ああ玉杯に花うけて 第三部 2

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プレイ回数547難易度(4.5) 5538打 長文
佐藤紅緑の「ああ玉杯に花うけて」です。
長文です。現在では不適切とされている表現を含みます。

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問題文

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(「いやいや、そんなことは・・・・・・」とこういちはあたまをふって、)

「いやいや、そんなことは……」と光一は頭をふって、

(「ぼくはしらない、なんにもしらない」「かくさないでいってください、)

「ぼくは知らない、なんにも知らない」「かくさないでいってください、

(ぼくはおれいをいわないときがすまないから」「そうじゃないよきみ、けっして)

ぼくはお礼をいわないと気がすまないから」「そうじゃないよきみ、決して

(そうじゃない、ところできみ、いまのはなしはどうする、きみはぼくといっしょにちゅうがくへ)

そうじゃない、ところできみ、いまの話はどうする、きみはぼくと一緒に中学へ

(かよわないか、ねえきみ、きみはぼくよりもできるんだからね、ぼくのいえはきみに)

通わないか、ねえきみ、きみはぼくよりもできるんだからね、ぼくの家はきみに

(がくしをだすくらいのよゆうがあるんだ、けっしてえんりょすることはないよ、ぼくのちちは)

学資をだすくらいの余裕があるんだ、決して遠慮することはないよ、ぼくの父は

(あきんどだけれどもかねをためることばかりかんがえてやしない、かねよりたいせつなのは)

商人だけれども金を貯めることばかり考えてやしない、金より大切なのは

(にんげんだってしじゅういってるよ、きみのようなゆうぼうなにんげんをせわすることは)

人間だってしじゅういってるよ、きみのような有望な人間を世話することは

(ちちがいちばんすきなことなんだから、ねえきみ、ふたりでいっしょにやろう、だいがくを)

父が一番すきなことなんだから、ねえきみ、ふたりで一緒にやろう、大学を

(でるまでねきみはにねんのしけんをうけたまえ、きっとにゅうがくができるよ、ねえきみ」)

でるまでねきみは二年の試験を受けたまえ、きっと入学ができるよ、ねえきみ」

(こういちのめはしだいにねっきをおびてきた、かれのこころはいまどうかしてしんゆうのきなんを)

光一の目は次第に熱気をおびてきた、かれの心はいまどうかして親友の危難を

(すくい、しんゆうをしてひかりあるせかいにかつやくせしめようというゆうじょうにみたされていた。)

救い、親友をして光ある世界に活躍せしめようという友情にみたされていた。

(「ねえあおきくん、ねえ、そうしたまえよ」かれはせんぞうのてをしっかりと)

「ねえ青木君、ねえ、そうしたまえよ」かれは千三の手をしっかりと

(にぎってかおをのぞいた。うのはながふたりのむねにたもとに)

にぎって顔をのぞいた。うの花がふたりの胸にたもとに

(ちらりちらりとちりしきる。せんぞうはだまってうつむいていた。)

ちらりちらりとちりしきる。千三はだまってうつむいていた。

(しゃかいのどんぞこにけおとされて、ひんくにちいさなむねをいため、おじはろうごくにあり、)

社会のどん底にけおとされて、貧苦に小さな胸をいため、伯父は牢獄にあり、

(わがみはどろにあえぐふなのごときいまのばあいに、ただひとりばんこくのどうじょうと)

わが身はどろにあえぐふなのごときいまの場合に、ただひとり万斛の同情と

(しんあいをよせてくれるひとがあるとおもうと、せんぞうのむねにかんげきのちが)

親愛をよせてくれる人があると思うと、千三の胸に感激の血が

(たかなみのごとくおどらざるをえない。かれはいしのごとくちんもくした。)

高波のごとくおどらざるを得ない。かれは石のごとく沈黙した。

(「ねえあおきくん、ぼくのこころもちがわかってくれたろうね」「・・・・・・・・・・・・」)

