あじさい 佐藤春夫
女の子供は病気で寝ているが、何かを・・・
順位 | 名前 | スコア | 称号 | 打鍵/秒 | 正誤率 | 時間(秒) | 打鍵数 | ミス | 問題 | 日付 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | てんぷり | 6041 | A++ | 6.2 | 97.2% | 558.6 | 3475 | 100 | 62 | 2024/10/19 |
2 | Shion | 3501 | D+ | 3.6 | 96.1% | 978.2 | 3567 | 142 | 62 | 2024/10/18 |
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問題文
(ーーあのひとがあんなふうにしてふいにしんだのでなかったら、)
ーーあの人があんなふうにして不意に死んだのでなかったら、
(かりにまあながいわずらいのあとででもなくなったのであったら、)
仮にまあ長い患のあとででもなくなったのであったら、
(きっと、あなたとわたしとのことを、たとえばいいとかけっしていけないとか、)
きっと、あなたと私とのことを、たとえばいいとか決していけないとか、
(なにかしらともかくもはっきりといいおいたろう・・・)
何かしらともかくもはっきりと言い置いたろう・・・
(わたしはどうもそんなきがするのです。)
わたしはどうもそんな気がするのです。
(でも、あなたがあれからしちねんもたつのにどうしてきょうまで)
でも、あなたがあれから七年も経つのにどうして今日まで
(ひとりでいらっしゃるか、またわたしがどうしてときどきおせっきょうを)
ひとりでいらっしゃるか、またわたしがどうして時々お説教を
(きにでかけたりするようなきもちになったか、そのわけをあのひとは、)
きに出かけたりするような気持になったか、そのわけをあの人は、
(くちにだしてはいわなかったけれどちゃんとしってはいたのですものね。)
口に出しては言わなかったけれどちゃんと知ってはいたのですものね。
(それならばこそ、わたしをいっそうやさしくもしたのでしょう。)
それならばこそ、私を一そうやさしくもしたのでしょう。
(そのことをおもうとわたしは、それだけにまたどうしていいかこころがまようの。)
そのことを思うとわたしは、それだけにまたどうしていいか心が迷うの。
(そうしてわたしとあなたとがこんなはなしをしていることも、またこんなことを)
そうしてわたしとあなたとがこんな話をしていることも、またこんなことを
(おもってみることもきがひけてならないのですわ・・・)
思って見ることも気が引けてならないのですわ・・・
(そう、いまのさっきめになみだをためながらおんなのいったことばを、)
そう、今のさっき目に涙を溜めながら女の言った言葉を、
(おとこは、じぶんのこころのなかでくりかえしてみた。そうして、おんながどういうわけで)
男は、自分の心のなかで繰返して見た。そうして、女がどういうわけで
(そんなことをいうかというこころもちがおとこにもわかるようにおもえた。)
そんなことを言うかという心持が男にもわかるように思えた。
(それにつけてもあのときからいおうかいうまいかとおもいまどうていることを、)
それにつけてもあの時から言おうか言うまいかと思いまどうている事を、
(いまも、おんなにうちあけようかどうかとかんがえたりする。)
今も、女に打開けようかどうかと考えたりする。
(それは、ーーまったく、わたしはあののちいくどあのおとこがしんでさえくれたら。)
それは、ーー全く、私はあののち幾度あの男が死んでさえくれたら。
(・・・とおもったことがあるかしれないのです。あなたのおっとがあんなふうにして)
・・・と思った事があるか知れないのです。あなたの夫があんなふうにして
(おぼれしんだそのしゅんかんにも、わたしはもしかするととおくでなにもしらずにではあったが、)
溺れ死んだその瞬間にも、私はもしかすると遠くで何も知らずにではあったが、
(それをおもいつめていなかったとはいえないのです。じっさい、それほどたびたびわたしは)
それを思いつめていなかったとは言えないのです。実際、それほど度々私は
(そのことをおもったのだから。おとこがいおうかいうまいかとしていることばというのは)
そのことを思ったのだから。男が言おうか言うまいかとしている言葉というのは
(それだけのことである。ろくじょうのぶつだんのまに、あおじろくやつれたびょうじ、)
それだけのことである。六畳の仏壇の間に、蒼白くやつれた病児、
(むっつになるおんなのこのまくらもとからすこしはなれたところにおんなはすわっている。)
六つになる女の子の枕元から少し距れたところに女は坐っている。
(さっきからしごくひくいおとでしゃみせんをもてあそびながら、めをたたみのうえにみすえている。)
さっきから極く低い音で三味線を弄びながら、目を畳の上に見据えている。
(そのおなじあたりのたたみのうえをみいっておとこも、いまいったようなことを)
