有島武郎 或る女122

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(「きいてください」やがておかはこういってきっとなった。)

「聞いてください」やがて岡はこういってきっとなった。

(「うかがいましょう」ようこもきっとなっておかをみやったが、すぐくちじりに)

「伺いましょう」葉子もきっとなって岡を見やったが、すぐ口じりに

(むごたらしいひにくなびしょうをたたえた。それはおかのきさきをさえおるに)

むごたらしい皮肉な微笑をたたえた。それは岡の気先をさえ折るに

(じゅうぶんなほどのひにくさだった。)

充分なほどの皮肉さだった。

(「おうたがいなさってもしかたがありません。わたし、あいこさんには)

「お疑いなさってもしかたがありません。わたし、愛子さんには

(ふかいしたしみをかんじております・・・」)

深い親しみを感じております・・・」

(「そんなことならうかがうまでもありませんわ。わたしをどんなおんなだと)

「そんな事なら伺うまでもありませんわ。わたしをどんな女だと

(おもっていらっしゃるの。あいこさんにふかいしたしみをかんじていらっしゃればこそ、)

思っていらっしゃるの。愛子さんに深い親しみを感じていらっしゃればこそ、

(けさはわざわざいつごろしぬだろうとみにきてくださったのね。なんとおれいを)

けさはわざわざいつ頃死ぬだろうと見に来てくださったのね。なんとお礼を

(もうしていいか、そこはおさっしくださいまし。きょうはしゅじゅつをうけますから、)

申していいか、そこはお察しくださいまし。きょうは手術を受けますから、

(しがいになってしゅじゅつしつからでてくるところをよっくごらんなさってあなたのあいこに)

死骸になって手術室から出て来る所をよっく御覧なさってあなたの愛子に

(しらせてよろこばしてやってくださいましよ。しににいくまえにとくとおれいをもうします。)

知らせて喜ばしてやってくださいましよ。死にに行く前に篤とお礼を申します。

(えじままるではいろいろごしんせつにありがとうございました。おかげさまでわたしは)

絵島丸ではいろいろ御親切にありがとうございました。お陰様でわたしは

(さびしいよのなかからすくいだされました。あなたをおにいさんともおしたいして)

さびしい世の中から救い出されました。あなたをおにいさんともお慕いして

(いましたが、あいこにたいしてもきはずかしくなりましたから、)

いましたが、愛子に対しても気恥ずかしくなりましたから、

(もうあなたとはごえんをたちます。というまでもないことですわね。)

もうあなたとは御縁を断ちます。というまでもない事ですわね。

(もうじかんがきますからおたちくださいまし」)

もう時間が来ますからお立ちくださいまし」

(「わたし、ちっともしりませんでした。ほんとうにそのおからだで)

「わたし、ちっとも知りませんでした。ほんとうにそのおからだで

(しゅじゅつをおうけになるのですか」おかはあきれたようなかおをした。)

手術をお受けになるのですか」岡はあきれたような顔をした。

(「まいにちだいがくにいくつやはばかですからなにももうしあげなかったんでしょうよ。)

「毎日大学に行くつやはばかですから何も申し上げなかったんでしょうよ。

など

(もうしあげてもおきこえにならなかったかもしれませんわね」)

申し上げてもお聞こえにならなかったかもしれませんわね」

(とようこはほほえんで、まっさおになったかおにふりかかるかみのけを)

と葉子は微笑んで、まっさおになった顔にふりかかる髪の毛を

(ひだりのてできようにかきあげた。そのこゆびはやせほそってほねばかりのように)

左の手で器用にかき上げた。その小指はやせ細って骨ばかりのように

(なりながらも、うつくしいせんをえがいておれまがっていた。)

なりながらも、美しい線を描いて折れ曲がっていた。

(「それはぜひおのばしくださいおねがいしますから・・・)

