夏帽子 萩原朔太郎 ①
その旅先で少女と出会う。
順位 | 名前 | スコア | 称号 | 打鍵/秒 | 正誤率 | 時間(秒) | 打鍵数 | ミス | 問題 | 日付 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | てんぷり | 5840 | A+ | 6.0 | 97.0% | 664.0 | 4000 | 122 | 62 | 2024/10/21 |
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問題文
(せいねんのときは、だれでもつまらないことにねつじょうをもつものだ。)
青年の時は、だれでもつまらないことに熱情をもつものだ。
(そのころ、ちほうのあるこうとうがっこうにいたわたしは、まいとししょかのきせつになると、)
その頃、地方の或る高等学校に居た私は、毎年初夏の季節になると、
(きまつてひとつのねつじょうにとりつかれた。それはなんでもないつまらぬことで、)
きまつて一つの熱情にとりつかれた。それは何でもないつまらぬことで、
(あるわたしのすきななつぼうしを、かぶつてみたいといふねがひである。)
或る私の好きな夏帽子を、被つてみたいといふ願ひである。
(そのすきなぼうしといふのはぱなまぼうでもなくたすかんでもなく、)
その好きな帽子といふのはパナマ帽でもなくタスカンでもなく、
(あのえびちゃいろのりぼんをまいた、いちこうのなつぼうしだつたのだ。)
あの海老茶色のリボンを巻いた、一高の夏帽子だつたのだ。
(どうしてそんなにまで、あのがくせいぼうしがすきだつたのか、)
どうしてそんなにまで、あの学生帽子が好きだつたのか、
(じぶんながらよくわからない。たぶんわたしは、そのころあいどくしたもりおうがいしの「せいねん」や、)
自分ながらよく解らない。多分私は、その頃愛読した森鴎外氏の『青年』や、
(なつめそうせきしのがくせいしょうせつなどからいちこうのがくせいたちをれんそうし、)
夏目漱石氏の学生小説などから一高の学生たちを聯想し、
(それがしょかのあおばのなかで、うえののもりなどをさんぽしている、)
それが初夏の青葉の中で、上野の森などを散歩してゐる、
(かれらのなつぼうしをひょうしょうさせ、れんそうしんりにけつごうしたためであらう。)
彼等の夏帽子を表象させ、聯想心理に結合した為であらう。
(とにかくわたしは、あのえびちゃいろのりぼんをかんがへ、そのしょせいぼうしをおもふだけでも、)
とにかく私は、あの海老茶色のリボンを考へ、その書生帽子を思ふだけでも、
(ふしぎになつかしいどいつのぎきょく、あると・はいでるべるひをれんそうして、)
ふしぎになつかしい独逸の戯曲、アルト・ハイデルベルヒを聯想して、
(なつのあおばにそよいでくるうみのきょうしゅうをかんじたりした。)
夏の青葉にそよいでくる海の郷愁を感じたりした。
(そのころわたしのいたちほうのこうとうがっこうでは、しんくいろのりぼんに)
その頃私の居た地方の高等学校では、真紅色のリボンに
(にほんのはくせんをいれたぼうしを、いちこうにじゅんじてせいていしていた。)
二本の白線を入れた帽子を、一高に準じて制定して居た。
(わたしはそれがいやだつたので、はくせんのうえにあかいんきをぬりつけたり、)
私はそれが厭だつたので、白線の上に赤インキを塗りつけたり、
(しんくいろのうえにむらさきえのぐをこすつたりして、むりにいちこうのぼうしにまぎらしていた。)
真紅色の上に紫絵具をこすつたりして、無理に一高の帽子に紛らして居た。
(だがたうとう、ねつじょうがおさへがたくなつてきたので、あるなつのきゅうかにじょうきょうして、)
だがたうとう、熱情が押へがたくなつて来たので、或夏の休暇に上京して、
(ほんごうのぼうしやから、いちこうのせいていぼうしをかつてしまつた。)
本郷の帽子屋から、一高の制定帽子を買つてしまつた。
(しかしそれをかつたあとでは、つまらないかいこんにくやまされた。)
しかしそれを買つた後では、つまらない悔恨にくやまされた。
(そんなものをかつたところで、じっさいのいちこうせいとでもないじぶんが、)
そんなものを買つたところで、実際の一高生徒でもない自分が、
(まさかきはずかしく、かぶつてあるくわけにもいかなかつたから。)
まさか気恥しく、被つて歩くわけにも行かなかつたから。
(わたしはひとのいないところで、どこかないしょうにぼうしをかぶり、おうがいはかせの「せいねん」や)
私は人の居ないところで、どこか内証に帽子を被り、鴎外博士の『青年』や
(はいでるべるひをれんそうしつつ、じぶんがそのしゅじんこうであるごとく、)
ハイデルベルヒを聯想しつつ、自分がその主人公である如く、
(くうそうりのえつらくにふけりたいとかんがへた。)
空想裡の悦楽に耽りたいと考へた。
(そのつよいよくじょうは、どうしてもおさへることができなかつた。そこで、あるなつ、)
その強い欲情は、どうしても押へることができなかつた。そこで、或夏、
(しちがつのきゅうかになるとどうじに、ひそかにぼうしをこうりにいれて、にっこうのやまおくにある)
七月の休暇になると同時に、ひそかに帽子を行李に入れて、日光の山奥にある
(ちゅうぜんじのひしょちへいつた。もちろんやどやは、こはんのれーきほてるをせんていした。)
中禅寺の避暑地へ行つた。もちろん宿屋は、湖畔のレーキホテルを選定した。
