梶井基次郎 ある崖上の感情 1 (2/3)

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梶井基次郎

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問題文

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(「おい。ゆりちゃん。ゆりちゃん。なまをもうふたつ」)

「おい。百合ちゃん。百合ちゃん。生をもう二つ」

(はなしてのほうのせいねんはなじみのうえいとれすをぶっきらぼうなきゃくから)

話し手の方の青年は馴染のウエイトレスをぶっきら棒な客から

(すくってやるというようなひょうじょうで、かのじょのほうをふりかえった。そしてすぐ、)

救ってやるというような表情で、彼女の方を振り返った。そしてすぐ、

(「いや、ところがね、ぼくがまどをみるしゅみには)

「いや、ところがね、僕が窓を見る趣味には

(あまりひとにいえないよくぼうがあるんです。)

あまり人に言えない欲望があるんです。

(それはまあいっぱんにいえばひとのひみつをぬすみみるというみりょくなんですが、)

それはまあ一般に言えば人の秘密を盗み見るという魅力なんですが、

(ぼくのはもうひとつすすんでひとのべっどしーんがみたい、)

僕のはもう一つ進んで人のベッドシーンが見たい、

(けっきょくはそういったことにきちゃくするんじゃないかとおもわれるような)

結局はそういったことに帰着するんじゃないかと思われるような

(とくしゅなしゅうちゃくがあるらしいんです。いや、)

特殊な執着があるらしいんです。いや、

(そんなものをほんとうにみたことなんぞはありませんがね」)

そんなものをほんとうに見たことなんぞはありませんがね」

(「それはそうかもしれない。こうかせんをとおるしょうせんでんしゃには)

「それはそうかもしれない。高架線を通る省線電車には

(よくそういったまにやのひとがのっているということですよ」)

よくそういったマニヤの人が乗っているということですよ」

(「そうですかね。そんなひとつのたいぷがあるんですかね。それはおどろいた。)

「そうですかね。そんな一つの病型があるんですかね。それは驚いた。

(・・・・・・あなたはまどというものにそんなきょうみをおもちになったことはありませんか。)

……あなたは窓というものにそんな興味をお持ちになったことはありませんか。

(いちどでも」 そのせいねんのかおはあいてのかおをじっとみつめてへんとうをまっていた。)

一度でも」  その青年の顔は相手の顔をじっと見詰めて返答を待っていた。

(「ぼくがそんなまにやのことをいういじょうぼくにもおおかれすくなかれ)

「僕がそんなマニヤのことを言う以上僕にも多かれ少なかれ

(そんなちしきがあるとおもっていいでしょう」)

そんな知識があると思っていいでしょう」

(そのせいねんのかおにはわずかばかりのふかいのかげがとおりすぎたが、)

その青年の顔にはわずかばかりの不快の影が通り過ぎたが、

(そうこたえてかれはまたへいきなかおになった。)

そう答えて彼はまた平気な顔になった。

(「そうだ。いや、ぼくはね、がけのうえからそんなきょうみでみるひとつのまどが)

「そうだ。いや、僕はね、崖の上からそんな興味で見る一つの窓が

など

(あるんですよ。しかしほんとうにみたということはいちどもないんです。)

あるんですよ。しかしほんとうに見たということは一度もないんです。

(でもじっさいよくだまされる、あれには。あっはっはは・・・・・・)

でも実際よく瞞される、あれには。あっはっはは……

(ぼくがいったいどんなじょうたいでそれにふけっているかいちどはなしてみましょうか。)

僕がいったいどんな状態でそれに耽っているか一度話してみましょうか。

(ぼくはながいあいだじいっとめをはなさずにそのまどをみているのです。)

僕はながい間じいっと眼を放さずにその窓を見ているのです。

(するとあんまりいっしょうけんめいになるもんだからあしもとがへんにたよりなくなってくる。)

するとあんまり一生懸命になるもんだから足許が変に便りなくなって来る。

(ふらふらっとしてじっさいがけからおっこちそうなきもちになる。はっは。)

ふらふらっとして実際崖から落っこちそうな気持になる。はっは。

(それくらいになるとぼくはもうはんぶんゆめをみているようなきもちです。)

それくらいになると僕はもう半分夢を見ているような気持です。

(するとへんなことには、そんなときぼくのみみにはがけみちを)

すると変なことには、そんなとき僕の耳には崖路を

(あるいてくるひとのあしおとがきまったようにしてくるんです。)

歩いて来る人の足音がきまったようにして来るんです。

(でもぼくはよしひとがほんとうにとおってもそれはかまわないことにしている。)

でも僕はよし人がほんとうに通ってもそれはかまわないことにしている。

(しかしそのあしおとはぼくのはいごへそうっとしのびよってきて、)

しかしその足音は僕の背後へそうっと忍び寄って来て、

(そこでぴたりととまってしまうんです。)

そこでぴたりと止まってしまうんです。

(それがもうそうというものでしょうね。)

