海野十三 蠅男㉕
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問題文
(あらわれたはえおとこ)
◇現われた蠅男◇
(ほむらたんていのひっしのついせきぶりが、てんいんせんせいのにぶいこころにもかんじたのであろうか、)
帆村探偵の必死の追跡ぶりが、店員先生の鈍い心にも感じたのであろうか、
(それともせんせいののったみそだるがあまりにがたがたゆれるのでたるよいが)
それとも先生の乗った味噌樽があまりにガタガタ揺れるので樽酔いが
(したのであろうか、とにかくてんいんせんせいはさんりんしゃのうしろにしがみついたまま、)
したのであろうか、とにかく店員先生は三輪車の後ろに獅噛がみついたまま、
(もうどろぼうなどとはわめかなかった。)
もう泥棒などとは喚かなかった。
(おう、たるのうえのあんちゃんよおほむらはまたこえをはりあげてさけんだ。)
「おう、樽の上のあんちゃんよオ」帆村はまた声を張りあげて叫んだ。
(なんや、おれのことかきみ、なにかかくものをもっているだろう)
「なんや、俺のことか」「君、何か書くものを持っているだろう」
(もってえへんがなうそをつくな、てちょうかなんかもっているだろう。)
「持ってえへんがな」「嘘をつくな、手帳かなんか持っているだろう。
(それをやぶいて、にじゅうまいぐらいのかみきれをこしらえるんだ)
それを破いて、二十枚ぐらいの紙切れをこしらえるんだ」
(ほむらははあはあといきをきった。じどうしゃとのきょりはまだごひゃくめーとるぐらいある。)
帆村はハアハアと息を切った。自動車との距離はまだ五百メートルぐらいある。
(そのしへんをどないするねんううん。ーーそのしへんにね、じをかいてくれ。)
「その紙片をどないするねン」「ううン。ーーその紙片にネ、字を書いてくれ。
(なるべくぺんがいいだれがじをかくねんあんちゃんがかいておくれよ)
なるべくペンがいい」「誰が字を書くねン」「あんちゃんが書いておくれよ」
(あほらしい。こんながたがたくるまのうえで、かけるかちゅんや)
「あほらしい。こんなガタガタ車の上で、書けるかちゅんや」
(なんでもいい。ぜひかいてくれ。そしてかいたやつはどんどんみちばたに)
「なんでもいい。是非書いてくれ。そして書いたやつはドンドン道傍に
(すててくれ。だれかひろってくれるだろう)
捨ててくれ。誰か拾ってくれるだろう」
(かけといったってむりや。かたてはなすと、くるまのうえからおちてしまうがな)
「書けといったって無理や。片手離すと、車の上から落ちてしまうがな」
(ちえっ、もうもんどうはしない。かけといったらかかんか。かかなきゃ、)
「ちえッ、もう問答はしない。書けといったら書かんか。書かなきゃ、
(このくるまごと、がけのうえからとびおりるぞ。いのちがおしくないか。ぼくはもうきが)
この車ごと、崖の上から飛び下りるぞ。命が惜しくないか。僕はもう気が
(へんになりそうなんだ。あああ、わわあ)
変になりそうなんだ。ああア、わわア」
(これがてんいんせんせいにすこぶるきいた。)
これが店員先生に頗る利いた。
(うわっ、きがへんになったらあかへんが。かくがなかくがな。)
「うわッ、気が変になったらあかへんが。書くがな書くがな。
(かきますかきます、じでもえでもなんでもかきます。ええもしどてらのせんせい、)
書きます書きます、字でも絵でも何でも書きます。ええもし どてらの先生、
(きをしっかりもっとくれやすや。きがへんになったらあきまへんでえ)
気をしっかり持っとくれやすや。気が変になったらあきまへんでえ」
(ほむらはむこうをむいてにがわらいをした。)
帆村は向こうを向いて苦笑いをした。