「ねえ青木君、ぼくの心持ちがわかってくれたろうね」「…………」

など

(「あしたからでもしょうばいをやめてね、おじさんがでてくるまでやすんでね、)

「明日からでも商売をやめてね、伯父さんがでてくるまで休んでね、

(そうしてきみはしけんのじゅんびにかかるんだね、けっしてふじゆうなおもいはさせないよ」)

そうしてきみは試験の準備にかかるんだね、決して不自由な思いはさせないよ」

(「・・・・・・・・・・・・」「ぼくはね、かねもちだからといっていばるわけじゃないよ、)

「…………」「ぼくはね、金持ちだからといっていばるわけじゃないよ、

(それはきみもわかってくれるだろうね」「むろん・・・・・・むろん・・・・・・ぼくは・・・・・・」)

それはきみもわかってくれるだろうね」「無論……無論……ぼくは……」

(せんぞうははじめてくちをあいたが、むねがいっぱいになって、なんにもいえなくなった。)

千三ははじめて口を開いたが、胸が一ぱいになって、なんにもいえなくなった。

(はげしいすすりなきがいちどにはれつした。「ありがとう・・・・・・ぼくはうれしい」)

はげしいすすりなきが一度に破裂した。「ありがとう……ぼくはうれしい」

(なみだはほおをつたうててきてきとしてあしもとにおちた。あしにはわらじをはいている。)

涙はほおを伝うて滴々として足元に落ちた。足にはわらじをはいている。

(「じゃね、そうしてくれるかね」とこういちもなみだをほろほろこぼしながらいった。)

「じゃね、そうしてくれるかね」と光一も涙をほろほろこぼしながらいった。

(「いいや」とせんぞうはあたまをふった。「いやなのかい」)

「いいや」と千三は頭をふった。「いやなのかい」

(「おこころざしはかんしゃします。だがやなぎさん」せんぞうはふたたびちんもくした。)

「お志は感謝します。だが柳さん」千三はふたたび沈黙した。

(かたをゆするおおきなためいきがいくどもおこった。「わがままのようだけれども)

肩をゆする大きなため息がいくども起こった。「わがままのようだけれども

(ぼくはおせわになることはできません」「どうして?」)

ぼくはお世話になることはできません」「どうして?」

(「ぼくはねえやなぎさん、ぼくはどくりょくでやりとおしたいんです、)

「ぼくはねえ柳さん、ぼくは独力でやりとおしたいんです、

(ひとのせわになってせいこうするのはだれでもできます、ぼくはひとりで・・・・・・)

人の世話になって成功するのはだれでもできます、ぼくはひとりで……

(ひとりでやってしっぱいしたところがだれにもめいわくをかけません、)

ひとりでやって失敗したところがだれにも迷惑をかけません、

(ぼくはひとりでやりたいのです」「しかしきみ」)

ぼくはひとりでやりたいのです」「しかしきみ」

(こういちはせんぞうのてをきびしくにぎりしめてじっとかおをみつめたが、)

光一は千三の手をきびしくにぎりしめてじっと顔を見詰めたが、

(やがてぼうぜんとてをはなした。「しっけいした、きみのいうところはじつにもっともだ、)

やがて茫然と手を放した。「失敬した、きみのいうところは実にもっともだ、

(ぼくはなんにもいえない」にわのしげりのあいだからふみこのこえがきこえた。)

ぼくはなんにもいえない」庭の茂りのあいだから文子の声が聞こえた。

(「にいさん!ごはんよ、きょうはころっけよ」「そんなことを)

「兄さん! ご飯よ、今日はコロッケよ」「そんなことを

(いうものじゃない」とこういちはしかるようにいった、ふみこのこえはやんだ。)

いうものじゃない」と光一はしかるようにいった、文子の声はやんだ。

(「どうかわるくおもわないようにね」とせんぞうがいった。)

「どうか悪く思わないようにね」と千三がいった。

(「いや、ぼくこそしっけいしたよ」とこういちはいった。)

「いや、ぼくこそ失敬したよ」と光一はいった。

(「いままでどおりにおねがいします」「ぼくもね」)

