風立ちぬ 堀辰雄 ③
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問題文
(「ちょっとおきてみたんだけれど、すぐつかれちゃったわ」)
「ちょっと起きて見たんだけれど、すぐ疲れちゃったわ」
(そういいながら、かのじょはいかにもつかれをおびたような、ちからなげなてつきで、)
そう言いながら、彼女はいかにも疲れを帯びたような、力なげな手つきで、
(ただなんということもなしにてでもてあそんでいたらしいそのぼうしを、)
ただ何んということもなしに手で弄んでいたらしいその帽子を、
(すぐわきにあるきょうだいのうえへむぞうさにほうりなげた。)
すぐ脇にある鏡台の上へ無造作にほうり投げた。
(が、それはそこまでとどかないでゆかのうえにおちた。わたしはそれにちかよって、)
が、それはそこまで届かないで床の上に落ちた。私はそれに近寄って、
(ほとんどわたしのかおがかのじょのあしのさきにくっつきそうになるようにかがみこんで、)
殆ど私の顔が彼女の足のさきにくっつきそうになるように屈み込んで、
(そのぼうしをひろいあげると、こんどはじぶんのてで、)
その帽子を拾い上げると、今度は自分の手で、
(さっきかのじょがそうしていたように、それをおもちゃにしだしていた。)
さっき彼女がそうしていたように、それをおもちゃにし出していた。
(それからわたしはやっときいた。)
それから私はやっと訊いた。
(「こんなぼうしなんぞとりだして、なにをしていたんだい?」)
「こんな帽子なんぞ取り出して、何をしていたんだい?」
(「そんなもの、いつになったらかぶれるようになるんだかしれやしないのに、)
「そんなもの、いつになったら被れるようになるんだか知れやしないのに、
(おとうさまったら、きのうかっておいでになったのよ。)
お父様ったら、きのう買っておいでになったのよ。
(ーーおかしなおとうさまでしょう?」)
ーーおかしなお父様でしょう?」
(「これ、おとうさまのおみたてなの?ほんとうによいおとうさまじゃないか。)
「これ、お父様のお見立てなの? 本当に好いお父様じゃないか。
(ーーどおれ、このぼうし、ちょっとかぶってごらん」とわたしがかのじょのあたまに)
ーーどおれ、この帽子、ちょっとかぶって御覧」と私が彼女の頭に
(それをじょうだんはんぶんかぶせるようなまねをしかけると、)
それを冗談半分かぶせるような真似をしかけると、
(「いや、そんなことーー」かのじょはそういって、うるさそうに、)
「いや、そんなことーー」 彼女はそう言って、うるさそうに、
(それをさけでもするように、なかばみをおこした。)
それを避けでもするように、半ば身を起した。
(そうしていいわけのようによわよわしいほほえみをしてみせながら、)
そうして言い訣のように弱々しい微笑をして見せながら、
(ふいとおもいだしたように、いくぶんやせのめだつてで、)
ふいと思い出したように、いくぶん痩せの目立つ手で、
(すこしもつれたかみをなおしはじめた。そのなにげなしにしている、)
すこしもつれた髪を直しはじめた。その何気なしにしている、
(それでいていかにもしぜんにわかいおんならしいてつきは、それがまるでわたしを)
それでいていかにも自然に若い女らしい手つきは、それがまるで私を
(あいぶでもしだしたかのような、いきづまるほどせんしゅあるなみりょくを)
愛撫でもし出したかのような、呼吸づまるほどセンシュアルな魅力を
(わたしにかんじさせた。そうしてそれは、おもわずそれからわたしが)
私に感じさせた。そうしてそれは、思わずそれから私が
(めをそらさずにはいられないほどだったーー)
目をそらさずにはいられないほどだったーー