その同じあたりの畳の上を見入って男も、今言ったようなことを
(かんがえつづけていたが、そんなしんけいしつなかんがえかたをつっぱなそうとして、)
考えつづけていたが、そんな神経質な考え方を突放そうとして、
(めをあげておんなのよこがおをじっとみた。)
目を上げて女の横顔を凝と見た。
(ひじまくらをしているおとこのめにはおんなのかおがすこしべにをおびてきたようにおもえた。)
肘枕をしている男の目には女の顔が少し紅を帯びて来たように思えた。
(そのとき、へやのなかがすこしあかるくなったとおもうと、しょうじのこしにうすれびがさした。)
その時、部屋のなかが少し明くなったと思うと、障子の腰にうすれ日が射した。
(「あら、ひがあたってきたわ。」)
「あら、日が当って来たわ。」
(ひとりごとのようにおんなはいって、みをうかせながらしょうじをひいた。)
ひとり言のように女は言って、身を浮かせながら障子を引いた。
(くもにたえまがあってさみだれのはれまである。おんなはそらをみあげてから、)
雲に断え間があってさみだれの晴れ間である。女は空を見上げてから、
(いみもなくおとこのほうをみかえった。すこしふしぜんにゆがんでいるわらいがおであった。)
意味もなく男の方を見返った。少し不自然に歪んでいる笑い顔であった。
(まだかわききらないいまのさっきのなみだとわらいとでおんなのめはかがやかであった。)
まだ乾ききらない今のさっきの涙と笑いとで女の眼はかがやかであった。
(いままでおんなのよこがおをぬすみみていたおとこのめは、おんなのそのまなざしを)
今まで女の横顔を偸み見ていた男の目は、女のそのまなざしを
(まぶしがるようにさけて、しせんはにわのほうへむけられた。)
まぶしがるように避けて、視線は庭の方へ向けられた。
(のきからあまだれがひかってしづくしている。)
軒から雨だれが光ってしづくしている。
(「あじさいがあってもいいにわですがね。」)
「紫陽花があってもいい庭ですがね。」
(おとこはつかぬことをいった。)
男はつかぬことを言った。
(おんなはこたえるーー「いやですよ、あじさいなどは。)
女は答えるーー「いやですよ、紫陽花などは。
(あれはびょうにんのたえないはなだというじゃありませんか。」)
あれは病人の絶えない花だというじゃありませんか。」
(「そう。そんなこともいいますね・・・」)
「そう。そんなことも言いますね・・・」
(おんなはふたたびしゃみせんをとりあげた。おとこはきゅうにひじまくらからおきてすわりなおした。)
女は再び三味線をとり上げた。男は急に肘枕から起きて坐り直した。
(かれは、まわりえんにひとがくるとおもったからであった。)
彼は、まわり縁に人が来ると思ったからであった。
(「ばあやがもうかえったのかしら」おんなもそういった。)
「ばあやがもう帰ったのかしら」女もそう言った。
(ねむっていたこどもが、とつぜん、そのとき、けたたましくなきたてた。)
眠っていた子供が、突然、その時、けたたましく泣き立てた。
(ははおやはいまとりあげたばかりのしゃみせんをそこにおくと、こどものまくらもとへ)
母親は今とり上げたばかりの三味線をそこに置くと、子供の枕元へ
(にじりよった。「おとうさん!おとうさん!おとうさん!・・・」)
にじり寄った。「お父さん! お父さん! お父さん!・・・」
(こどもはははのかおをみようともせずにそうさけびつづけた。)
子供は母の顔を見ようともせずにそう叫びつづけた。
(「どうしたの。どうしたの。ーーゆめをみたのね・・・」おんなはあわれみをこうように)
「どうしたの。どうしたの。ーー夢を見たのね・・・」女は憫みを乞うように
(おとこのほうをみやりながら、はじめはこどもにそうしてだんだんとおとこにいった。)
男の方を見やりながら、初めは子供にそうしてだんだんと男に言った。
(「・・・ほんとうにへんなこですよ。いまになっておとうさんばかりこいしがるのよ。)
「・・・本当にへんな子ですよ。今になってお父さんばかり恋しがるのよ。
(それにここでなきゃーーぶつだんのまでなきゃねようとしないの。」)
それにここでなきゃーー仏壇の間でなきゃ寝ようとしないの。」
(おとこはそれにはこたえようともしなかった。)
男はそれには答えようともしなかった。
(しんぞうがふしぎにはやくうって、みみなりがするのにきがついた・・・)
心臓が不思議に早く打って、耳鳴がするのに気がついた・・・
(おんなはふとじぶんのはいごをふりかえってみなければならなかった。)
女はふと自分の背後をふりかえって見なければならなかった。
(そこにはしかし、もとよりなにもなかった。)
そこにはしかし、もとより何もなかった。
(ただやみつかれたこどもは、やせおとろえていっそうおおきくいっそうとうめいに)
ただ病み疲れた子供は、痩せおとろえて一そう大きく一そう透明に
(なったくろいひとみをぱっちりとみはって、ははのかたごしに、くうかんを、)
なった黒い瞳をぱっちりと見張って、母の肩ごしに、空間を、
(へやのひとすみをいつまでもぎょうししたーー。)
部屋の一隅をいつまでも凝視したーー。