風立ちぬ 堀辰雄 ⑦
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問題文
(さなとりうむにつくと、わたしたちは、そのいちばんおくのほうの、)
サナトリウムに着くと、私達は、その一番奥の方の、
(うらがすぐぞうきばやしになっている、びょうとうのにかいのだいいちごうしつにいれられた。)
裏がすぐ雑木林になっている、病棟の二階の第一号室に入れられた。
(かんたんなしんさつご、せつこはすぐべっどにねているようにめいじられた。)
簡単な診察後、節子はすぐベッドに寝ているように命じられた。
(りのりうむでゆかをはったびょうしつには、)
リノリウムで床を張った病室には、
(すべてまっしろにぬられたべっどとたくといすと、)
すべて真っ白に塗られたベッドと卓と椅子と、
(ーーそれからそのほかには、いましがたこづかいが)
――それからその他には、いましがた小使が
(とどけてくれたばかりのすうこのとらんくがあるきりだった。)
届けてくれたばかりの数箇のトランクがあるきりだった。
(ふたりきりになると、わたしはしばらくおちつかずに、)
二人きりになると、私はしばらく落着かずに、
(つきそいにんのためにあてられたせまくるしいそくしつにはいろうともしないで、)
附添人のために宛てられた狭苦しい側室にはいろうともしないで、
(そんなむきだしなかんじのするしつないをぼんやりとみまわしたり、)
そんなむき出しな感じのする室内をぼんやりと見廻したり、
(また、なんどもまどにちかづいては、そらもようばかりきにしていた。)
又、何度も窓に近づいては、空模様ばかり気にしていた。
(かぜがまっくろなくもをおもたそうにひきずっていた。)
風が真っ黒な雲を重たそうに引きずっていた。
(そしてときおりうらのぞうきばやしからするどいおとをもいだりした。)
そしてときおり裏の雑木林から鋭い音をもいだりした。
(わたしはいちどさむそうなかっこうをしてばるこんにでていった。)
私は一度寒そうな恰好をしてバルコンに出て行った。
(ばるこんはなんのしきりもなしにずっとむこうのびょうしつまでつづいていた。)
バルコンは何んの仕切もなしにずっと向うの病室まで続いていた。
(そのうえにはまったくひとけがたえていたので、わたしはかまわずにあるきだしながら、)
その上には全く人けが絶えていたので、私は構わずに歩き出しながら、
(びょうしつをひとつひとつのぞいていってみると、ちょうどよんばんめのびょうしつのなかに、)
病室を一つ一つ覗いて行って見ると、丁度四番目の病室のなかに、
(ひとりのかんじゃのねているのがはんびらきになったまどからみえたので、)
一人の患者の寝ているのが半開きになった窓から見えたので、
(わたしはいそいでそのままひっかえしてきた。)
私はいそいでそのまま引っ返して来た。
(やっとらんぷがついた。)
やっとランプが点ついた。
(それからわたしたちはかんごふのはこんできてくれたしょくじにむかいあった。)
それから私達は看護婦の運んで来てくれた食事に向い合った。
(それはわたしたちがふたりきりでさいしょにともにするしょくじにしては、すこしわびしかった。)
それは私達が二人きりで最初に共にする食事にしては、すこし佗しかった。
(しょくじちゅう、そとがもうまっくらなのでなにもきがつかずに、)
食事中、外がもう真っ暗なので何も気がつかずに、
(ただなんだかあたりがきゅうにしずかになったとおもっていたら、)
唯何んだかあたりが急に静かになったと思っていたら、
(いつのまにかゆきになりだしたらしかった。)
いつのまにか雪になり出したらしかった。
(わたしはたちあがって、はんびらきにしてあったまどをもうすこしほそめにしながら、)
私は立ち上って、半開きにしてあった窓をもう少し細目にしながら、
(そのがらすにかおをくっつけて、それがわたしのいきでくもりだしたほど、)
その硝子に顔をくっつけて、それが私の息で曇りだしたほど、
(じっとゆきのふるのをみつめていた。それからやっとそこをはなれながら、)
じっと雪のふるのを見つめていた。それからやっと其処を離れながら、
(せつこのほうをふりむいて、「ねえ、おまえ、なんだってこんなーー」)
節子の方を振り向いて、「ねえ、お前、何んだってこんなーー」
(といいだしかけた。かのじょはべっどにねたまま、わたしのかおをうったえるようにみあげて、)
と言い出しかけた。彼女はベッドに寝たまま、私の顔を訴えるように見上げて、
(それをわたしにいわせまいとするように、くちへゆびをあてた。)
それを私に言わせまいとするように、口へ指をあてた。