(きみのなはなんというまるとくしょうてんのちょうきちだす)
「君の名は何という」「丸徳商店の長吉だす」
(ではちょうどん。いいかね、こうかいてくれたまえ。)
「では長どん。いいかネ、こう書いてくれたまえ。
(ーーはえおとこらしきじんぶつがさんごろくろくごごうのじどうしゃでたからづかよりありまほうめんへにげる。)
ーー蠅男ラシキ人物ガ三五六六五号ノ自動車デ宝塚ヨリ有馬方面へ逃ゲル。
(けいさつてはいたのむ、ごごにじたんていほむら)
警察手配タノム、午後二時探偵帆村」
(なんや、はえおとこて、どうかくんやはえはなつになるとでるかやはえの)
「なんや、ハエオトコて、どう書くんや」「ハエは夏になると出る蚊や蠅の
(はえだ。おとこはだんじょのおとこだ。かたかなでかいたほうがかきやすい)
蠅だ。オトコは男女の男だ。片仮名で書いた方が書きやすい」
(うへーっ、はえおとこ!するとこれはあのしんぶんにでているさつじんまの)
「うへーッ、蠅男! するとこれはあの新聞に出ている殺人魔の
(はえおとこのことだすかそうだ。そのはえおとこらしいのが、むこうにいくじどうしゃの)
蠅男のことだすか」「そうだ。その蠅男らしいのが、向こうに行く自動車の
(なかにのっているんだうへっ。そんならいまあんたとわたしとで、はえおとこを)
中に乗っているんだ」「うへッ。そんなら今あんたと私とで、蠅男を
(おいかけよるのだすか。うわーっ、えらいこっちゃ。はえおとこにころされてしまう)
追いかけよるのだすか。うわーッ、えらいこっちゃ。蠅男に殺されてしまう
(がな。じやかてかけまへん。おことわりやまたことわるのかね。じゃ、がけから)
がな。字やかて書けまへん。お断りや」「また断るのかネ。じゃ、崖から
(くるまごととびおりてもいいんだねうわーっ、それもちょっとまった。)
車ごと飛び下りてもいいんだネ」「うわーッ、それも一寸待った。
(こらよわってしもたなあ。どっちへいってもいのちがないわ。こんなんやったら、)
こら弱ってしもたなア。どっちへ行っても命がないわ。こんなんやったら、
(あのこのにおいをかぎたいばっかりにふるーつぽんちいっぱいでりたろうから)
あの子の匂いを嗅ぎたいばっかりにフルーツポンチ一杯で利太郎から
(たからづかまわりをゆずってもらうんやなかった。てんのうじのうらないしが、おまえはちかいうち)
宝塚まわりを譲ってもらうんやなかった。天王寺の占い師が、お前は近いうち
(おんなのこでしっぱいするというとったがこらまさしくほんまやな)
女の子で失敗するというとったがこら正(まさ)しくほんまやナ」
(さあちょうどん。ぐずぐずいわんではやくかいた。むこうにじんかがみえる。しへんを)
「さあ長どん。ぐずぐず云わんで早く書いた。向こうに人家が見える。紙片を
(おとすのにつごうがいいところだ。ーーさあ、ぺんをもってはえおとこと)
落とすのに都合がいいところだ。ーーさあ、ペンを持ってハエオトコと
(やった。ーーうわーっ、か、かきます。おどっているたるのうえでもかまへん。)
やった。ーー」「うわーッ、か、書きます。踊っている樽の上でもかまへん。
(かくというたらかきますがな。しかしとびおりたらあかんでえ)
書くというたら書きますがな。しかし飛び下りたらあかんでえ」
(たいへんなてまどりようであったが、ついにほむらのめいれいがてんいんちょうきちによって)
たいへんな手間取りようであったが、ついに帆村の命令が店員長吉によって
(おこなわれた。ちょうきちはたるのうえにはらばいになって、かきにくいじをかいた。そして)
行われた。長吉は樽の上に腹這いになって、書きにくい字を書いた。そして
(いちまいかけると、それをてちょうからひきちぎってそとにまいた。はじめはよういに)
