血の盃 小酒井不木 ②

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プレイ回数1472難易度(4.5) 6060打 長文
資産家の息子良雄と、貧しい家庭のあさ子は恋仲になる。
やがてあさ子の身体に、良雄が起因となる異変が起きるが、良雄はあさ子を捨ててしまう。
その頃からあさ子は不可解な行動をするようになる。

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問題文

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(たんしちはおそろしいよかんにおそわれ、いそいできものをひっかけてそとにでてみると、)

丹七は恐ろしい予感に襲われ、急いで着物を引っかけてそとに出て見ると、

(つきがちゅうてんにかかってあかるく、あたりはしんかんとしてあさこのすがたは、)

月が中天に懸かってあかるく、あたりは森閑としてあさ子の姿は、

(そのあたりにみえなかった。ふと、みみをすますと、そのときじんじゃのけいだいから)

そのあたりに見えなかった。ふと、耳を澄すと、その時神社の境内から

(はくしゅのようなおとがきこえてきた。たんしちは、さてはとおもってけいだいにはいり、)

拍手のような音が聞えて来た。丹七は、さてはと思って境内に入いり、

(おとのするほうへちかづいていくと、はたしてあさこはかみさまのまえにひざまずいて、)

音のする方へ近づいて行くと、果してあさ子は神様の前にひざまずいて、

(はくしゅをしながら、なにごとかをきねんしているのであった。)

拍手をしながら、何事かを祈念して居るのであった。

(しばらくきねんをこごしてからやがて、あさこはたちあがった。)

暫らく祈念を凝してからやがて、あさ子は立ち上った。

(かのじょはりょうてをまえにさしだしながらてさぐりであるいて、)

彼女は両手を前に差出しながら手さぐりで歩いて、

(いっぽんのろうまつのそばにあゆみよったが、りょうてがろうまつにふれるやいなや)

一本の老松のそばに歩み寄ったが、両手が老松に触れるや否や

(たちどまってふところのなかからしろいにんぎょうのようなものをとりだした。)

立ちどまって懐の中から白い人形のようなものを取り出した。

(たんしちはきづかれぬようにぬきあしでかのじょのかたわらへきて、よくみるとそれは、)

丹七は気づかれぬようにぬき足で彼女の傍へ来て、よく見るとそれは、

(ろくしちすんのわらにんぎょうであった。あさこはそのわらにんぎょうを、)

六七寸の藁人形であった。あさ子はその藁人形を、

(ひだりのてでろうまつにぴったりあてながら、みぎてでたもとから)

左の手で老松にぴったりあてながら、右手で袂から

(いっぽんのぎんいろにひかるくぎをとりだした。いうまでもなくよしおになぞらえたわらにんぎょうを)

一本の銀色に光る釘を取り出した。いう迄もなく良雄になぞらえた藁人形を

(まつのきにはりつけにしようとするのである。あわや、かのじょのみぎてが)

松の木に磔にしようとするのである。あわや、彼女の右手が

(そのわらにんぎょうをぐさとつきさそうとしたとき、)

その藁人形をぐさと突き刺そうとしたとき、

(あさこのみぎうではたんしちのてによってささえとめられた。)

あさ子の右腕は丹七の手によってささえとめられた。

(「あさこ、なにをする」「おとうさん!わたしくやしい」)

「あさ子、何をする」「お父さん!わたしくやしい」

(こういったかとおもうと、あさこはくずれるようにちちおやにもたれかかり、)

こう言ったかと思うと、あさ子は崩れるように父親にもたれかかり、

(りょうそでをかおにあてて、こえをあげてなくのであった。)

両袖を顔に当てて、声をあげて泣くのであった。

など

(たんしちはあさこのしつれんにどうじょうするよりも、「うしのこくまいり」の)

丹七はあさ子の失恋に同情するよりも、「丑の刻参り」の

(まねをするわがこのこころのおそろしさにせんりつをきんずることができなかった。)

真似をするわが子の心の怖ろしさに戦慄を禁ずることが出来なかった。

(このまをもるつきかげにてらされたあさこの、なみうつにくたいのせんりつをかんじたとき、)