(それはわたしのくうそうりにすむじんぶつとしても、とうぜんせんていさるべきのりょかんであつた。)
それは私の空想裡に住む人物としても、当然選定さるべきの旅館であつた。
(あるひわたしは、ふきんのちいさなたきをみようとして、ひとりでなつのやまみちをのぼつていつた。)
或日私は、附近の小さな滝を見ようとして、一人で夏の山道を登つて行つた。
(しちがつしょじゅんのにっこうは、あおばのはかげであかるくきらきらとかがやいていた。)
七月初旬の日光は、青葉の葉影で明るくきらきらと輝やいて居た。
(わたしはやどをでるときから、おもひきつてこうりのなかのぼうしをかぶつていた。)
私は宿を出る時から、思ひ切つて行李の中の帽子を被つて居た。
(こんなさびしいやまみちでは、もちろんだれもみるひとがなく、きはずかしいおもひなしに、)
こんな寂しい山道では、もちろんだれも見る人がなく、気恥しい思ひなしに、
(かってなくうそうにふけれるとおもつたからだ。なつのやまみちには、)
勝手な空想に耽れると思つたからだ。夏の山道には、
(いろいろなしろいはながさいていた。わたしはしょせいばかまにぼうしをかぶり、)
いろいろな白い花が咲いて居た。私は書生袴に帽子を被り、
(あせばんだひふをかんじながら、それでもみぎのかたをたかくいからし、)
汗ばんだ皮膚を感じながら、それでも右の肩を高く怒らし、
(どいつがくせいのせいしゅんきしつをひょうしょうする、あのろまんてきのごうそうをかんじつつあるいていた。)
独逸学生の青春気質を表象する、あの浪漫的の豪壮を感じつつ歩いて居た。
(かいちゅうにはまるぜんでかつたばかりの、なつかしいはいねのししゅうがはいつていた。)
懐中には丸善で買つたばかりの、なつかしいハイネの詩集が這入つて居た。
(そのししゅうはさくいんのえんぴつでよごされており、ところどころにしおれたくさばななどがおされていた。)
その詩集は索引の鉛筆で汚されて居り、所々に凋れた草花などが押されて居た。
(やまみちのいきつめたがけをまがつたときに、ふとわたしのまえにあるいていく、)
山道の行きつめた崖を曲つた時に、ふと私の前に歩いて行く、
(にこのあかるいぱらそるをみた。)
二個の明るいパラソルを見た。
(たしかにしまいであるところの、うつくしくわかいむすめであつた。わたしはなんのりゆうもなく、)
たしかに姉妹であるところの、美しく若い娘であつた。私は何の理由もなく、
(きゅうにあしがすくむやうなはずかしさと、ひとりでいるきまりのわるさをかんじたので、)
急に足がすくむやうな羞しさと、一人で居るきまりの悪さを感じたので、
(ほちょうをはやめながら、わざとかれらのほうをみないやうにし、)
歩調を早めながら、わざと彼等の方を見ないやうにし、
(とくべつにまたかたをいからしておひぬけた。どんなわたしのようすからも、)
特別にまた肩を怒らして追ひぬけた。どんな私の様子からも、
(かれらにたいしてむかんしんでいることをよそはうとして、むりなどりょくから)
彼等に対して無関心で居ることを装はうとして、無理な努力から
(かたくなつていた。そのくせないしんでは、かうしたひとけのないやまみちで、)
固くなつて居た。そのくせ内心では、かうした人気のない山道で、
(うつくしいむすめらとみちづれになり、ひとくちでもことばをかわせられることの)
美しい娘等と道づれになり、一口でも言葉を交せられることの
(よろこびをこころにかんじ、くうそうのありえべきこうふくのなかでもぢもぢしながら。)
悦びを心に感じ、空想の有り得べき幸福の中でもぢもぢしながら。
(わたしはおんならをおひこしながら、こんなぜっこうのばあいにさいしてちやんすを)
私は女等を追ひ越しながら、こんな絶好の場合に際してチヤンスを
(とらへなかつたことのぐをこころにくいた。)
捕へなかつたことの愚を心に悔いた。
(だがちょうどそのとき、ぐうぜんのうまいきかいがきた。わたしがあせをぬぐはうとして、)
だが丁度その時、偶然のうまい機会が来た。私が汗をぬぐはうとして、
(はんけちでひたいのうえをふいたときに、ぼうしがあたまからすべりおちた。)
ハンケチで額の上をふいた時に、帽子が頭からすべり落ちた。
(それはわのやうにころがつていつて、すぐごろっぽあとからあるいてくる、)
それは輪のやうに転がつて行つて、すぐ五六歩後から歩いて来る、
(おんなたちのあしもとにとまつた。わかいほうのむすめが、すぐそれをひろつてくれた。)
女たちの足許に止まつた。若い方の娘が、すぐそれを拾つてくれた。
(かのじょははぢるようすもなく、かいかつにわたしのほうへはしつてきた。)
彼女は恥ぢる様子もなく、快活に私の方へ走つて来た。
(「どうも・・・どうも、ありがたう。」)
「どうも・・・どうも、ありがたう。」
(わたしはどぎまぎしながら、やつとくちのなかでれいをいつた。)
私はどぎまぎしながら、やつと口の中で礼を言つた。
(そしていそいでぼうしをかぶり、にげだすやうにすたすたとあるきだした。)
そして急いで帽子を被り、逃げ出すやうにすたすたと歩き出した。
(うちゅうがまっかにかいてんして、どうすればよいかわからなかつた。)
宇宙が真赤に廻転して、どうすれば好いか解らなかつた。
(ただあしだけがきかいてきにうんどうして、むやみにはやあしでまえへすすんだ。)
ただ足だけが機械的に運動して、むやみに速足で前へ進んだ。