(やつがたけのおおきなのびのびとしたたいしゃいろのすそのがようやくそのこうばいを)
八ヶ岳の大きなのびのびとした代赭色の裾野が漸くその勾配を
(ゆるめようとするところに、さなとりうむは、いくつかのそくよくを)
弛めようとするところに、サナトリウムは、いくつかの側翼を
(へいこうにひろげながら、みなみをむいてたっていた。そのすそののけいしゃは)
並行に拡げながら、南を向いて立っていた。その裾野の傾斜は
(さらにのびていって、にさんのちいさなさんそんをむらぜんたいかたむかせながら、)
更に延びて行って、二三の小さな山村を村全体傾かせながら、
(さいごにむすうのくろいまつにすっかりつつまれながら、)
最後に無数の黒い松にすっかり包まれながら、
(みえないたにまのなかにつきていた。)
見えないたにまのなかに尽きていた。
(さなとりうむのみなみにひらいたばるこんからは、)
サナトリウムの南に開いたバルコンからは、
(それらのかたむいたむらとそのあかちゃけたこうさくちがいったいにみわたされ、)
それらの傾いた村とそのあかちゃけた耕作地が一帯に見渡され、
(さらにそれらをとりかこみながらはてしなくならびたっているまつばやしのうえに、)
更にそれらを取り囲みながら果てしなくならび立っている松林の上に、
(よくはれているひだったならば、みなみからにしにかけて、)
よく晴れている日だったならば、南から西にかけて、
(みなみあるぷすとそのにさんのしみゃくとが、)
南アルプスとその二三の支脈とが、
(いつもじぶんじしんでわきあがらせたくものなかにみえかくれしていた。)
いつも自分自身で湧き上らせた雲のなかに見え隠れしていた。
(さなとりうむについたよくちょう、じぶんのそくしつでわたしがめをさますと、)
サナトリウムに着いた翌朝、自分の側室で私が目を醒ますと、
(ちいさなまどわくのなかに、らんせいしょくにはれきったそらと、)
小さな窓枠の中に、藍青色に晴れ切った空と、
(それからいくつものまっしろい、とさかのようなさんてんが、)
それからいくつもの真っ白い、鶏冠のような山巓が、
(そこにまるでたいきからひょっくりうまれでもしたようなおもいがけなさで、)
そこにまるで大気からひょっくり生れでもしたような思いがけなさで、
(ほとんどまながいにみられた。)
殆んど目交いに見られた。
(そしてねたままではみられないばるこんややねのうえにつもったゆきからは、)
そして寝たままでは見られないバルコンや屋根の上に積った雪からは、
(きゅうにはるめいたひのひかりをあびながら、たえずすいじょうきがたっているらしかった。)
急に春めいた日の光を浴びながら、絶えず水蒸気がたっているらしかった。
(すこしねすごしたくらいのわたしは、いそいでとびおきて、)
すこし寝過したくらいの私は、いそいで飛び起きて、
(となりのびょうしつへはいっていった。)
隣りの病室へはいって行った。
(せつこは、すでにめをさましていて、もうふにくるまりながら、)
節子は、すでに目を醒ましていて、毛布にくるまりながら、
(ほてったようなかおをしていた。)
ほてったような顔をしていた。
(「おはよう」わたしもおなじように、かおがほてりだすのをかんじながら、)
「お早う」私も同じように、顔がほてり出すのを感じながら、
(きがるそうにいった。)
気軽そうに言った。
(「よくねられた?」「ええ」)
「よく寝られた?」「ええ」
(かのじょはわたしにうなずいてみせた。)
彼女は私にうなずいて見せた。
(「ゆうべすいみんざいをのんだの。なんだかあたまがすこしいたいわ」)
「ゆうべ睡眠剤を飲んだの。なんだか頭がすこし痛いわ」
(わたしはそんなことになんかかまっていられないといったふうに、)
私はそんなことになんか構っていられないと云った風に、
(げんきよくまども、それからばるこんにつうじるがらすとびらも、)
元気よく窓も、それからバルコンに通じる硝子扉も、
(すっかりあけはなした。)
すっかり開け放した。
(まぶしくって、いちじはなにもみられないくらいだったが、)
まぶしくって、一時は何も見られない位だったが、
(そのうちそれにめがだんだんなれてくると、)
そのうちそれに目がだんだん馴れてくると、
(ゆきにうもれたばるこんからも、やねからも、のはらからも、きからさえも、)
雪に埋れたバルコンからも、屋根からも、野原からも、木からさえも、
(かるいすいじょうきのたっているのがみえだした。)
軽い水蒸気の立っているのが見え出した。
(「それにとてもおかしなゆめをみたの。あのねーー」)
「それにとても可笑しな夢を見たの。あのねーー」
(かのじょがわたしのはいごでいいだしかけた。)
彼女が私の背後で言い出しかけた。