梶井基次郎 ある崖上の感情 4(完結)
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問題文
(「こんばんもきている」といくしまはがいかのへやから)
「今晩も来ている」と生島は崖下の部屋から
(がけみちのやみのなかにうかんだひとかげをながめてそうおもった。)
崖路の闇のなかに浮かんだ人影を眺めてそう思った。
(かれはいくばんもそのひとかげをみとめた。)
彼は幾晩もその人影を認めた。
(そのたびにかれはそれがかふぇではなしあったせいねんに)
そのたびに彼はそれがカフェで話し合った青年に
(よもやちがいがないだろうとおもい、)
よもやちがいがないだろうと思い、
(じぶんのこころにたくらんでいるくうそうに、そのたびせんりつをかんじた。)
自分の心に企らんでいる空想に、そのたび戦慄を感じた。
(「あれはおれのくうそうがたたせたひとかげだ。)
「あれは俺の空想が立たせた人影だ。
(おれとおなじよくぼうでがけのうえへたつようになったおれのにじゅうじんかくだ。)
俺と同じ欲望で崖の上へ立つようになった俺の二重人格だ。
(おれがこうしておれのにじゅうじんかくをおれのこのんでたつばしょに)
俺がこうして俺の二重人格を俺の好んで立つ場所に
(ながめているというくうそうはなんというくらいみわくだろう。)
眺めているという空想はなんという暗い魅惑だろう。
(おれのよくぼうはとうとうおれからぶんりした。)
俺の欲望はとうとう俺から分離した。
(あとはこのへやにせんりつとこうこつがあるばかりだ」)
あとはこの部屋に戦慄と恍惚があるばかりだ」
(あるばんのこと、いしだはそれがいくばんめかのがけのうえへたってしたのまちをながめていた。)
ある晩のこと、石田はそれが幾晩目かの崖の上へ立って下の町を眺めていた。
(かれのながめていたのはひとむねのさんかふじんかのびょういんのまどであった。)
彼の眺めていたのは一棟の産科婦人科の病院の窓であった。
(それはびょういんといってもけっしてりっぱなたてものではなく、ひるになると)
それは病院と言っても決して立派な建物ではなく、昼になると
(「にんぷあずかります」というかんばんがやねのうえへ)
「妊婦預ります」という看板が屋根の上へ
(はりだされているそまつなようふうかおくであった。)
張り出されている粗末な洋風家屋であった。
(じゅうほどあるそのまどのあるものはあかるくあるものはくらくしめとざされている。)
十ほどあるその窓のあるものは明るくあるものは暗く閉とざされている。
(じょうごがたにでんとうのおおいがへやのなかのめいあんをくぎっているようなまどもあった。)
漏斗型に電燈の被いが部屋のなかの明暗を区切っているような窓もあった。
(いしだはそのなかにひとつのまどが、しんだいをとりかこんで)
石田はそのなかに一つの窓が、寝台を取り囲んで
(すうにんのひとがたっているじょうけいをかいほうしているのにめがひかれた。)
数人の人が立っている情景を解放しているのに眼が惹かれた。
(こんなばんにしゅじゅつでもしているのだろうかとおもった。)
こんな晩に手術でもしているのだろうかと思った。
(しかしそのひとたちはそれらしくうごきまわるけはいもなく)
しかしその人達はそれらしく動きまわる気配もなく
(いぜんとしてしんだいのぐるりにぎょうりつしていた。)
依然として寝台のぐるりに凝立していた。
(しばらくみていたあと、かれはまためをてんじてほかのまどをながめはじめた。)
しばらく見ていた後、彼はまた眼を転じてほかの窓を眺めはじめた。
(せんたくやのにかいにはこんばんはみしんをふんでいるおとこのすがたがみえなかった。)
洗濯屋の二階には今晩はミシンを踏んでいる男の姿が見えなかった。
(やはりたくさんのせんたくものがほのじろくやみのなかにほされていた。)
やはりたくさんの洗濯物が仄白く闇のなかに干されていた。
(たいていのまどはいつものばんとかわらずにひらいていた。)
たいていの窓はいつもの晩とかわらずに開いていた。
