有島武郎 或る女120

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(そのひてんきはじょうじょうでひがしむきのかべはさわってみたらないぶからでも)

その日天気は上々で東向きの壁はさわってみたら内部からでも

(ほんのりとあたたかみをかんずるだろうとおもわれるほどあつくなっていた。)

ほんのりと暖かみを感ずるだろうと思われるほど暑くなっていた。

(ようこはきのうまでのひろうとすいじゃくとににず、そのひはおきるとから)

葉子はきのうまでの疲労と衰弱とに似ず、その日は起きるとから

(だまってねてはいられないくらい、からだがうごかしたかった。)

黙って臥てはいられないくらい、からだが動かしたかった。

(うごかすたびごとにおそってくるふくぶのどんつうやあたまのこんらんをいやがうえにもつのらして、)

動かすたびごとに襲って来る腹部の鈍痛や頭の混乱をいやが上にも募らして、

(おもいぞんぶんのくつうをあじわってみたいようなすてばちなきぶんになっていた。)

思い存分の苦痛を味わってみたいような捨てばちな気分になっていた。

(そしてふらふらとすこしよろけながら、えもんもみだしたまま)

そしてふらふらと少しよろけながら、衣紋も乱したまま

(へやのなかをかたづけようとしてとこのまのところにいった。かけじくもないとこのまの)

部屋の中を片づけようとして床の間の所に行った。掛け軸もない床の間の

(かたすみにはきのうことうがもってきたはなが、あつさのためにむれたように)

片すみにはきのう古藤が持って来た花が、暑さのために蒸れたように

(しぼみかけて、あまったるいこうをはなってうなだれていた。)

しぼみかけて、甘ったるい香を放ってうなだれていた。

(ようこはがらすびんごとそれをもってえんがわのところにでた。そしてそのはなの)

葉子はガラスびんごとそれを持って縁側の所に出た。そしてその花の

(かたまりのなかにむずとねっしたてをつっこんだ。ししからくるような)

かたまりの中にむずと熱した手を突っ込んだ。死屍から来るような

(つめたさがようこのてにつたわった。ようこのゆびさきはしらずしらずちぢまって)

冷たさが葉子の手に伝わった。葉子の指先は知らず知らず縮まって

(もぎどうにそれをつめもたたんばかりにぎりつぶした。にぎりつぶしては)

没義道にそれを爪も立たんばかり握りつぶした。握りつぶしては

(びんからひきぬいててすりからこがいになげだした。)

びんから引き抜いて手欄から戸外に投げ出した。

(ばら、だりあ、おだまき、などのいろとりどりのはながばらばらにみだれて)

薔薇、ダリア、小田巻、などの色とりどりの花がばらばらに乱れて

(にかいからへやのしたにあたるきたないろとうにおちていった。ようこは)

二階から部屋の下に当たるきたない路頭に落ちて行った。葉子は

(ほとんどむいしきにひとつかみずつそうやってなげすてた。そしてさいごに)

ほとんど無意識に一掴みずつそうやって投げ捨てた。そして最後に

(がらすびんをちからまかせにたたきつけた。びんはめのしたではげしくこわれた。)

ガラスびんを力任せにたたきつけた。びんは目の下で激しくこわれた。

(そこからあふれでたみずがかわききったえんがわいたにまるいはんもんを)

そこからあふれ出た水がかわききった縁側板に丸い斑紋を

など

(いくつとなくちらかして。)

いくつとなく散らかして。

(ふとみるとむこうのやねのものほしだいにゆかたのたぐいをもって)

ふと見ると向こうの屋根の物干し台に浴衣の類を持って

(ほしにあがってきたらしいじょちゅうふうのおんなが、じっとふしぎそうに)

干しに上がって来たらしい女中風の女が、じっと不思議そうに

(こっちをみつめているのにきがついた。ようことはなんのかんけいもない)

こっちを見つめているのに気がついた。葉子とはなんの関係もない

(そのおんなまでが、ようこのすることをあやしむらしいようすをしているのをみると、)

その女までが、葉子のする事を怪しむらしい様子をしているのを見ると、

(ようこのきょうぼうなきぶんはますますつのった。ようこはてすりにりょうてをついて)