「それはぜひお延ばしくださいお願いしますから・・・

(おいしゃさんもおいしゃさんだとおもいます」)

お医者さんもお医者さんだと思います」

(「わたしがわたしだもんですからね」)

「わたしがわたしだもんですからね」

(ようこはしげしげとおかをみやった。そのめからはなみだがすっかりかわいて、)

葉子はしげしげと岡を見やった。その目からは涙がすっかりかわいて、

(ひたいのところにはあぶらあせがにじみでていた。ふれてみたらこおりのようだろうと)

額の所には油汗がにじみ出ていた。触れてみたら氷のようだろうと

(おもわれるようなあおじろいつめたさがはえぎわかけてただよっていた。)

思われるような青白い冷たさが生えぎわかけて漂っていた。

(「ではせめてわたしにたちあわしてください」)

「ではせめてわたしに立ち会わしてください」

(「それほどまでにあなたはわたしがおにくいの?・・・ますいちゅうにわたしのいう)

「それほどまでにあなたはわたしがお憎いの?・・・麻酔中にわたしのいう

(うわごとでもきいておいてわらいばなしのたねになさろうというのね。ええ、ようございます)

囈言でも聞いておいて笑い話の種になさろうというのね。ええ、ようございます

(いらっしゃいまし、ごらんにいれますから。のろいのためにやせほそって)

いらっしゃいまし、御覧に入れますから。呪いのためにやせ細って

(おばあさんのようになってしまったこのからだをあたまからあしのつまさきまでごらんに)

お婆さんのようになってしまったこのからだを頭から足の爪先まで御覧に

(いれますから・・・いまさらおあきれになるよちもありますまいけれど」)

入れますから・・・今さらおあきれになる余地もありますまいけれど」

(そういってようこはやせほそったかおにあらんかぎりのこびをあつめて、)

そういって葉子はやせ細った顔にあらん限りの媚びを集めて、

(ながしめにおかをみやった。おかはおもわずかおをそむけた。)

流眄に岡を見やった。岡は思わず顔をそむけた。

(そこにわかいいいんがつやをつれてはいってきた。ようこはしゅじゅつのしたくが)

そこに若い医員がつやをつれてはいって来た。葉子は手術のしたくが

(できたことをみてとった。ようこはだまっていいんにちょっとあいさつしたまま)

できた事を見て取った。葉子は黙って医員にちょっと挨拶したまま

(えもんをつくろってすぐざをたった。それにつづいてへやをでてきたおかなどは)

衣紋をつくろってすぐ座を立った。それに続いて部屋を出て来た岡などは

(まったくむししたたいどで、あやしげなうすぐらいはしごだんをおりて、これもくらいろうかを)

全く無視した態度で、怪しげな薄暗い階子段を降りて、これも暗い廊下を

(しごけんたどってしゅじゅつしつのまえまできた。つやがとのはんどるをまわして)

四五間たどって手術室の前まで来た。つやが戸のハンドルを回して

(それをあけると、しゅじゅつしつからはさすがにまぶしいゆたかなこうせんが)

それをあけると、手術室からはさすがにまぶしい豊かな光線が

(ろうかのほうにながれてきた。そこでようこはおかのほうにはじめてふりかえった。)

廊下のほうに流れて来た。そこで葉子は岡のほうに始めて振り返った。

(「えんぽうをわざわざごくろうさま。わたしはまだあなたにはだをごらんにいれるほどの)

「遠方をわざわざ御苦労さま。わたしはまだあなたに肌を御覧に入れるほどの

(ばくれんものにはなっていませんから・・・」)

莫連者にはなっていませんから・・・」

(そうちいさなこえでいってゆうゆうとしゅじゅつしつにはいっていった。おかはもちろん)

そう小さな声でいって悠々と手術室にはいって行った。岡はもちろん

(おしきってあとについてはこなかった。)

押し切ってあとについては来なかった。

(きものをぬぐあいだに、せわにたったつやにようこはこうようやくにしていった。)