「いままでどおりにお願いします」「ぼくもね」

(ふたりはふたたびかたいあくしゅをした。「ころっけがさめるわよ」とふみこは)

ふたりはふたたびかたい握手をした。「コロッケがさめるわよ」と文子は

(まどからかおをだしていった。「うるさいやつだな」とこういちはわらった。)

窓から顔をだしていった。「うるさいやつだな」と光一はわらった。

(「さようなら」せんぞうはおけをかついでふらふらとあるきだした。)

「さようなら」千三はおけをかついでふらふらと歩きだした。

(こういちはだまってうしろすがたをみおくったが、りょうてをかおにあててなきだした。)

光一はだまって後ろ姿を見送ったが、両手を顔にあててなきだした。

(ひはしだいにくれかけてうのはなだけがおぼろにしろくのこった。)

日は次第に暮れかけてうの花だけがおぼろに白く残った。

(よくじつこういちはがっこうへゆくとてづかがかれをまっていた。)

翌日光一は学校へゆくと手塚がかれを待っていた。

(「きみ、きをつけなきゃいけないよ、せいばんがきみをころすといってるよ」)

「きみ、気をつけなきゃいけないよ、生蕃がきみを殺すといってるよ」

(「なぜだ」 「きみのちちがちびこうのおじさんのさしいれものをしたそうじゃないか)

「なぜだ」 「きみの父がチビ公の伯父さんのさしいれ物をしたそうじゃないか

(「だれがそんなことをいったんだ」「まちではもっぱらひょうばんだよ」)

「だれがそんなことをいったんだ」「町ではもっぱら評判だよ」

(「そんなことはぼくはしらん、よしんばじじつにしたところで、)

「そんなことはぼくは知らん、よしんば事実にしたところで、

(せいばんがなにもぼくをころすにあたらないはなしだ」「ぼくもそうおもうがね、あのもんだい)

生蕃がなにもぼくを殺すにあたらない話だ」「ぼくもそう思うがね、あの問題

(はちびとせいばんのことからおこって、おとなどうしのけんかになったんだからな」)

はチビと生蕃のことから起こって、大人同志の喧嘩になったんだからな」

(「かまわんさ、ほっとけ、ぼくはせいばんをおそれやしないよ」)

「かまわんさ、ほっとけ、ぼくは生蕃をおそれやしないよ」

(「きみはいつもごうまんなつらをしてるとそういってたよ」「なんとでもいうがいい」)

「きみはいつも傲慢な面をしてるとそういってたよ」「なんとでもいうがいい」

(「しかしきをつけなけりゃ」てづかはいつもひょうりはんぷくつねなきしょうねんで、)

「しかし気をつけなけりゃ」手塚はいつも表裏反覆つねなき少年で、

(きょうはにしにみかたしあしたはひがしにみかたし、このんでひとのあいだがらをさいてよろこんでるので、)

今日は西に味方し明日は東に味方し、好んで人の間柄をさいて喜んでるので、

(こういちはかれのいうことをさまできにとめなかった。)

光一はかれのいうことをさまで気にとめなかった。

(そのころせいばんはとくいのぜっちょうにあった、かれがさんねんのらいおんをせいふくしてから)

そのころ生蕃は得意の絶頂にあった、かれが三年のライオンを征服してから

(ぎょうめいこうちゅうにとどろいた。かれはかたはばをひろくみせようとりょうひじをつっぱり、)

驍名校中にとどろいた。かれは肩幅を広く見せようと両ひじをつっぱり、

(かふくをまえへつきだしてあるくと、そのばっかどもはさゆうにしたがっておなじような)

下腹を前へつきだして歩くと、その幕下共は左右にしたがって同じような

(たいどをまねるのであった。とくにかれはかくへいのいっけんがあってから)

態度をまねるのであった。とくにかれは覚平の一件があってから

(きょうぼうがますますきょうぼうをくわえた。)

凶暴がますます凶暴を加えた。

(がっこうのこづかいははいへいであった。かれはらっぱをふくことがじょうずで、)