樹間をもる月影に照されたあさ子の、波打つ肉体の顫律を感じたとき、

(たんしちはにじゅうねんのむかし、かわのなかからひきあげられたあさこのははの)

丹七は二十年の昔、河の中から引き上げられたあさ子の母の

(しがいにふれたときのかんじをおもいおこしてぎょっとした。)

死骸に触れた時の感じを思い起してぎょっとした。

(あさこもははのちすじをうけ、おもいつめたあげくに、)

あさ子も母の血統を受け、思いつめたあげくに、

(まんいちのことをしかねないかもしれぬとおもうと、ぜんしんのちがこおるようにおもわれた。)

万一のことを仕兼ねないかも知れぬと思うと、全身の血が凍るように思われた。

(「かぜをひくといかん、はやくかえってねようよ」)

「風邪を引くといかん、早く帰って寝ようよ」

(たんしちはやっと、あさこをなぐさめて、つめたいねどこにかえるのであった。)

丹七はやっと、あさ子をなぐさめて、冷たい寝床にかえるのであった。

(このことがあってから、かなしくもたんしちのよそうがあたって、あさこのせいしんに、)

このことがあってから、悲しくも丹七の予想があたって、あさ子の精神に、

(だんだんいじょうのちょうこうがあらわれてきた。かのじょはまいよしんこうにいえをぬけだしては、)

段々異常の徴候があらわれて来た。彼女は毎夜深更に家を抜け出しては、

(あだかもむゆうびょうしゃのするように、しょほうをあるきまわった。)

あだかも夢遊病者のするように、諸方を歩き廻った。

(たんしちははじめのうちはそれをとめるようにしたが、とめるとかのじょのしんけいを)

丹七は始めのうちはそれをとめるようにしたが、とめると彼女の神経を

(よけいにこうふんさせるようにおもわれたので、のちにはかのじょのしたいままに)

余計に興奮させるように思われたので、後には彼女のしたい儘に

(せしめたのである。かのじょはけっしてひるまはがいしゅつせず、まためくらのおんなのこととて、)

せしめたのである。彼女は決して昼間は外出せず、又盲目の女のこととて、

(べつにたけやたにんにたいしてがいをあたえなかったので、)

別に他家や他人に対して害を与えなかったので、

(たんしちはほうにんしておいたのであるが、のちにはやぶんきにのぼったり、)

丹七は放任して置いたのであるが、後には夜分樹にのぼったり、

(たけのやねのうえをあるいたりするので、むらびとがきみをわるがり、)

他家の屋根の上を歩いたりするので、村人が気味を悪がり、

(とうとうたんしちはあさこをかんしして、やぶんがいしゅつせしめないことにしたのである。)

とうとう丹七はあさ子を監視して、夜分外出せしめないことにしたのである。

(むらびともじじょうをしっておおいにあさこにどうじょうしたが、いかんともすることができず、)

村人も事情を知って大いにあさ子に同情したが、如何ともすることが出来ず、

(あさこのせいしんいじょうはいちにちいちにちにましていくのであった。)

あさ子の精神異常は一日一日に増して行くのであった。

(こうしたやさき、とつぜん、よしおがよめをむかえるということをきいて、)

こうした矢先、突然、良雄が嫁を迎えるということをきいて、

(むらびとはいっしゅいようのかんじにうたれたのであった。)

村人は一種異様の感じに打たれたのであった。

(よしおのははは、ひとりむすこのかわいさに、これまでよしおのいうままにして)

良雄の母は、一人息子の可愛さに、これまで良雄のいうままにして

(きたのであって、こんどよしおが、とおえんにあたるいえのむすめとこいにおち、)

来たのであって、こんど良雄が、遠縁に当る家の娘と恋に落ち、

(ざいがくちゅうにもかかわらずけっこんするといいだしても、ははおやははんたいしないのみか、)

在学中にもかかわらず結婚すると言い出しても、母親は反対しないのみか、

(むしろ、いちにちもはやくういまごのかおがみたさに、よろこんでどういし、)

むしろ、一日も早く初孫の顔が見たさに、喜んで同意し、

(はなしがじんそくにはこばれて、よしおがしゅんききゅうかにかえるをまって)