一枚書けると、それを手帳から引きちぎって外に撒いた。始めは容易に
(がえんじないでも、いったんしょうちしたとなるとぜんりょくをあげてせいじつをつくすのが)
肯んじないでも、一旦承知したとなると全力をあげて誠実をつくすのが
(ちょうきちのいいせいかくだった。かれはこのこんなんなしごとをいっしんふらんにやりつづけた。)
長吉のいい性格だった。彼はこの困難な仕事を一心不乱にやり続けた。
(じどうしゃはすっかりやまのなかへはいってしまった。かいじんののったじどうしゃとのきょりは)
自動車はすっかり山の中へ入ってしまった。怪人の乗った自動車との距離は
(だんだんとちかづいて、あとにひゃくめーとるになった。このちょうしではまもなく)
だんだんと近づいて、あと二百メートルになった。この調子では間もなく
(おいつくことができるだろう。ほむらははぎしりかんで、はんどるをしっかりと)
追いつくことができるだろう。帆村は歯ぎしり噛んで、ハンドルをしっかりと
(とりつづけた。かれのぜんしんはかぜにあたってこおりのようにひえてきた。がそりんの)
取り続けた。彼の全身は風に当たって氷のように冷えてきた。ガソリンの
(つきないことがゆいいつのねがいだった。)
尽きないことが唯一の願いだった。
(のぼりみちがひだりのほうにまがっている。)
上り道が左の方に曲がっている。
(まずかいじんののったじどうしゃがさせつして、やまのはしからすがたをけしさった。つづいて)
まず怪人の乗った自動車が左折して、山の端から姿を消し去った。続いて
(ほむらとちょうきちとののったおーとさんりんしゃがぽくぽくとあえぎながらさかみちをのぼって)
帆村と長吉との乗ったオート三輪車がポクポクとあえぎながら坂道をのぼって
(いった。そしておなじくやまのはしをぐっとさせつした。このときほむらは、ぜんぽうに)
いった。そして同じく山の端をぐっと左折した。このとき帆村は、前方に
(こんどはくだりゆくじどうしゃがきゅうにみちからはずれそうになってはしるのをみた。)
今度は下りゆく自動車が急に道から外れそうになって走るのを見た。
(あっ、あぶないっ)
「あッ、危ないッ」
(と、こえをかけたが、これはもうおそかった。かいじんののったじどうしゃは、)
と、声をかけたが、これはもう遅かった。怪人の乗った自動車は、
(どうしたわけかしだいにみぎにかたむいてに、さんどゆらぐとみるまに、しゃたいがみぎに)
どうしたわけか次第に右に傾いて二、三度揺らぐと見る間に、車体が右に
(いっかいてんした。したはひゃくめーとるほどのさんきょうだった。なんじょうもってたまるべき、)
一回転した。下は百メートルほどの山峡だった。何条もってたまるべき、
(おうてんしたじどうしゃははずみをくらって、まりのようにぽんぽんはずみながら、つちけむりとともに)
横転した自動車は弾みをくらって、毬のようにポンポン弾みながら、土煙と共に
(ころげおちていった。そしてついにしたまでとどくと、くしゃとつぶれてしまった。)
転げ落ちていった。そして遂に下まで届くと、くしゃと潰れてしまった。
(ほむらはかろうじてせいどうをかけて、さんりんしゃをみちのまんなかにとめた。)
帆村は辛うじて制動をかけて、三輪車を道の真ん中に停めた。
(うわーっ、えらいこっちゃ)
「うわーッ、えらいこっちゃ」
(うむ、てんめいだな。あんなにころげておちてはもういのちはあるまい)
「うむ、天命だな。あんなに転げて落ちてはもう命はあるまい」
(ほむらとちょうきちとは、くるまからおりてぼうぜんとがけのそこをじっとみおろした。つちけむりが)
帆村と長吉とは、車から下りて呆然と崖の底をジッと見下ろした。土煙が
(だんだんしずまって、むざんにもはかいしたしゃたいがみえてきた。しゃたいはうらがえしに)
