梶井基次郎 ある崖上の感情 2 (2/2)

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1 baru 4354 C+ 4.8 91.0% 837.2 4043 397 73 2024/12/12

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問題文

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(しゅふはもうねていた。)

主婦はもう寝ていた。

(いくしまはみしみしかいだんをきしらせながらじぶんのへやへかえった。)

生島はみしみし階段をきしらせながら自分の部屋へ帰った。

(そしてがらすまどをあけて、むっとするようにこもったよいのくうきを)

そして硝子窓をあけて、むっとするようにこもった宵の空気を

(すずしいやきとかえた。かれはじっとすわったままがけのほうをみていた。)

涼しい夜気と換えた。彼はじっと坐ったまま崖の方を見ていた。

(がけのみちはくらくてただひとつでんちゅうについているあかりが)

崖の路は暗くてただ一つ電柱についている燈が

(そのありかをしめしているにすぎなかった。)

そのありかを示しているに過ぎなかった。

(そこをながめながら、かれはこんやかふぇではなしあったせいねんのことをおもいだしていた。)

そこを眺めながら、彼は今夜カフェで話し合った青年のことを思い出していた。

(じぶんがなんどさそってもそこへいこうとはいわなかったことや、)

自分が何度誘ってもそこへ行こうとは言わなかったことや、

(それからじぶんがしつこくかみとえんぴつでがけみちのちずをかいておしえたことや、)

それから自分が執こく紙と鉛筆で崖路の地図を書いて教えたことや、

(そのおとこのかたくなにこばんでいるたいどにもかかわらず、)

その男の頑なに拒んでいる態度にもかかわらず、

(かれにもじぶんとおなじようなよくぼうがあるにちがいないとなぜかかたくしんじたことや)

彼にも自分と同じような欲望があるにちがいないとなぜか固く信じたことや

(そんなことをおもいだしながらかれのめはしらずしらず、)

そんなことを思い出しながら彼の眼は不知不識、

(もしやというきたいでしろいひとかげをそのやみのなかにさがしているのであった。)

もしやという期待で白い人影をその闇のなかに探しているのであった。

(かれのこころはまた、かれがそのがけのうえからみるあのまどのことをかんがえふけった。)

彼の心はまた、彼がその崖の上から見るあの窓のことを考え耽った。

(かれがそのなかにみるなかばむそうのそしてなかばげんじつの)

彼がそのなかに見る半ば夢想のそして半ば現実の

(だんじょのしたいがいかにじょうねつてきでせいよくてきであるか。)

男女の姿態がいかに情熱的で性欲的であるか。

(またそれにみいっているかれじしんがいかにじょうねつをおぼえせいよくをおぼえるか。)

またそれに見入っている彼自身がいかに情熱を覚え性欲を覚えるか。

(まどのなかのふたりはまるでかれのこきゅうをこきゅうしているようであり、)

窓のなかの二人はまるで彼の呼吸を呼吸しているようであり、

(かれはまたふたりのこきゅうをこきゅうしているようである、)

彼はまた二人の呼吸を呼吸しているようである、

(そのときのこうこつとしたこころのとうすいをおもいだしていた。)

そのときの恍惚とした心の陶酔を思い出していた。

など

(「それにくらべて」とかれはかんがえつづけた。)

「それに比べて」と彼は考え続けた。

(「おれがかのじょにたいしているときはどうであろう。)

「俺が彼女に対しているときはどうであろう。

(おれはまるでわるいあんじにかかってしまったようにしらじらとなってしまう。)

俺はまるで悪い暗示にかかってしまったように白じらとなってしまう。

(がけのうえのとうすいのたとえじゅうぶんのいちでも、なぜかのじょにたいするときかえってこないのか。)

崖の上の陶酔のたとえ十分の一でも、何故彼女に対するとき帰って来ないのか。

(おれはおれのそうしたものをまどのなかへすいとられているのではなかろうか。)

俺は俺のそうしたものを窓のなかへ吸いとられているのではなかろうか。

(そういうけいしきでしかせいよくにふけることができなくなっているのではなかろうか。)

そういう形式でしか性欲に耽ることができなくなっているのではなかろうか。

(それともかのじょというたいしょうがそもそもじぶんにはまちがったけいしきなのだろうか」)

それとも彼女という対象がそもそも自分には間違った形式なのだろうか」

(「しかしおれにはまだひとつのくうそうがのこっている。)

「しかし俺にはまだ一つの空想が残っている。

(そしてのこっているのはただひとつそのくうそうがあるばかりだ」)

そして残っているのはただ一つその空想があるばかりだ」

(つくえのうえのでんとうのすたんどへはいつのまにかたくさんむしがあつまってきていた。)

机の上の電燈のスタンドへはいつの間にかたくさん虫が集まって来ていた。

(それをみるといくしまはくさりをひいてでんとうをけした。)

それを見ると生島は鎖をひいて電燈を消した。

(わずかそうしたことすらかれにはしゅうかんてきなはんたい)

わずかそうしたことすら彼には習慣的な反対

(がけからのかんかけいにおこったであろうひとつのへんかがちらとこころをかすめるのであった。)

崖からの瞰下景に起こったであろう一つの変化がちらと心を掠めるのであった。

(へやがくらくなるとやきがことさらすずしくなった。がけみちのやみもはっきりしてきた。)