話が迅速に運ばれて、良雄が春期休暇に帰るをまって

(よめをむかえることにけっていしてしまったのである。)

嫁を迎えることに決定してしまったのである。

(よしおはきせいして、はじめてあさこのはっきょうしたことをきいたのであるが、)

良雄は帰省して、はじめてあさ子の発狂したことをきいたのであるが、

(これまであさこをめくらにしたことをなんともおもわなかったかれも、)

これまであさ子を盲目にしたことを何とも思わなかった彼も、

(じぶんゆえにはっきょうしたかとおもうと、なんとなくいやなきもちがした。)

自分故に発狂したかと思うと、何となく厭な気持がした。

(ことにやぶん、かのじょがよそのいえのやねをあるいたということをきくと、いっしゅのきょうふを)

ことに夜分、彼女がよその家の屋根を歩いたということをきくと、一種の恐怖を

(かんぜざるをえなかった。しかも、こんどはよめをむかえるというのであるから、)

感ぜざるを得なかった。しかも、こんどは嫁を迎えるというのであるから、

(いっそう、きみがわるかった。で、かれは、めずらしくも、けっこんのひまで、)

一層、気味が悪かった。で、彼は、めずらしくも、結婚の日まで、

(いっぽもがいしゅつしないことにけっしんした。)

一歩も外出しないことに決心した。

(そほうかのこととて、けっこんのじゅんびはかなりにおおげさなものであった。)

素封家のこととて、結婚の準備は可なりに大袈裟なものであった。

(しかし、ばんじはしんせきやでいりのしゅうによって、なんのとどこおりもなくはこばれ、)

然し、万事は親戚や出入りの衆によって、何の滞りもなく運ばれ、

(いよいよしがつのはじめに、じたくでしきをあげることになったのである。)

いよいよ四月のはじめに、自宅で式を挙げることになったのである。

(とうじつのあさ、そらはここちよくすみわたっていたが、ひるすぎからにわかにくもりだし、)

当日の朝、空は心地よく澄み渡って居たが、正午過から俄に曇り出し、

(ゆうがたになって、はなよめのとうちゃくするじぶんには、はるさめがしとしととふりだした。)

夕方になって、花嫁の到着する時分には、春雨がしとしとと降り出した。

(でもはなよめのいっこうはぶじによしおのいえにのりこみ、それからまもなく)

でも花嫁の一行は無事に良雄の家に乗り込み、それから間もなく

(はなれざしきにおいて、けっこんしきがあげられることになったのである。)

離れ座敷に於て、結婚式が挙げられることになったのである。

(しきははちじょうのざしきで、しょくだいのひかりのもとにげんしゅくにおこなわれた。)

式は八畳の座敷で、燭台の光のもとに厳粛に行われた。

(そとにははるさめがいきおいをまして、にわのきのはをたたくおとがしめやかにきこえてきた。)

外には春雨が勢を増して、庭の木の葉をたたく音がしめやかに聞えて来た。

(まるがおのはなよめは、こうふんのためか、それともろうそくのひかりのためか、)

丸顔の花嫁は、興奮のためか、それとも蝋燭の光のためか、

(いくぶんかあおざめてみえた。はなむこのよしおもつねになくしずんでみえた。)

幾分か蒼ざめて見えた。花婿の良雄も常になく沈んで見えた。

(おもやのほうからは、でいりのもののさんざめくこえがしきりにきこえた。)

母家の方からは、出入りのもののさんざめく声がしきりに聞えた。

(いよいよさんさんくどのだんどりとなった。めちょうおちょうのさかずきは)

いよいよ三々九度の段取りとなった。雌蝶雄蝶の酒器は

(しんせきのふたりのしょうじょによってはこばれた。なこうどふうふとはなよめとはなむこ。)

親戚の二人の少女によって運ばれた。仲人夫婦と花嫁と花婿。

(よにんのかおにはきんちょうのいろがみなぎった。やがてはなよめのまえにさかずきがはこばれた。)

四人の顔には緊張の色が漲ぎった。やがて花嫁の前に盃が運ばれた。

(はなよめはふるえるてをもってさかずきをとりあげた。さけはしょうじょによってかるくつがれた。)

