梶井基次郎 ある崖上の感情 3

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(いしだ(これはききてであったほうのせいねん)はあるばんのこと)

石田(これは聴き手であった方の青年)はある晩のこと

(そのがけみちのほうへさんぽのあしをむけた。)

その崖路の方へ散歩の足を向けた。

(かれはへいじょうあるいていたおうらいからおしえられたはじめてのみちへあしをふみいれたとき、)

彼は平常歩いていた往来から教えられたはじめての路へ足を踏み入れたとき、

(いったいこんなところがじぶんのいえのきんじょにあったのかとふしぎなきがした。)

いったいこんなところが自分の家の近所にあったのかと不思議な気がした。

(がんらいそのへんはむやみにさかのおおい、きゅうりょうとたにとにとんだちせいであった。)

元来その辺はむやみに坂の多い、丘陵と谷とに富んだ地勢であった。

(まちのたかみにはこうぞくやかぞくのやしきにならんで、りっぱなもんがまえのいえが、)

町の高みには皇族や華族の邸に並んで、立派な門構えの家が、

(よるになるとこふうながすとうのつくしずかなみちをさしはさんでたちならんでいた。)

夜になると古風な瓦斯燈の点く静かな道を挾んで立ち並んでいた。

(ふかいじゅりつのなかにはきょうかいのせんとうがそびえていたり、)

深い樹立のなかには教会の尖塔が聳えていたり、

(がいこくのこうしかんのはたがヴぃらふうなやねのうえにひるがえっていたりするのがみえた。)

外国の公使館の旗がヴィラ風な屋根の上にひるがえっていたりするのが見えた。

(しかしそのたににあたったところにはいんきなじめじめしたいえが、)

しかしその谷に当ったところには陰気なじめじめした家が、

(とおりのつうこうにんのためのみちではないようなあいろをかくして、)

通の通行人のための路ではないような隘路をかくして、

(くちてゆくばかりのそんざいをつづけているのだった。)

朽ちてゆくばかりの存在を続けているのだった。

(いしだはそのみちをとおってゆくとき、)

石田はその路を通ってゆくとき、

(だれかにとがめられはしないかというようなうしろめたさをかんじた。)

誰かに咎められはしないかというようなうしろめたさを感じた。

(なぜなら、そのみちへはおおっぴらにとおりすがりのいえがまどをひらいているのだった。)

なぜなら、その路へは大っぴらに通りすがりの家が窓を開いているのだった。

(そのなかにははだぬぎになったひとがいたり、はしらとけいがなっていたり、)

そのなかには肌脱ぎになった人がいたり、柱時計が鳴っていたり、

(あじけないせいかつがかやりをいぶしたりしていた。)

味気ない生活が蚊遣りを燻したりしていた。

(そのうえ、けんとうにはきまったようにやもりがとまっていてかれをきみわるがらせた。)

そのうえ、軒燈にはきまったようにやもりがとまっていて彼を気味悪がらせた。

(かれはなんどもふくろじにつきあたりながら、)

彼は何度も袋路に突きあたりながら、

(そのたびになおさらじぶんのあしおとにうしろめたさをかんじながら、)

そのたびになおさら自分の足音にうしろめたさを感じながら、

など

(やっとがけにそったみちへでた。しばらくゆくとじんかがたえてみちがくらくなり、)

やっと崖に沿った路へ出た。しばらくゆくと人家が絶えて路が暗くなり、

(わずかにひとつのでんとうがあしもとをてらしている、)

わずかに一つの電燈が足もとを照らしている、

(それがおしえられたばしょであるらしいところへやってきた。)

それが教えられた場所であるらしいところへやって来た。

(そこからはなるほどがいかのまちがひとめにみわたせた。いくつものまどがみえた。)

そこからはなるほど崖下の町が一と目に見渡せた。いくつもの窓が見えた。

(そしてそれはかれのしっているまちの、おもいがけないかんかけいであった。)

そしてそれは彼の知っている町の、思いがけない瞰下景であった。

(かれはかすかなりょじょうらしいものが、こくあたりにただよっている)

彼はかすかな旅情らしいものが、濃くあたりに漂っている

(あれちのぎくのにおいにまじって、じぶんのこころをそめているのをかんじた。)

あれちのぎくの匂いに混じって、自分の心を染めているのを感じた。

(あるまどではうんどうしゃつをきたおとこがみしんをふんでいた。)