(かふぇであったおとこのいっていたようなまどはあいかわらずみえなかった。)
カフェで会った男の言っていたような窓は相不変見えなかった。
(いしだはやはりこころのどこかでそんなまどをみたいよくぼうをかんじていた。)
石田はやはり心のどこかでそんな窓を見たい欲望を感じていた。
(それはあらわなものではなかったが、)
それはあらわなものではなかったが、
(かれがいくばんもくるのにはいくらかそんなきもちもまじっているのだった。)
彼が幾晩も来るのにはいくらかそんな気持も混じっているのだった。
(かれがなにげなくあるがいかにちかいまどのなかをながめたとき、)
彼が何気なくある崖下に近い窓のなかを眺めたとき、
(かれはひとつのよかんでぎくっとした。)
彼は一つの予感でぎくっとした。
(そしてそれがまごうかたなくじぶんのひそかにほっしていたじょうけいであることを)
そしてそれがまごうかたなく自分の秘かに欲していた情景であることを
(しったとき、かれのしんぞうはにわかにこどうをました。)
知ったとき、彼の心臓はにわかに鼓動を増した。
(かれはじっとみていられないようなきもちでたびたびめをそらせた。)
彼はじっと見ていられないような気持でたびたび眼を外らせた。
(そしてそんなかれのめがふとさきほどのびょういんへむいたとき、)
そしてそんな彼の眼がふと先ほどの病院へ向いたとき、
(かれはまたいようなことにめをみはった。)
彼はまた異様なことに眼を瞠った。
(それはしんだいのぐるりにたちめぐっていたさきほどのひとびとのすがたが、)
それは寝台のぐるりに立ちめぐっていた先ほどの人びとの姿が、
(あるしゅんかんいちどにうごいたことであった。)
ある瞬間一度に動いたことであった。
(それはなにかきょうがくのようなみぶりにみえた。)
それはなにか驚愕のような身振りに見えた。
(するとようふくをきたひとりのおとこがひとびとにあたまをさげたのがみえた。)
すると洋服を着た一人の男が人びとに頭を下げたのが見えた。
(いしだはそこにおこったことがひとりのにんげんのしをいみしていることをちょっかんした。)
石田はそこに起こったことが一人の人間の死を意味していることを直感した。
(かれのこころはいちじにするどいしょうげきをうけた。)
彼の心は一時に鋭い衝撃をうけた。
(そしてかれのめがふたたびがいかのまどへかえったとき、)
そして彼の眼が再び崖下の窓へ帰ったとき、
(そこにあるものはやはりもとのままのすがたであったが、)
そこにあるものはやはり元のままの姿であったが、
(かれのこころはふたたびもとのようではなかった。)
彼の心は再び元のようではなかった。
(それはにんげんのそうしたよろこびやかなしみをたやしたあるげんしゅくなかんじょうであった。)
それは人間のそうしたよろこびや悲しみを絶したある厳粛な感情であった。
(かれがかんじるだろうとおもっていた「もののあわれ」というようなきもちをこした、)
彼が感じるだろうと思っていた「もののあわれ」というような気持を超した、
(あるいりょくのあるむじょうかんであった。)
ある意力のある無常感であった。
(かれはこだいのぎりしゃのふうしゅうをこころのなかにおもいだしていた。)
彼は古代の希臘の風習を心のなかに思い出していた。
(ししゃをいれるせきかんのおもてへ、みだらなたわむれをしているひとのすがたや、)
死者を納れる石棺のおもてへ、淫らな戯れをしている人の姿や、
(めひつじとこうごうしているぼくようしんをほりつけたりしたぎりしゃじんのふうしゅうを。)
牝羊と交合している牧羊神を彫りつけたりした希臘人の風習を。
(そしておもった。)
そして思った。
(「かれらはしらない。びょういんのまどのひとびとは、がいかのまどを。)
「彼らは知らない。病院の窓の人びとは、崖下の窓を。
(がいかのまどのひとびとは、びょういんのまどを。)
崖下の窓の人びとは、病院の窓を。
(そしてがけのうえにこんなかんじょうのあることを」)
そして崖の上にこんな感情のあることを」