だんだん静まって、無慚にも破壊した車体が見えてきた。車体は裏返しに
(なり、よっつのしゃりんがちゅうにもがいているようにみえた。)
なり、四つの車輪が宙に藻掻いているように見えた。
(しばらくじっとみつめていたが、くるまのなかからはだれもはいだしてこなかった。)
暫くジッと見つめていたが、車の中からは誰も這い出してこなかった。
(さあ、すぐおりていってみよう。じどうしゃのなかには、だれがはいっているか、)
「さあ、すぐ下りていってみよう。自動車の中には、誰が入っているか、
(そいつをはやくしらべなきゃならない。ちょうどん、ひとつちからをかしてくれたまえ)
そいつを早く調べなきゃならない。長どん、一つ力を貸してくれたまえ」
(だいじょうぶだすやろか。ちかづくなりはえおとこがとびだしてきやしまへんか)
「大丈夫だすやろか。近づくなり蠅男が飛び出して来やしまへんか」
(いいやだいじょうぶだろう。しんでいるか、またはきぜつしているかどっちかだよ。)
「いいや大丈夫だろう。死んでいるか、または気絶しているかどっちかだよ。
(しかしなにかえものをもってゆくにこしたことはないだろう)
しかし何か得物を持ってゆくに越したことはないだろう」
(きがついてみるとほむらはこしにいっぽんのてつのぼうをさしていた。これはせんこく、)
気がついてみると帆村は腰に一本の鉄の棒を差していた。これは先刻、
(いけたにひかえやのまえのはやしのなかでひろったごしんようのてつぼうだった。おびにはさんでせなかに)
池谷控家の前の林の中で拾った護身用の鉄棒だった。帯に挿んで背中に
(まわしてあったので、うまくおちないでもってこられたのだった。ちょうきちは)
まわしてあったので、うまく落ちないで持って来られたのだった。長吉は
(しかたなくこしからてぬぐいをとって、そのはしにてごろのいしをしっかりつつんだ。)
仕方なく腰から手拭いを取って、その端に手頃の石をしっかり包んだ。
(もしはえおとこがでたら、はしをもってこのつつんだいしをふりまわすつもりだった。)
もし蠅男が出たら、端を持ってこの包んだ石を振り廻すつもりだった。
(ふたりは、せのたけほどもあるふかいざっそうのなかをかきわけるようにして、)
二人は、背の丈ほどもある深い雑草の中を掻きわけるようにして、
(さんきょうをおりていった。)
山峡を下りていった。
(じゅっぷんほどかかって、ふたりはついにたにのそこについた。ほろはさけてっぱんはくぼみ、)
十分ほど懸かって、二人は遂に谷の底についた。幌は裂け鉄板は凹み、
(しゃたいはみるもむざんなこわれかたであった。)
車体は見るも無慚な壊れ方であった。
(ほむらはゆうかんにも、ぐるっとこうぶのほうにまわってからじどうしゃのほうにはっていった。)
帆村は勇敢にも、ぐるっと後部の方に廻ってから自動車の方に這っていった。
(ちょうきちはかたずをのんで、ほむらのたいどをちゅうししていた。)
長吉は固唾を嚥んで、帆村の態度を注視していた。
(ほむらはとびつくようにしてついにしゃたいにぴったりとくっついた。かれのくびが)
帆村は飛びつくようにして遂に車体にピッタリとくっついた。彼の首が
(しだいしだいにあがってきて、やがてほろのやぶれめからしゃないをのぞきこんだ。)
次第次第に上がってきて、やがて幌の破れ目から車内を覗きこんだ。
(そのときである。ほむらがきもをつぶすようなおおきなこえでさけんだのは・・・。)
そのときである。帆村が胆をつぶすような大きな声で叫んだのは・・・。
(これはへんだ。じどうしゃはからっぽだ。なかにはだれものっていないぞっ)
「これは変だ。自動車は空っぽだ。中には誰も乗っていないぞッ」