ある窓では運動シャツを着た男がミシンを踏んでいた。

(やねのうえのやみのなかにたくさんのせんたくものらしいものがほのしろくうかんでいるのを)

屋根の上の闇のなかにたくさんの洗濯物らしいものが仄白く浮かんでいるのを

(みると、それはせんたくやのいえらしくおもわれるのだった。)

見ると、それは洗濯屋の家らしく思われるのだった。

(またあるひとつのまどではれしーヴぁをみみにあてていっしんにらじおをきいている)

またある一つの窓ではレシーヴァを耳に当てて一心にラジオを聴いている

(ひとのすがたがみえた。そのいっしんなすがたをみていると、)

人の姿が見えた。その一心な姿を見ていると、

(かれじしんのみみのなかでもそのらじおのちいさいおとがきこえてくるようにさえ)

彼自身の耳の中でもそのラジオの小さい音がきこえて来るようにさえ

(おもわれるのだった。 かれがさきのよる、よっていたせいねんにむかって、)

思われるのだった。  彼が先の夜、酔っていた青年に向かって、

(まどのなかにたったりすわったりしているひとびとのすがたが、)

窓のなかに立ったり坐ったりしている人びとの姿が、

(みななにかはかないうんめいをせおってうきよにいきているようにみえるといったのは)

みななにかはかない運命を背負って浮世に生きているように見えると言ったのは

(かれがこころにつぎのようなじょうけいをうかべていたからだった。)

彼が心に次のような情景を浮かべていたからだった。

(それはかれのいなかのいえのまえをとおっているかいどうにひとつみすぼらしいしょうにんやどがあって、)

それは彼の田舎の家の前を通っている街道に一つ見窄らしい商人宿があって、

(そのにかいのてすりのむこうに、よくあさなどしゅったつのまえのあさげをたべていたりする)

その二階の手摺の向こうに、よく朝など出立の前の朝餉を食べていたりする

(たびびとのすがたがかいどうからみえるのだった。)

旅人の姿が街道から見えるのだった。

(かれはなぜかそのなかであるひとつのじょうけいをはっきりこころにとめていた。)

彼はなぜかそのなかである一つの情景をはっきり心にとめていた。

(それはひとりのごじゅうがらみのおとこが、かおいろのわるいよっつくらいのおとこのこと)

それは一人の五十がらみの男が、顔色の悪い四つくらいの男の児と

(むかいあって、そのあさげのぜんにむかっているありさまだった。)

向かい合って、その朝餉の膳に向かっているありさまだった。

(そのかおにはうきよのくろうがいんうつにきざまれていた。)

その顔には浮世の苦労が陰鬱に刻まれていた。

(かれはひとこともものをいわずにはしをうごかしていた。)

彼はひと言も物を言わずに箸を動かしていた。

(そしてそのかおいろのわるいこどももだまって、なれないてつきで)

そしてその顔色の悪い子供も黙って、馴れない手つきで

(ちゃわんをかきこんでいたのである。)

茶碗をかきこんでいたのである。

(かれはそれをみながら、らくはくしたおとこのすがたをかんじた。)

彼はそれを見ながら、落魄した男の姿を感じた。

(そのおとこのこどもにたいするあいをかんじた。そしてそのこどもがおさないこころにも、)

その男の子供に対する愛を感じた。そしてその子供が幼い心にも、

(かれらのあきらめなければならないうんめいのことを)

彼らの諦めなければならない運命のことを

(しっているようなきがしてならなかった。)

知っているような気がしてならなかった。

(へやのなかにはしんぶんのふろくのようなものがふすまのやぶれのうえに)

部屋のなかには新聞の付録のようなものが襖の破れの上に

(はってあるのなどがみえた。)

貼ってあるのなどが見えた。

(それはかれがきゅうかにいなかへかえっていたあるあさのきおくであった。)

それは彼が休暇に田舎へ帰っていたある朝の記憶であった。

(かれはそのときじぶんがあやうくなみだをおとしそうになったのをおぼえていた。)

彼はそのとき自分が危く涙を落としそうになったのを覚えていた。

(そしていまもかれはそのきおくをこころのそこによみがえらせながら、めのしたのまちをながめていた。)

そして今も彼はその記憶を心の底に蘇らせながら、眼の下の町を眺めていた。

(ことにかれにそういうきもちをおこさせたのは、ひとむねのながやのまどであった。)