着物を脱ぐ間に、世話に立ったつやに葉子はこうようやくにしていった。

(「おかさんがはいりたいとおっしゃってもいれてはいけないよ。それから)

「岡さんがはいりたいとおっしゃっても入れてはいけないよ。それから

(・・・それから(ここでようこはなにがなしになみだぐましくなった)もしわたしが)

・・・それから(ここで葉子は何がなしに涙ぐましくなった)もしわたしが

(うわごとのようなことでもいいかけたら、おまえにいっしょうのおねがいだからね、)

囈言のような事でもいいかけたら、お前に一生のお願いだからね、

(わたしのくちを・・・くちをおさえてころしてしまっておくれ。たのむよ。きっと!」)

わたしの口を・・・口を抑えて殺してしまっておくれ。頼むよ。きっと!」

(ふじんかびょういんのこととておんなのらたいはまいにちいくにんとなくあつかいつけているくせに、やはり)

婦人科病院の事とて女の裸体は毎日幾人となく扱いつけているくせに、やはり

(こうきなめをむけてようこをみまもっているらしいじょしゅたちに、ようこはやせさらばえた)

好奇な目を向けて葉子を見守っているらしい助手たちに、葉子はやせさらばえた

(じぶんをさらけだしてみせるのがしぬよりつらかった。ふとしたできごころから)

自分をさらけ出して見せるのが死ぬよりつらかった。ふとした出来心から

(おかにたいしていったことばが、ようこのあたまにはいつまでもこびりついて、さだよはもう)

岡に対していった言葉が、葉子の頭にはいつまでもこびり付いて、貞世はもう

(ほんとうにしんでしまったもののようにおもえてしかたがなかった。さだよがしんで)

ほんとうに死んでしまったもののように思えてしかたがなかった。貞世が死んで

(しまったのになにをくるしんでしゅじゅつをうけることがあろう。そうおもわないでも)

しまったのに何を苦しんで手術を受ける事があろう。そう思わないでも

(なかった。しかしばあいがばあいでこうなるよりしかたがなかった。)

なかった。しかし場合が場合でこうなるよりしかたがなかった。

(まっしろなしゅじゅついをきたいいんやかんごふにかこまれて、やはりまっしろなしゅじゅつだいは)

まっ白な手術衣を着た医員や看護婦に囲まれて、やはりまっ白な手術台は

(はかばのようにようこをまっていた。そこにちかづくとようこはわれにもなく)

墓場のように葉子を待っていた。そこに近づくと葉子はわれにもなく

(きゅうにおびえがでた。おもいきりえいりなめすでてぎわよくきりとってしまったら)

急におびえが出た。思いきり鋭利なメスで手際よく切り取ってしまったら

(さぞさっぱりするだろうとおもっていたようぶのどんつうも、きゅうにいたみがとまって)

さぞさっぱりするだろうと思っていた腰部の鈍痛も、急に痛みが止まって

(しまって、からだぜんたいがしびれるようにしゃちこばってひやあせがひたいにもてにも)

しまって、からだ全体が痺れるようにしゃちこばって冷や汗が額にも手にも

(しとどにながれた。ようこはただひとつのいしゃのようにつやをかえりみた。そのつやの)

しとどに流れた。葉子はただ一つの慰藉のようにつやを顧みた。そのつやの

(はげますようなかおをただひとつのたよりにして、こまかくふるえながらあおむけに)

励ますような顔をただ一つのたよりにして、細かく震えながら仰向けに

(ひやっとするしゅじゅつだいによこたわった。いいんのひとりがはくふのくちあてをくちからはなのうえに)

冷やっとする手術台に横たわった。医員の一人が白布の口あてを口から鼻の上に

(あてがった。それだけでようこはもういきがつまるほどのおもいをした。そのくせ)

