坊ちゃん⑺
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問題文
(いえをたたんでからもきよのところへはおりおりいった。)
家を畳んでからも清の所へは折々行った。
(きよのおいというのはぞんがいけっこうなひとである。)
清の甥というのは存外結構な人である。
(おれがいくたびに、おりさえすれば、なにくれともてなしてくれた。)
おれが行くたびに、居りさえすれば、何くれと款待なしてくれた。
(きよはおれをまえへおいて、いろいろおれのじまんをおいにきかせた。)
清はおれを前へ置いて、いろいろおれの自慢を甥に聞かせた。
(いまにがっこうをそつぎょうするとこうじまちあたりへやしきをかって)
今に学校を卒業すると麹町辺へ屋敷を買って
(やくしょへかようのだなどとふいちょうしたこともある。)
役所へ通うのだなどと吹聴した事もある。
(ひとりできめてひとりでしゃべるから、こっちはこまってかおをあかくした。)
独りで極めて一人で喋舌るから、こっちは困まって顔を赤くした。
(それもいちどやにどではない。)
それも一度や二度ではない。
(おりおりおれがちいさいときねしょうべんをしたことまでもちだすにはへいこうした。)
折々おれが小さい時寝小便をした事まで持ち出すには閉口した。
(おいはなんとおもってきよのじまんをきいていたかわからぬ。)
甥は何と思って清の自慢を聞いていたか分らぬ。
(ただきよはむかしふうのおんなだから、)
ただ清は昔風の女だから、
(じぶんとおれのかんけいをほうけんじだいのしゅじゅうのようにかんがえていた。)
自分とおれの関係を封建時代の主従のように考えていた。
(じぶんのしゅじんならおいのためにもしゅじんにそういないとがてんしたものらしい。)
自分の主人なら甥のためにも主人に相違ないと合点したものらしい。
(おいこそいいつらのかわだ。)
甥こそいい面の皮だ。
(いよいよやくそくがきまって、もうたつというみっかまえにきよをたずねたら、)
いよいよ約束が極まって、もう立つと云う三日前に清を尋ねたら、
(きたむきのさんじょうにかぜをひいてねていた。)
北向きの三畳に風邪を引いて寝ていた。
(おれのきたのをみておきなおるがはやいか、)
おれの来たのを見て起き直るが早いか、
(ぼっちゃんいつうちをおもちなさいますときいた。)
坊っちゃんいつ家をお持ちなさいますと聞いた。
(そつぎょうさえすればかねがしぜんとぽっけっとのなかにわいてくるとおもっている。)
卒業さえすれば金が自然とポッケットの中に湧いて来ると思っている。
(そんなにえらいひとをつらまえて、)
そんなにえらい人をつらまえて、
(まだぼっちゃんとよぶのはいよいよばかげている。)
まだ坊っちゃんと呼ぶのはいよいよ馬鹿気ている。
(おれはぜんかんにとうぶんうちはもたない。いなかへいくんだといったら、)
おれは単簡に当分うちは持たない。田舎へ行くんだと云ったら、
(ひじょうにしつぼうしたようすで、ごましおのびんのみだれをしきりになでた。)
非常に失望した容子で、胡麻塩の鬢の乱れをしきりに撫でた。
(あまりきのどくだから「いくことはいくがじきかえる。らいねんのなつやすみにはきっとかえる」)
あまり気の毒だから「行く事は行くがじき帰る。来年の夏休みにはきっと帰る」
(となぐさめてやった。)
と慰めてやった。
(それでもみょうなかおをしているから「なにをみやげにかってきてやろう、なにがほしい」)
それでも妙な顔をしているから「何を見やげに買って来てやろう、何が欲しい」
(ときいてみたら「えちごのささあめがたべたい」といった。)
と聞いてみたら「越後の笹飴が食べたい」と云った。
(えちごのささあめなんてきいたこともない。だいいちほうがくがちがう。)
越後の笹飴なんて聞いた事もない。第一方角が違う。
(「おれのいくいなかにはささあめはなさそうだ」といってきかしたら)
「おれの行く田舎には笹飴はなさそうだ」と云って聞かしたら
(「そんなら、どっちのけんとうです」とききかえした。)
「そんなら、どっちの見当です」と聞き返した。
(「にしのほうだよ」というと「はこねのさきですかてまえですか」ととう。)
「西の方だよ」と云うと「箱根のさきですか手前ですか」と問う。
(ずいぶんもてあました。)
随分持てあました。
(しゅったつのひにはあさからきて、いろいろせわをやいた。)
出立の日には朝から来て、いろいろ世話をやいた。
(くるとちゅうこまものやでかってきたはみがきとようじとてぬぐいをずっくのかわかばんにいれてくれた)
来る途中小間物屋で買って来た歯磨と楊子と手拭をズックの革鞄に入れてくれた
(そんなものはいらないといってもなかなかしょうちしない。)
そんな物は入らないと云ってもなかなか承知しない。
(くるまをならべてていしゃじょうへついて、ぷらっとふぉーむのうえへでたとき、)
車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た時、
(くるまへのりこんだおれのかおをじっとみて「もうおわかれになるかもしれません。)
車へ乗り込んだおれの顔をじっと見て「もうお別れになるかも知れません。
(ずいぶんごきげんよう」とちいさなこえでいった。)
随分ご機嫌よう」と小さな声で云った。
(めになみだがいっぱいたまっている。)
目に涙が一杯たまっている。
(おれはなかなかった。しかしもうすこしでなくところであった。)
おれは泣かなかった。しかしもう少しで泣くところであった。
(きしゃがよっぽどうごきだしてから、もうだいじょうぶだろうとおもって、)
汽車がよっぽど動き出してから、もう大丈夫だろうと思って、
(まどからくびをだして、ふりむいたら、やっぱりたっていた。)
窓から首を出して、振り向いたら、やっぱり立っていた。
(なんだかたいへんちいさくみえた。)
何だか大変小さく見えた。