ことに彼にそういう気持を起こさせたのは、一棟の長屋の窓であった。

(あるまどのなかにはふるぼけたかやがかかっていた。)

ある窓のなかには古ぼけた蚊帳がかかっていた。

(そのとなりのまどではひとりのおとこがぼんやりてすりからからだをのりだしていた。)

その隣の窓では一人の男がぼんやり手摺から身体を乗り出していた。

(そのまたとなりの、いちばんよくみえるまどのなかには、)

そのまた隣の、一番よく見える窓のなかには、

(たんすなどにならんでとうみょうのともったぶつだんがかべぎわにたっているのであった。)

箪笥などに並んで燈明の灯った仏壇が壁ぎわに立っているのであった。

(いしだにはそれらのへやをくぎっているかべというものがはかなくかなしくみえた。)

石田にはそれらの部屋を区切っている壁というものがはかなく悲しく見えた。

(もしそこにすんでいるひとのだれかがこのがいじょうへきてそれらのかべをながめたら、)

もしそこに住んでいる人の誰かがこの崖上へ来てそれらの壁を眺めたら、

(どんなにかじぶんらのやすんじているかていというかんねんをもろくはかなくおもうだろうと、)

どんなにか自分らの安んじている家庭という観念を脆くはかなく思うだろうと、

(そんなことがおもわれた。)

そんなことが思われた。

(いっぽうにはやみのなかにきわだってあかるくてらされたひとつのまどがあいていた。)

一方には闇のなかにきわだって明るく照らされた一つの窓が開いていた。

(そのなかにはひとりのはげあたまのろうじんがたばこぼんをまえにして)

そのなかには一人の禿顱の老人が煙草盆を前にして

(きゃくのようなおとことむかいあっているのがみえた。)

客のような男と向かい合っているのが見えた。

(しばらくそこをみていると、)

しばらくそこを見ていると、

(そこがかいだんのあがりぐちになっているらしいへやのすみから、)

そこが階段の上り口になっているらしい部屋の隅から、

(にほんがみにあたまをゆったおんながのみもののようなものを)

日本髪に頭を結った女が飲みもののようなものを

(ぼんにのせながらあらわれてきた。)

盆に載せながらあらわれて来た。

(するとそのへやとがけとのあいだのくうかんがにわかにひとゆれゆれた。)

するとその部屋と崖との間の空間がにわかに一揺れ揺れた。

(それはおんなのすがたがそのあかるいでんとうのひかりをとつぜんさえぎったためだった。)

それは女の姿がその明るい電灯の光を突然遮ったためだった。

(おんながすわってぼんをすすめるときゃくのようなおとこがぺこぺこあたまをさげているのがみえた。)

女が坐って盆をすすめると客のような男がぺこぺこ頭を下げているのが見えた。

(いしだはなにかしばいでもみているようなきでそのまどをながめていたが、)

石田はなにか芝居でも見ているような気でその窓を眺めていたが、

(かれのこころにはさきのよるのせいねんのいったことばがしらずしらずのあいだにうかんでいた。)

彼の心には先の夜の青年の言った言葉が不知不識の間に浮かんでいた。

(だんだんひとのひみつをぬすみみするというきもちがいしきされてくる。)

だんだん人の秘密を盗み見するという気持が意識されて来る。

(それからひみつのなかでもべっどしーんのひみつがさがしたくなってくる。)

それから秘密のなかでもベッドシーンの秘密が捜したくなって来る。

(「あるいはそうかもしれない」とかれはおもった。)

「あるいはそうかもしれない」と彼は思った。

(「しかし、いまのじぶんのめのまえでそんなまどがあいていたら、)

「しかし、今の自分の眼の前でそんな窓が開いていたら、

(じぶんはあのおとこのようなよくじょうをかんじるよりも、)

自分はあの男のような欲情を感じるよりも、

(むしろもののあわれといったかんじょうをそのなかにかんじるのではなかろうか」)

むしろもののあわれと言った感情をそのなかに感じるのではなかろうか」

(そしてかれはがいかにみえるとそのおとこのいったそれらしいまどを)

そして彼は崖下に見えるとその男の言ったそれらしい窓を

(しばらくさがしたが、どこにもそんなまどはないのであった。)

しばらく捜したが、どこにもそんな窓はないのであった。

(そしてかれはまたしばらくするとみちをがいかのまちへあるきはじめた。)

そして彼はまたしばらくすると路を崖下の町へ歩きはじめた。

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