(やがてわたしはそれまでてでもてあそんでいたかのじょのぼうしを、)
やがて私はそれまで手で弄んでいた彼女の帽子を、
(そっとわきのきょうだいのうえにのせると、ふいとなにかかんがえだしたようにだまりこんで、)
そっと脇の鏡台の上に載せると、ふいと何か考え出したように黙りこんで、
(なおもそういうかのじょからはめをそらせつづけていた。)
なおもそういう彼女からは目をそらせつづけていた。
(「おおこりになったの?」とかのじょはとつぜんわたしをみあげながら、)
「おおこりになったの?」と彼女は突然私を見上げながら、
(きづかわしそうにとうた。「そうじゃないんだ」とわたしはやっと)
気づかわしそうに問うた。「そうじゃないんだ」と私はやっと
(かのじょのほうへめをやりながら、それからはなしのつづきでもなんでもなしに、)
彼女の方へ目をやりながら、それから話の続きでもなんでもなしに、
(だしぬけにこういいだした。「さっきおとうさまがそういっていらしったが、)
出し抜けにこう言い出した。「さっきお父様がそう言っていらしったが、
(おまえ、ほんとうにさなとりうむにいくきかい?」)
お前、ほんとうにサナトリウムに行く気かい?」
(「ええ、こうしていても、いつよくなるのだかわからないのですもの。)
「ええ、こうしていても、いつ良くなるのだか分らないのですもの。
(はやくよくなれるんなら、どこへでもいっているわ。でもーー」)
早く良くなれるんなら、何処へでも行っているわ。でもーー」
(「どうしたのさ?なんていうつもりだったんだい?」)
「どうしたのさ? なんて言うつもりだったんだい?」
(「なんでもないの」)
「なんでもないの」
(「なんでもなくってもいいからいってごらん。ーーどうしてもいわないね、)
「なんでもなくってもいいから言って御覧。ーーどうしても言わないね、
(じゃぼくがいってやろうか?おまえ、ぼくにもいっしょにいけというのだろう?」)
じゃ僕が言ってやろうか? お前、僕にも一緒に行けというのだろう?」
(「そんなことじゃないわ」とかのじょはきゅうにわたしをさえぎろうとした。)
「そんなことじゃないわ」と彼女は急に私を遮ろうとした。
(しかしわたしはそれにはかまわずに、さいしょのちょうしとはことなって、)
しかし私はそれには構わずに、最初の調子とは異って、
(だんだんまじめになりだした、いくぶんふあんそうなちょうしでいいつづけた。)
だんだん真面目になりだした、いくぶん不安そうな調子で言いつづけた。
(「ーーいや、おまえがこなくともいいといったって、そりあぼくはいっしょにいくとも。)
「ーーいや、お前が来なくともいいと言ったって、そりあ僕は一緒に行くとも。
(だがね、ちょっとこんなきがして、それがきがかりなのだ。)
だがね、ちょっとこんな気がして、それが気がかりなのだ。
(ーーぼくはこうしておまえといっしょにならないまえから、どこかのさびしいやまのなかへ、)
ーー僕はこうしてお前と一緒にならない前から、何処かの淋しい山の中へ、
(おまえみたいなかわいらしいむすめとふたりきりのせいかつをしにいくことを)
お前みたいな可哀らしい娘と二人きりの生活をしに行くことを
(ゆめみていたことがあったのだ。おまえにもずっとまえにそんなわたしのゆめを)
夢みていたことがあったのだ。お前にもずっと前にそんな私の夢を
(うちあけやしなかったかしら?ほら、あのやまごやのはなしさ、)
打ち明けやしなかったかしら? ほら、あの山小屋の話さ、
(そんなやまのなかにわたしたちはすめるのかしらといって、あのときはおまえは)
そんな山の中に私達は住めるのかしらと云って、あのときはお前は
(むじゃきそうにわらっていたろう?)
無邪気そうに笑っていたろう?