あてがった。それだけで葉子はもう息がつまるほどの思いをした。そのくせ

(めはみょうにさえてめのまえにみるてんじょういたのこまかいもくめまでがうごいてはしるように)

目は妙に冴えて目の前に見る天井板の細かい木目までが動いて走るように

(ながめられた。しんけいのまっしょうがおおかぜにあたったようにざわざわとこきみわるく)

ながめられた。神経の末梢が大風にあたったようにざわざわと小気味わるく

(さわぎたった。しんぞうがいきぐるしいほどときどきはたらきをとめた。)

騒ぎ立った。心臓が息苦しいほど時々働きを止めた。

(やがてほうふんのはげしいやくてきがぬののうえにたらされた。)

やがて芳芬の激しい薬滴が布の上にたらされた。

(ようこはりょうてのみゃくどころをいいんにとられながら、そのにおいをうすきみわるくかいだ。)

葉子は両手の脈所を医員に取られながら、その香いを薄気味わるく嗅いだ。

(「ひとーつ」しっとうしゃがにぶいこえでこういった。)

「ひとーつ」執刀者が鈍い声でこういった。

(「ひとーつ」ようこのそれにおうずるこえははげしくふるえていた。)

「ひとーつ」葉子のそれに応ずる声は激しく震えていた。

(「ふたーつ」ようこはせいめいのとうとさをしみじみとおもいしった。)

「ふたーつ」葉子は生命の尊さをしみじみと思い知った。

(しもしくはしのとなりへまでのふしぎなぼうけん、そうおもうとちはこおるかとうたがわれた。)

死もしくは死の隣へまでの不思議な冒険、そう思うと血は凍るかと疑われた。

(「ふたーつ」ようこのこえはますますふるえた。)

「ふたーつ」葉子の声はますます震えた。

(こうしてかずをよんでいくうちに、あたまのなかがしんしんとさえるようになっていった)

こうして数を読んで行くうちに、頭の中がしんしんと冴えるようになって行った

(とおもうと、よのなかがひとりでにとおのくようにおもえた。ようこはがまんが)

と思うと、世の中がひとりでに遠のくように思えた。葉子は我慢が

(できなかった。いきなりみぎてをふりほどいてちからまかせにくちのところをかいはらった。)

できなかった。いきなり右手を振りほどいて力任せに口の所を掻い払った。

(しかしいいんのちからはすぐようこのじゆうをうばってしまった。ようこはたしかにそれに)

しかし医員の力はすぐ葉子の自由を奪ってしまった。葉子は確かにそれに

(あらがっているつもりだった。)

あらがっているつもりだった。

(「くらちがいきているあいだーーしぬものか、・・・どうしてももういちどそのむねに)

「倉地が生きている間ーー死ぬものか、・・・どうしてももう一度その胸に

(・・・やめてください。きょうきでしぬともころされたくはない。)

・・・やめてください。狂気で死ぬとも殺されたくはない。

(やめて・・・ひとごろし」)

やめて・・・人殺し」

(そうおもったのかいったのかじぶんながらどっちともさだめかねながらようこはもだえた。)

そう思ったのか言ったのか自分ながらどっちとも定めかねながら葉子は悶えた。

(「いきるいきる・・・しぬのはいやだ・・・ひとごろし!・・・」)

「生きる生きる・・・死ぬのはいやだ・・・人殺し!・・・」

(ようこはちからのあらんかぎりたたかった、いしゃともくすりとも・・・うんめいとも・・・)

葉子は力のあらん限り戦った、医者とも薬とも・・・運命とも・・・

(ようこはえいきゅうにたたかった。)

葉子は永久に戦った。

(しかしようこはにじゅうもかずをよまないうちに、しんだものどうように)

しかし葉子は二十も数を読まないうちに、死んだ者同様に

(いしきなくいいんらのめのまえによこたわっていたのだ。)

意識なく医員らの目の前に横たわっていたのだ。

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