坊ちゃん(19)
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問題文
(それからかなりゆるりと、でたりはいったりして、ようやくひぐれがたになったから)
それからかなりゆるりと、出たりはいったりして、ようやく日暮方になったから
(きしゃへのってこまちのていしゃじょうまできておりた。)
汽車へ乗って古町の停車場まで来て下りた。
(がっこうまではこれからよんちょうだ。わけはないとあるきだすと、むこうからたぬきがきた。)
学校まではこれから四丁だ。訳はないとあるき出すと、向うから狸が来た。
(たぬきはこれからこのきしゃでおんせんへいこうというけいかくなんだろう。)
狸はこれからこの汽車で温泉へ行こうと云う計画なんだろう。
(すたすたいそぎあしにやってきたが、)
すたすた急ぎ足にやってきたが、
(すれちがったときおれのかおをみたから、ちょっとあいさつをした。)
擦れ違った時おれの顔を見たから、ちょっと挨拶をした。
(するとたぬきはあなたはきょうはしゅくちょくではなかったですかねえとまじめくさってきいた)
すると狸はあなたは今日は宿直ではなかったですかねえと真面目くさって聞いた
(なかったですかねえもないもんだ。)
なかったですかねえもないもんだ。
(にじかんまえおれにむかってこんやははじめてのしゅくちょくですね。)
二時間前おれに向って今夜は始めての宿直ですね。
(ごくろうさま。とれいをいったじゃないか。)
ご苦労さま。と礼を云ったじゃないか。
(こうちょうなんかになるといやにまがりくねったことばをつかうもんだ。)
校長なんかになるといやに曲りくねった言葉を使うもんだ。
(おれははらがたったから、ええしゅくちょくです。)
おれは腹が立ったから、ええ宿直です。
(しゅくちょくですから、これからかえってとまることはたしかにとまりますといいすてて)
宿直ですから、これから帰って泊る事はたしかに泊りますと云い捨てて
(すましてあるきだした。)
済ましてあるき出した。
(たてまちのよつかどまでくるとこんどはやまあらしにでっくわした。どうもせまいところだ。)
竪町の四つ角までくると今度は山嵐に出っ喰わした。どうも狭い所だ。
(でてあるきさえすればかならずだれかにあう。)
出てあるきさえすれば必ず誰かに逢う。
(「おいきみはしゅくちょくじゃないか」ときくから「うん、しゅくちょくだ」とこたえたら、)
「おい君は宿直じゃないか」と聞くから「うん、宿直だ」と答えたら、
(「しゅくちょくがむやみにでてあるくなんて、ふつごうじゃないか」といった。)
「宿直が無暗に出てあるくなんて、不都合じゃないか」と云った。
(「ちっともふつごうなもんか、でてあるかないほうがふつごうだ」といばってみせた。)
「ちっとも不都合なもんか、出てあるかない方が不都合だ」と威張ってみせた。
(「きみのずぼらにもこまるな、こうちょうかきょうとうにであうとめんどうだぜ」)
「君のずぼらにも困るな、校長か教頭に出逢うと面倒だぜ」
(とやまあらしににあわないことをいうから)
と山嵐に似合わない事を云うから
(「こうちょうにはたったいまあった。あついときにはさんぽでもしないとしゅくちょくもほねでしょうと)
「校長にはたった今逢った。暑い時には散歩でもしないと宿直も骨でしょうと
(こうちょうが、おれのさんぽをほめたよ」といって、)
校長が、おれの散歩をほめたよ」と云って、
(めんどうくさいから、さっさとがっこうへかえってきた。)
面倒臭いから、さっさと学校へ帰って来た。
(それからひはすぐくれる。)
それから日はすぐくれる。
(くれてからにじかんばかりはこづかいをしゅくちょくべやへよんではなしをしたが、)
くれてから二時間ばかりは小使を宿直部屋へ呼んで話をしたが、
(それもあきたから、ねられないまでもとこへはいろうとおもって、)
それも飽きたから、寝られないまでも床へはいろうと思って、
(ねまきにきかえて、かやをまくって、あかいけっとをはねのけて、)
寝巻に着換えて、蚊帳を捲くって、赤い毛布(けっと)を跳ねのけて、
(とんとしりもちをついて、あおむけになった。)
とんと尻持を突いて、仰向けになった。
(おれがねるときにとんとしりもちをつくのはこどものときからのくせだ。)
おれが寝るときにとんと尻持をつくのは小供の時からの癖だ。
(わるいくせだといっておがわまちのげしゅくにいたじぶん、)
わるい癖だと云って小川町の下宿に居た時分、
(にかいしたにいたほうりつがっこうのしょせいがくじょうをもちこんだことがある。)
二階下に居た法律学校の書生が苦情を持ち込んだ事がある。
(ほうりつのしょせいなんてものはよわいくせに、やにくちがたっしゃなもので、)