部屋が暗くなると夜気がことさら涼しくなった。崖路の闇もはっきりして来た。

(しかしそのなかにはいぜんとしてなにのひとかげもたってはいなかった。)

しかしそのなかには依然として何の人影も立ってはいなかった。

(かれにただひとつののこっているくうそうというのは、)

彼にただ一つの残っている空想というのは、

(かれがそのかふとねどこをともにしているとき、ふいにおこってくる、)

彼がその寡婦と寝床を共にしているとき、ふいに起こって来る、

(へやのまどをあけはなしてしまうというくうそうであった。)

部屋の窓を明け放してしまうという空想であった。

(もちろんかれはそのとき、だれかがそこのがけみちにたっていて、)

勿論彼はそのとき、誰かがそこの崖路に立っていて、

(かれらのまどをながめ、かれらのすがたをみとめて、)

彼らの窓を眺め、彼らの姿を認めて、

(どんなにかしげきをかんじるであろうことをおもい、そのしげきをとおして、)

どんなにか刺戟を感じるであろうことを想い、その刺戟を通して、

(なにのかんどうもないかれらのげんじつにもあるとうすいが)

何の感動もない彼らの現実にもある陶酔が

(おこってくるだろうことをよそうしているのであった。)

起こって来るだろうことを予想しているのであった。

(しかしかれにはただまどをあけがけみちへ)

しかし彼にはただ窓を明け崖路へ

(かれらのすがたをさらすということばかりでもすでにしんせんなみりょくであった。)

彼らの姿を晒すということばかりでもすでに新鮮な魅力であった。

(かれはそのときの、うすいはものでせをなでられるようなせんりつをくうそうした。)

彼はそのときの、薄い刃物で背を撫でられるような戦慄を空想した。

(そればかりではない。それがいかにかれらのみにくいげんじつにたいする)

そればかりではない。それがいかに彼らの醜い現実に対する

(はんぎゃくであるかをそうぞうするのであった。)

反逆であるかを想像するのであった。

(「いったいおれはこんやあのおとこをどうするつもりだったんだろう」)

「いったい俺は今夜あの男をどうするつもりだったんだろう」

(いくしまはがけみちのやみのなかにしらずしらずじぶんのめのまっていたものが)

生島は崖路の闇のなかに不知不識自分の眼の待っていたものが

(そのせいねんのすがたであったことにきがつくと、ふとさめたじぶんにたちかえった。)

その青年の姿であったことに気がつくと、ふと醒めた自分に立ち返った。

(「おれははじめあのおとこにたいするこういにあふれていた。)

「俺ははじめあの男に対する好意に溢れていた。

(それでまどのはなしなどをもちだしてはなしあうきになったのだ。)

それで窓の話などを持ち出して話し合う気になったのだ。

(それだのにいまじぶんにあのおとこをじぶんのよくぼうのかいらいにしようと)

それだのに今自分にあの男を自分の欲望の傀儡にしようと

(おもっていたようなきがしてならないのはなぜだろう。)

思っていたような気がしてならないのは何故だろう。

(じぶんはじぶんのあいするものはたにんもあいするにちがいないという)

自分は自分の愛するものは他人も愛するにちがいないという

(こういにみちたかんがえではなしをしていたとおもっていた。)

好意に満ちた考えで話をしていたと思っていた。

(しかしそのすこしきょうせいがましいちょうしのなかには、)

しかしその少し強制がましい調子のなかには、

(じぶんのもっているよくぼうを、いわばあいてのからだにこすりつけて、)

自分の持っている欲望を、言わば相手の身体にこすりつけて、

(じぶんとおなじようなにんげんをせいぞうしようとしていたようなところが)

自分と同じような人間を製造しようとしていたようなところが

(しらずしらずにあったらしいきがする。)

不知不識にあったらしい気がする。

(そしていまじぶんのまっていたものは、)

そして今自分の待っていたものは、

(そんなよくぼうにしげきされてがけみちへあがってくるあのおとこであり、)

そんな欲望に刺戟されて崖路へあがって来るあの男であり、

(じぶんのくうそうしていたことはじぶんたちのみにくいげんじつのまどをあけて)

自分の空想していたことは自分達の醜い現実の窓を開けて

(がいじょうのみちへさらすことだったのだ。)

崖上の路へ曝すことだったのだ。

(おれのひみつなこころのなかだけのくうそうがおれじしんにはかんけいなく、)

俺の秘密な心のなかだけの空想が俺自身には関係なく、

(ひとりでのいしでちゃくちゃくとけいかくをすすめてゆくというような、)

ひとりでの意志で著々と計画を進めてゆくというような、

(いったいそんなことがありえることだろうか。)

いったいそんなことがあり得ることだろうか。

(それともこんなはんせいすらもちゃんとよていのしくみで、)

それともこんな反省すらもちゃんと予定の仕組で、

(いまもしあのおとこのかげがあすこへあらわれたら、)

今もしあの男の影があすこへあらわれたら、

(さあいよいよとしたをだすつもりにしていたのではなかろうか・・・・・・」)

さあいよいよと舌を出すつもりにしていたのではなかろうか……」

(いくしまはだんだんもつれてくるあたまをふるようにしてでんとうをともし、)

生島はだんだんもつれて来る頭を振るようにして電燈を点し、

(ねどこをのべにかかった。)

寝床を延べにかかった。

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