなぎんのさじにすこしばかりそっぷをしゃくいあげて)

葉子は清潔な銀の匙に少しばかりソップをしゃくい上げて

(さだよのくちもとにあてがった。)

貞世の口もとにあてがった。

(「まずい」)

「まずい」

(さだよはちらっとあねをにらむようにぬすみみて、くちにあるだけのそっぷを)

貞世はちらっと姉をにらむように盗み見て、口にあるだけのソップを

(しいてのみこんだ。)

しいて飲み込んだ。

(「おやどうして」)

「おやどうして」

(「あまったらしくって」)

「甘ったらしくって」

(「そんなはずはないがねえ。どれそれじゃもすこししおをいれてあげますわ」)

「そんなはずはないがねえ。どれそれじゃも少し塩を入れてあげますわ」

(ようこはしおをたしてみた。けれどもさだよはうまいとはいわなかった。)

葉子は塩を足してみた。けれども貞世はうまいとはいわなかった。

(またひとくちのみこむともういやだといった。)

また一口飲み込むともういやだといった。

(「そういわずともすこしめしあがれ、ね、せっかくねえさんが)

「そういわずとも少し召し上がれ、ね、せっかくねえさんが

(かげんしたんだから。だいいちたべないでいてはよわってしまいますよ」)

加減したんだから。第一食べないでいては弱ってしまいますよ」

(そううながしてみてもさだよはこんりんざいあとをたべようとはしなかった。)

そう促してみても貞世は金輪際あとを食べようとはしなかった。

(とつぜんじぶんでもおもいもよらないふんぬがようこにおそいかかった。)

突然自分でも思いもよらない憤怒が葉子に襲いかかった。

(じぶんがこれほどほねをおってしてやったのに、ぎりにももうすこしは)

自分がこれほど骨を折ってしてやったのに、義理にももう少しは

(たべてよさそうなものだ。なんというわがままなこだろう(ようこは)

食べてよさそうなものだ。なんというわがままな子だろう(葉子は

(さだよがみかくをかいふくしていて、りゅうどうしょくではまんぞくしなくなったのをすこしも)

貞世が味覚を回復していて、流動食では満足しなくなったのを少しも

(かんがえにいれなかった)。)

考えに入れなかった)。

(そうなるともうようこはじぶんをとうぎょするちからをうしなってしまっていた。)

そうなるともう葉子は自分を統御する力を失ってしまっていた。

(けっかんのなかのちがいっときにかっともえたって、それがしんぞうに、そしてしんぞうから)

血管の中の血が一時にかっと燃え立って、それが心臓に、そして心臓から

(あたまにつきすすんで、ずがいこつはばりばりとおとをたててわれそうだった。)

頭に衝き進んで、頭蓋骨はばりばりと音を立てて割れそうだった。

(ひごろあれほどかわいがってやっているのに、・・・にくさはいちばいだった。)

日ごろあれほどかわいがってやっているのに、・・・憎さは一倍だった。

(さだよをみつめているうちに、そのやせきったほそくびにくわがたにしたりょうてを)

貞世を見つめているうちに、そのやせきった細首に鍬形にした両手を

(かけて、ひとおもいにしめつけて、くるしみもがくようすをみて、)

かけて、一思いにしめつけて、苦しみもがく様子を見て、

(「そらみるがいい」といいすててやりたいしょうどうがむずむずとわいてきた。)

「そら見るがいい」といい捨ててやりたい衝動がむずむずとわいて来た。

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