それが妄想というものでしょうね。

(ぼくにはそのしのびよったにんげんがぼくのひみつをしっているようにおもえてならない。)

僕にはその忍び寄った人間が僕の秘密を知っているように思えてならない。

(そしていまにもえりがみをつかむか、いまにもがけからつきおとすか、)

そして今にも襟髪を掴むか、今にも崖から突き落とすか、

(そんなきょうふでいきもとまりそうになっているんです。)

そんな恐怖で息も止まりそうになっているんです。

(しかしぼくはやっぱりまどからめをはなさない。)

しかし僕はやっぱり窓から眼を離さない。

(そりゃそんなときはもうどうなってもいいというようなきもちですね。)

そりゃそんなときはもうどうなってもいいというような気持ですね。

(またいっぽうではそれがたいていはぼくのきのせいだということはひゃくもしょうちで、)

また一方ではそれがたいていは僕の気のせいだということは百も承知で、

(そんなどきょうもきめるんです。)

そんな度胸もきめるんです。

(しかしやっぱりひゃくにひとつもしやほんとうのにんげんではないかという)

しかしやっぱり百に一つもしやほんとうの人間ではないかという

(きがいつでもする。へんなものですね。あっはっはは」)

気がいつでもする。変なものですね。あっはっはは」

(はなしてのおとこはじぶんのはなしにこうふんをもちながらも、)

話し手の男は自分の話に昂奮を持ちながらも、

(こんどはじちょうてきなそしてあくまてきといえるかもしれないいどんだひょうじょうを)

今度は自嘲的なそして悪魔的といえるかも知れない挑んだ表情を

(めにうかべながら、あいてのかおをみていた。)

眼に浮かべながら、相手の顔を見ていた。

(「どうです。そんなはなしは。ぼくはいまはもうじっさいに)

「どうです。そんな話は。僕は今はもう実際に

(ひとのべっどしーんをみるということよりも、そんなじぶんのじょうたいのほうが)

人のベッドシーンを見るということよりも、そんな自分の状態の方が

(ずっとみわくてきになってきているんです。)

ずっと魅惑的になって来ているんです。

(なぜといって、じぶんのみているうすぐらいまどのなかが、)

何故と言って、自分の見ている薄暗い窓のなかが、

(じぶんのおもっているようなものではたぶんないことが、)

自分の思っているようなものでは多分ないことが、

(ぼくにはもううすうすわかっているんです。)

僕にはもう薄うすわかっているんです。

(それでいてこころをあつめてそこをみているとありありそうおもえてくる。)

それでいて心を集めてそこを見ているとありありそう思えて来る。

(そのときのこころのじょうたいがなんともいえないこうこつなんです。)

そのときの心の状態がなんとも言えない恍惚なんです。

(いったいそんなことがあるものですかね。あっはっはは。)

いったいそんなことがあるものですかね。あっはっはは。

(どうです、いまからいっしょにそこへいってみるきはありませんか」)

どうです、今から一緒にそこへ行ってみる気はありませんか」

(「それはどちらでもいいが、だんだんはなしがかきょうにはいってきましたね」)

「それはどちらでもいいが、だんだん話が佳境には入って来ましたね」

(そしてききてのせいねんはまたびーるをよんだ。)

そして聴き手の青年はまたビールを呼んだ。

(「いや、かきょうにはいってきたというのはほんとうなんですよ。)

「いや、佳境には入って来たというのはほんとうなんですよ。

(ぼくはだんだんかきょうにはいってきたんだ。なぜって、)

僕はだんだん佳境には入って来たんだ。何故って、

(ぼくにはさいしょまどがただなにかしらおもしろいものであったにすぎないんだ。)

僕には最初窓がただなにかしらおもしろいものであったに過ぎないんだ。

(それがだんだんひとのひみつをみるというきもちがいしきされてきた。)

それがだんだん人の秘密を見るという気持が意識されて来た。

(そうでしょう。するとつぎはひみつのなかでもべっどしーんのひみつに)

そうでしょう。すると次は秘密のなかでもベッドシーンの秘密に

(きょうみをもちだした。ところが、みたとおもったそれが)

興味を持ち出した。ところが、見たと思ったそれが

(どうやらちがうものらしくなってきた。しかしそのときのこうこつじょうたいそのものが)

どうやらちがうものらしくなって来た。しかしそのときの恍惚状態そのものが

(けっきょくすべてであるということがわかってきた。そうでしょう。いや、きみ、)

結局すべてであるということがわかって来た。そうでしょう。いや、君、

(じっさいそのこうこつじょうたいがすべてなんですよ。あっはっはは。)

実際その恍惚状態がすべてなんですよ。あっはっはは。

(そらのそらなるこうこつばんざいだ。このゆかいなじんせいにぷろじっとしよう」)

空の空なる恍惚万歳だ。この愉快な人生にプロジットしよう」

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