学校の小使いは廃兵であった。かれはらっぱをふくことがじょうずで、

(じかんじかんにはげんかんへでてはらいっぱいにふきあげる。それからみぎとひだりのろうかへ)

時間時間には玄関へでて腹一ぱいにふきあげる。それから右と左のろうかへ

(ふきこむとせいとがぞろぞろきょうしつをでる。それをみるとかれはゆかいでたまらない。)

ふきこむと生徒がぞろぞろ教室をでる。それを見るとかれは愉快でたまらない。

(「なまいきなことをいってもおれのらっぱででたりはいったりするんだ、)

「生意気なことをいってもおれのらっぱででたりはいったりするんだ、

(おまえたちはおれのめいれいにしたがってるんじゃないか」こうかれはせいとどもに)

おまえたちはおれの命令にしたがってるんじゃないか」こうかれは生徒共に

(いうのであった。かれはもうごじゅうをすぎたがにょうぼうもこもない、)

いうのであった。かれはもう五十をすぎたが女房も子もない、

(ほんのひとりぽっちでまいにちせいとをあいてにきえんをはいてくらしている、)

ほんのひとりぽっちで毎日生徒を相手に気焔をはいてくらしている、

(かれはにっしんせんそうにしゅっせいしてがざんのえきにてきのたいしょうをじゅうけんでさしたくだりをはなす)

かれは日清戦争に出征して牙山の役に敵の大将を銃剣で刺したくだりを話す

(ときにはそのめがかがやきそのかおはむかしのほこりにみちてしゅのごとく)

ときにはその目が輝きその顔は昔のほこりにみちて朱のごとく

(あかくなるのであった。「そのときわがかまたれんたいちょうどのは、)

赤くなるのであった。「そのときわが鎌田聯隊長殿は、

(うまのうえでけんをたかくふってとっかん!とごうれいをかけた。そこでおおさわいっとうそつは)

馬の上で剣を高くふって突貫!と号令をかけた。そこで大沢一等卒は

(まっさきかけてしっぷうのごとくとっかんした。てきはなにおうえんせいがいのしゅへいだ、)

まっさきかけて疾風のごとく突貫した。敵は名に負う袁世凱の手兵だ、

(どっどっどっとけむりをたててよせくるへいはなんぜんなんまんとてもかなうべきはずがない」)

どッどッどッと煙をたてて寄せくる兵は何千何万とてもかなうべきはずがない」

(「にげたか」とだれかがいう。「にげるもんか、にっぽんだんじだ、)

「逃げたか」とだれかがいう。「逃げるもんか、日本男児だ、

(おおさわいっとうそつはじゅうけんをまっこうにふりかぶって」「らっぱはどうした」)

大沢一等卒は銃剣をまっこうにふりかぶって」「らっぱはどうした」

(「らっぱはせなかへせおいこんだ」「らっぱそつにもじゅうけんがあるのか」)

「らっぱは背中へせおいこんだ」「らっぱ卒にも銃剣があるのか」

(「あるとも、へいたるいじょうは・・・・・・まあだまってきけおおさわいっとうそつは・・・・・・」)

「あるとも、兵たる以上は……まあだまって聞け大沢一等卒は……」

(「いまやこづかいになってる」せいとは「わっ」とわらいだす、)

「いまや小使いになってる」生徒は「わっ」とわらいだす、

(たいていこのぐらいのところでぐんだんはちゅうしになるのだが、かれはそれにもこりず)

大抵このぐらいのところで軍談は中止になるのだが、かれはそれにもこりず

(せいとをつかまえてはかいきゅうだんをつづけるのであった。おおさわいっとうそつがはたして)

生徒をつかまえては懐旧談をつづけるのであった。大沢一等卒がはたして

(それだけのぶこうがあったかどうかはなんぴともしらないことなのだが、)

それだけの武功があったかどうかは何人も知らないことなのだが、

(せいとかんではそれをしんずるものがなかった。)

生徒間ではそれを信ずる者がなかった。

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