葉子の狂暴な気分はますます募った。葉子は手欄に両手をついて

(ぶるぶるとふるえながら、そのおんなをいつまでもいつまでもにらみつけた。)

ぶるぶると震えながら、その女をいつまでもいつまでもにらみつけた。

(おんなのほうでもようこのしうちにきづいて、しばらくはいしゅにみかえすふうだったが、)

女のほうでも葉子の仕打ちに気づいて、しばらくは意趣に見返すふうだったが、

(やがていっしゅのきょうふにおそわれたらしく、ほしものをさおにとおしもせずに)

やがて一種の恐怖に襲われたらしく、干し物を竿に通しもせずに

(あたふたとあわててほしものだいのきゅうなはしごをかけおりてしまった。)

あたふたとあわてて干し物台の急な階子を駆け下りてしまった。

(あとにはもえるようなあおぞらのなかにふきそくなやねのなみばかりが)

あとには燃えるような青空の中に不規則な屋根の波ばかりが

(めをちかちかさせてのこっていた。ようこはなぜにともしれぬためいきを)

目をちかちかさせて残っていた。葉子はなぜにとも知れぬため息を

(ふかくついてまんじりとそのあからさまなけしきをゆめかなぞのように)

深くついてまんじりとそのあからさまな景色を夢かなぞのように

(ながめつづけていた。)

ながめ続けていた。

(やがてようこはまたわれにかえって、ふくよかなかみのなかにゆびをつっこんで)

やがて葉子はまたわれに返って、ふくよかな髪の中に指を突っ込んで

(はげしくあたまのじをかきながらへやにもどった。)

激しく頭の地(じ)をかきながら部屋に戻った。

(そこにはねどこのそばにようふくをきたひとりのおとこがたっていた。)

そこには寝床のそばに洋服を着た一人の男が立っていた。

(はげしいがいこうからくらいへやのほうにめをむけたようこには、ただまっくろな)

激しい外光から暗い部屋のほうに目を向けた葉子には、ただまっ黒な

(たちすがたがみえるばかりでだれともみわけがつかなかった。しかし)

立ち姿が見えるばかりでだれとも見分けがつかなかった。しかし

(しゅじゅつのためにいいんのひとりがむかえにきたのだとおもわれた。)

手術のために医員の一人が迎えに来たのだと思われた。

(それにしてもしょうじのあくおとさえしなかったのはふしぎなことだ。)

それにしても障子のあく音さえしなかったのは不思議な事だ。

(はいってきながらこえひとつかけないのもふしぎだ。)

はいって来ながら声一つかけないのも不思議だ。

(と、おもうとえたいのわからないそのすがたは、そのまわりのものがだんだん)

と、思うと得体のわからないその姿は、そのまわりの物がだんだん

(あきらかになっていくあいだに、たったひとつだけまっくろなままでいつまでも)

明らかになって行く間に、たった一つだけまっ黒なままでいつまでも

(りんかくをみせないようだった。いわばひとのかたちをしたまっくらなほらあなが)

輪郭を見せないようだった。いわば人の形をしたまっ暗な洞穴(ほらあな)が

(くうきのなかにできあがったようだった。はじめのあいだこうきしんをもってそれを)

空気の中に出来上がったようだった。始めの間好奇心をもってそれを

(ながめていたようこはみつめればみつめるほど、そのかたちにじっしつがなくって、)

ながめていた葉子は見つめれば見つめるほど、その形に実質がなくって、

(まっくらなくうきょばかりであるようにおもいだすと、ぞーっとみずをあびせられたように)

まっ暗な空虚ばかりであるように思い出すと、ぞーっと水を浴びせられたように

(おぞけをふるった。「きむらがきた」・・・なんということなしにようこは)

怖毛をふるった。「木村が来た」・・・何という事なしに葉子は

(そうおもいこんでしまった。つめのいちまいいちまいまでがにくにすいよせられて、)

そう思い込んでしまった。爪の一枚一枚までが肉に吸い寄せられて、

(けというけがきょうちょくしてさかだつようなうすきみわるさがそうみにつたわって、)

毛という毛が強直して逆立つような薄気味わるさが総身に伝わって、

(おもわずこえをたてようとしながら、こえはでずに、くちびるばかりが)