法律の書生なんてものは弱い癖に、やに口が達者なもので、
(ぐなことをながたらしくのべたてるから、)
愚な事を長たらしく述べ立てるから、
(ねるときにどんどんおとがするのはおれのしりがわるいのじゃない。)
寝る時にどんどん音がするのはおれの尻がわるいのじゃない。
(げしゅくのけんちくがそまつなんだ。かけあうならげしゅくへかけあえとへこましてやった。)
下宿の建築が粗末なんだ。掛ケ合うなら下宿へ掛ケ合えと凹ましてやった。
(このしゅくちょくべやはにかいじゃないから、いくら、どしんとたおれてもかまわない。)
この宿直部屋は二階じゃないから、いくら、どしんと倒れても構わない。
(なるべくいきおいよくたおれないとねたようなこころもちがしない。)
なるべく勢よく倒れないと寝たような心持ちがしない。
(ああゆかいだとあしをうんとのばすと、なんだかりょうあしへとびついた。)
ああ愉快だと足をうんと延ばすと、何だか両足へ飛び付いた。
(ざらざらしてのみのようでもないからこいつあとおどろいて、)
ざらざらして蚤のようでもないからこいつあと驚ろいて、
(あしをにさんどけっとのなかでふってみた。)
足を二三度毛布(けっと)の中で振ってみた。
(するとざらざらとあたったものが、きゅうにふえだしてすねがごろっかしょ、)
するとざらざらと当ったものが、急に殖え出して脛が五六カ所、
(ももがにさんかしょ、しりのしたでぐちゃりとふみつぶしたのがひとつ、)
股が二三カ所、尻の下でぐちゃりと踏み潰したのが一つ、
(へそのところまでとびあがったのがひとつーーいよいよおどろいた。)
臍の所まで飛び上がったのが一つーーいよいよ驚ろいた。
(さっそくおきあがって、けっとをぱっとうしろへほうると、)
早速起き上って、毛布(けっと)をぱっと後ろへ抛ると、
(ふとんのなかから、ばったがごろくじゅうとびだした。)
蒲団の中から、バッタが五六十飛び出した。
(しょうたいのしれないときはたしょうきみがわるかったが、)
正体の知れない時は多少気味が悪るかったが、
(ばったとそうばがきまってみたらきゅうにはらがたった。)
バッタと相場が極まってみたら急に腹が立った。
(ばったのくせにひとをおどろかしやがって、どうするかみろと、)
バッタの癖に人を驚ろかしやがって、どうするか見ろと、
(いきなりくくりまくらをとって、にさんどたたきつけたが、)
いきなり括り枕を取って、二三度擲きつけたが、
(あいてがちいさすぎるからいきおいよくなげつけるわりにききめがない。)
相手が小さ過ぎるから勢よく抛げつける割に利目がない。
(しかたがないから、またふとんのうえへすわって、)
仕方がないから、また布団の上へ坐って、
(すすはきのときにござをまるめてたたみをたたくように、そこらきんぺんをむやみにたたいた。)
煤掃の時に蓙を丸めて畳を叩くように、そこら近辺を無暗にたたいた。
(ばったがおどろいたうえに、まくらのいきおいでとびあがるものだから、)
バッタが驚ろいた上に、枕の勢で飛び上がるものだから、
(おれのかただの、あたまだのはなのさきだのへくっついたり、ぶつかったりする。)
おれの肩だの、頭だの鼻の先だのへくっ付いたり、ぶつかったりする。
(かおへついたやつはまくらでたたくわけにいかないから、てでつかんで、いっしょうけんめいにたたきつける)
顔へ付いた奴は枕で叩く訳に行かないから、手で攫んで、一生懸命に擲きつける
(いまいましいことに、いくらちからをだしても、)
忌々しい事に、いくら力を出しても、
(ぶつかるさきがかやだから、ふわりとうごくだけですこしもてごたえがない。)
ぶつかる先が蚊帳だから、ふわりと動くだけで少しも手答がない。
(ばったはたたきつけられたままかやへつらまっている。しにもどうもしない。)
バッタは擲きつけられたまま蚊帳へつらまっている。死にもどうもしない。
(ようやくのことにさんじゅっぷんばかりでばったはたいじた。)
ようやくの事に三十分ばかりでバッタは退治た。
(ほうきをもってきてばったのしがいをはきだした。)
箒を持って来てバッタの死骸を掃き出した。
(こづかいがきてなんですかというから、なんですかもあるもんか、)
小使が来て何ですかと云うから、何ですかもあるもんか、
(ばったをとこのなかにかっとくやつがどこのくににある。まぬけめ。)
バッタを床の中に飼っとく奴がどこの国にある。間抜め。
(としかったら、わたしはぞんじませんとべんかいをした。)
と叱ったら、私は存じませんと弁解をした。
(ぞんじませんですむかとほうきをたるきがわへほりだしたら、)
存じませんで済むかと箒を椽側へ抛り出したら、
(こづかいはおそるおそるほうきをかついでかえっていった。)
小使は恐る恐る箒を担いで帰って行った。