花嫁は顫える手をもって盃を取り上げた。酒は少女によって軽く注がれた。

(と、そのときのことである。)

と、その時のことである。

(ぽたり!てんじょうからいってき、あかいえきたいがさかずきのなかにおちて、)

ポタリ!天井から一滴、赤い液体が盃の中に落ちて、

(ぱっとさかずきいっぱいにひろがった。)

パッと盃一杯に拡がった。

(はっとおもうとたんにつづいてまたいってき、ぽたりとあかいえきたいがさかずきのなかにおちてきた。)

ハッと思う途端に続いて又一滴、ポタリと赤い液体が盃の中に落ちて来た。

(ひゃっ!とものすごいさけびごえをあげてはなよめがさかずきをとりおとすと、そのとき、)

ヒャッ!と物凄い叫び声をあげて花嫁が盃をとり落すと、その時、

(てんじょうからつづけざまにすうてきのあかいえきたいがしたたって、)

天井から続けざまに数滴の赤い液体が滴って、

(はなよめのはれぎに、ときならぬこうようをえがいた。)

花嫁の晴着に、時ならぬ紅葉を描いた。

(これをみたはなよめはうーんとうなって、そのばにきぜつしてしまった。)

これを見た花嫁はウーンと唸って、その場に気絶してしまった。

(それから、よしおのいえにどんなそうどうがもちあがったかはどくしゃのそうぞうにまかせておこう。)

それから、良雄の家にどんな騒動が持ち上ったかは読者の想像に任せて置こう。

(はなよめはとりあえずべっしつにねかされ、ふきんのまちからよばれたいしゃの)

花嫁はとりあえず別室に寝かされ、附近の町からよばれた医者の

(おうきゅうてあてをうけて、いちじはそせいしたが、そのよるからこうねつをはっして)

応急手当を受けて、一時は蘇生したが、その夜から高熱を発して

(おきあがることができなくなった。はなよめのさかずきのなかにてんじょうからしたたったあかいえきたいは、)

起き上ることが出来なくなった。花嫁の盃の中に天井から滴った赤い液体は、

(いうまでもなくけつえきであった。どうして、なんのちがこぼれたのであろう?)

いう迄もなく血液であった。どうして、何の血がこぼれたのであろう?

(ひとびとはふしんがったが、だれもこわがっててんじょううらへけんさにいこうと)

人々は不審がったが、誰も怖がって天井裏へ検査に行こうと

(いいだすものはなかった。いがいなできごとのためにきょくどにきんちょうしたよしおは、)

いい出すものはなかった。意外な出来事のために極度に緊張した良雄は、

(ひとびとのおくびょうなのにふんがいして、じぶんでてんじょううらをたんけんしようといいだした。)

人々の臆病なのに憤慨して、自分で天井裏を探険しようといい出した。

(「なーに、ねこがねずみをたべたちなんだよ」)

「なーに、猫が鼠をたべた血なんだよ」

(こういってかれははしごをとりよせてすみのほうのてんじょういたをはずし、)

こういって彼は梯子を取り寄せて隅の方の天井板をはずし、

(ろうそくをかたてにてんじょうへはいっていった。)

蝋燭を片手に天井へはいって行った。

(ひとびとはよしおのあるくおとをきいた。とまもなく、)

人々は良雄の歩く音を聞いた。と間もなく、

(うーんというものすごいうなりごえがきこえて、どさりとたおれるようなものおとがきこえた。)

ウーンという物凄いうなり声が聞えて、どさりとたおれるような物音が聞えた。

(「わかだんな!」「よしおさま!」ひとびとはくちぐちにさけんだがへんじがない。)

「若旦那!」「良雄さま!」人々は口々に叫んだが返事がない。

(おとこもおんなもきょくどにきょうふしてかおをみあわせた。いっぷん、にふん、さんぷん。)

男も女も極度に恐怖して顔を見合せた。一分、二分、三分。

(あいかわらずてんじょうからはなんのおとさたもない。)

相変らず天井からは何の音沙汰もない。

(と、ふたたびすうてきのちがおなじばしょからたたみのうえへぽたぽたおちた。)

と、再び数滴の血が同じ場所から畳の上へポタポタ落ちた。

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