思わず声を立てようとしながら、声は出ずに、口びるばかりが

(かすかにひらいてぶるぶるとふるえた。そしてむねのところになにかつきのけるような)

かすかに開いてぶるぶると震えた。そして胸の所に何か突きのけるような

(ぐあいにてをあげたまま、ぴったりとたちどまってしまった。)

具合に手をあげたまま、ぴったりと立ち止まってしまった。

(そのときそのくろいひとのかげのようなものがはじめてうごきだした。うごいてみると)

その時その黒い人の影のようなものが始めて動き出した。動いてみると

(なんでもない、それはやはりにんげんだった。みるみるそのすがたのりんかくが)

なんでもない、それはやはり人間だった。見る見るその姿の輪郭が

(はっきりわかってきて、くらさになれてきたようこのめにはそれが)

はっきりわかって来て、暗さに慣れて来た葉子の目にはそれが

(おかであることがしれた。)

岡である事が知れた。

(「まあおかさん」)

「まあ岡さん」

(ようこはそのしゅんかんのなつかしさにひきいれられて、いままででなかったこえを)

葉子はその瞬間のなつかしさに引き入れられて、今まで出なかった声を

(どもるようなちょうしでだした。おかはかすかにほおをあからめたようだった。)

どもるような調子で出した。岡はかすかに頬を紅らめたようだった。

(そしていつものとおりじょうひんに、ちょっとたたみのうえにひざをついてあいさつした。)

そしていつものとおり上品に、ちょっと畳の上に膝をついて挨拶した。

(まるでいちねんもろうごくにいて、にんげんらしいにんげんにあわないでいたひとのように)

まるで一年も牢獄にいて、人間らしい人間に会わないでいた人のように

(ようこにはおかがなつかしかった。ようことはなんのかんけいもないひろいせけんから、)

葉子には岡がなつかしかった。葉子とはなんの関係もない広い世間から、

(ひとりのひとがこういをこめてようこをみまうためにそこにあまくだったとも)

一人の人が好意をこめて葉子を見舞うためにそこに天降(あまくだ)ったとも

(おもわれた。はしりよってしっかりとそのてをとりたいしょうどうをおさえることが)

思われた。走り寄ってしっかりとその手を取りたい衝動を抑える事が

(できないほどにようこのこころはかんげきしていた。ようこはめになみだをためながら)

できないほどに葉子の心は感激していた。葉子は目に涙をためながら

(おもうままのふるまいをした。じぶんでもしらぬまに、ようこは、おかのそばちかく)

思うままの振る舞いをした。自分でも知らぬ間に、葉子は、岡のそば近く

(すわって、みぎてをそのかたに、ひだりてをたたみについて、しげしげとあいてのかおを)

すわって、右手をその肩に、左手を畳に突いて、しげしげと相手の顔を

(みやるじぶんをみいだした。)

見やる自分を見いだした。

(「ごぶさたしていました」)

「ごぶさたしていました」

(「よくいらしってくださってね」)

「よくいらしってくださってね」

(どっちからいいだすともなくふたりのことばはしたしげにからみあった。)

どっちからいい出すともなく二人の言葉は親しげにからみ合った。

(ようこはおかのこえをきくと、きゅうにいままでじぶんからにげていたちからが)

葉子は岡の声を聞くと、急に今まで自分から逃げていた力が

(かいふくしてきたのをかんじた。ぎゃっきょうにいるおんなにたいして、どんなおとこであれ、)

回復して来たのを感じた。逆境にいる女に対して、どんな男であれ、

(おとこのちからがどれほどつよいものであるかをおもいしった。だんせいのたのもしさが)

男の力がどれほど強いものであるかを思い知った。男性の頼もしさが

(しみじみとむねにせまった。ようこはわれしらずすがりつくように、おかのかたに)

しみじみと胸に逼った。葉子はわれ知らずすがり付くように、岡の肩に

(かけていたみぎてをすべらして、ひざのうえにのせているおかのみぎてのこうのうえから)

かけていた右手をすべらして、膝の上に乗せている岡の右手の甲の上から

(しっかりととらえた。おかのてはようこのしょっかくにみょうにつめたくひびいてきた。)

しっかりと捕えた。岡の手は葉子の触覚に妙に冷たく響いて来た。

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