(ーーじつはね、こんどおまえがさなとりうむへいくといいだしているのも、)
ーー実はね、こんどお前がサナトリウムへ行くと言い出しているのも、
(そんなことがしらずしらずのうちにおまえのこころをうごかしているのじゃないかと)
そんなことが知らず識らずの裡にお前の心を動かしているのじゃないかと
(おもったのだ。ーーそうじゃないのかい?」)
思ったのだ。ーーそうじゃないのかい?」
(かのじょはつとめてほほえみながら、だまってそれをきいていたが、)
彼女はつとめて微笑ながら、黙ってそれを聞いていたが、
(「そんなこともうおぼえてなんかいないわ」とかのじょはきっぱりといった。)
「そんなこともう覚えてなんかいないわ」と彼女はきっぱりと言った。
(それからむしろわたしのほうをいたわるようなめつきでしげしげとみながら、)
それから寧ろ私の方をいたわるような目つきでしげしげと見ながら、
(「あなたはときどきとんでもないことをかんがえだすのねーー」)
「あなたはときどき飛んでもないことを考え出すのねーー」
(それからすうふんご、わたしたちは、まるでわたしたちのあいだには)
それから数分後、私達は、まるで私達の間には
(なにごともなかったようなかおつきをして、ふれんちどあのむこうに、)
何事もなかったような顔つきをして、フレンチドアの向うに、
(しばふがもうだいぶあおくなって、あちらにもこちらにも)
芝生がもう大ぶ青くなって、あちらにもこちらにも
(かげろうらしいもののたっているのを、いっしょになってめずらしそうにながめだしていた。)
陽炎らしいものの立っているのを、一緒になって珍らしそうに眺め出していた。
(しがつになってから、せつこのびょうきはいくらかずつかいふくきに)
四月になってから、節子の病気はいくらかずつ恢復期に
(ちかづきだしているようにみえた。そしてそれがいかにも)
近づき出しているように見えた。そしてそれがいかにも
(ちちとしていればいるほど、そのかいふくへのもどかしいようないっぽいっぽは、)
遅々としていればいるほど、その恢復へのもどかしいような一歩一歩は、
(かえってなにかかくじつなもののようにおもわれ、わたしたちにはいいしれず)
かえって何か確実なもののように思われ、私達には云い知れず
(たのもしくさえあった。そんなあるひのごごのこと、わたしがいくと、)
頼もしくさえあった。そんな或る日の午後のこと、私が行くと、
(ちょうどちちはがいしゅつしていて、せつこはひとりでびょうしつにいた。)
丁度父は外出していて、節子は一人で病室にいた。
(そのひはたいへんきぶんもよさそうで、いつもほとんどきたきりのねまきを、)
その日は大へん気分もよさそうで、いつも殆ど着たきりの寝間着を、
(めずらしくあおいぶらうすにきかえていた。わたしはそういうすがたをみると、)
めずらしく青いブラウスに着換えていた。私はそういう姿を見ると、
(どうしてもかのじょをにわへひっぱりだそうとした。すこしばかりかぜがふいていたが、)
どうしても彼女を庭へ引っぱり出そうとした。すこしばかり風が吹いていたが、
(それすらきもちのいいくらいやわらかだった。)
それすら気持のいいくらい軟らかだった。
(かのじょはちょっとじしんなさそうにわらいながら、それでもわたしにやっとどういした。)
彼女はちょっと自信なさそうに笑いながら、それでも私にやっと同意した。
(そうしてわたしのかたにてをかけて、ふれんちどあから、なんだかあぶなかしそうな)
そうして私の肩に手をかけて、フレンチドアから、何んだか危かしそうな
(あしつきをしながら、おずおずとしばふのうえへでていった。いけがきにそうて、)
足つきをしながら、おずおずと芝生の上へ出て行った。いけがきに沿うて、
(いろんながいこくしゅのもまじって、どれがどれだかみわけられないくらいに)
いろんな外国種のも混じって、どれがどれだか見分けられないくらいに
(えだとえだをかわしながら、ごちゃごちゃにしげっているうえこみのほうへ)
枝と枝を交わしながら、ごちゃごちゃに茂っている植込みの方へ
(ちかづいてゆくと、それらのしげみのうえには、あちらにもこちらにもしろやきやたんしの)
近づいてゆくと、それらの茂みの上には、あちらにもこちらにも白や黄や淡紫の
(ちいさなつぼみがもういまにもさきだしそうになっていた。)
小さな莟がもう今にも咲き出しそうになっていた。
(わたしはそんなしげみのひとつのまえにたちどまると、きょねんのあきだったか、)
私はそんな茂みの一つの前に立ち止まると、去年の秋だったか、
(それがそうだとかのじょにおしえられたのをひょっくりおもいだして、)
それがそうだと彼女に教えられたのをひょっくり思い出して、
(「これはらいらっくだったね?」とかのじょのほうをふりむきながら、)
「これはライラックだったね?」と彼女の方をふり向きながら、
(なかばきくようにいった。)
半ば訊くように言った。