ああ玉杯に花うけて 第五部 3

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大正時代の少年向け小説!
長文です。佐藤紅緑の「ああ玉杯に花うけて」です。現在では不適切とされている表現を含みます。

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問題文

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(「だれだ」とちちはしのびごえにどなった。「ぼくですおとうさん」)

「だれだ」と父は忍び声にどなった。「ぼくですお父さん」

(「おまえか・・・・・・なにをする」「けしましょう」「あぶない、はやくにげろ」)

「おまえか……なにをする」「消しましょう」「あぶない、早く逃げろ」

(「けしましょう」といわおはなおもひをたたきながらいった。「あぶない、はやくはやく、)

「消しましょう」と巌はなおも火をたたきながらいった。「危ない、早く早く、

(にげろ」ぱちぱちとけたたましいおとがしてこくえんはいくつとなくならんだてーぶるの)

逃げろ」ぱちぱちとけたたましい音がして黒煙はいくつとなく並んだテーブルの

(したをくぐってふんすいのごとくむこうのあなからふきだした。まどというまどのがらすは)

下をくぐって噴水のごとく向こうの穴から噴きだした。窓という窓のガラスは

(ひるのごとくはんしゃした。「もうだめだ、はやくはやく、したをはえ、たってると)

昼のごとく反射した。「もうだめだ、早く早く、下を這え、立ってると

(むせるぞ、したをはって・・・・・・はってにげろ」「けしましょう」といわおはさんどいった。)

むせるぞ、下を這って……這って逃げろ」「消しましょう」と巌は三度いった。

(「なにをいうか、ぐずぐずしてるとしぬぞ」「しんでもかまいません、)

「なにをいうか、ぐずぐずしてると死ぬぞ」「死んでもかまいません、

(けしましょう、おとうさん」「ばかっ、こい」ちちはむずといわおのてをつかんだ、)

消しましょう、お父さん」「ばかッ、こい」 父はむずと巌の手をつかんだ、

(いわおはそのてをにぎりしめながらいった。「おとうさん、あなたはしょうこしょるいを)

巌はその手をにぎりしめながらいった。「お父さん、あなたは証拠書類を

(やくために、このやくばをやくんですか」「なにを?」ちちはてをはなして)

焼くために、この役場を焼くんですか」「なにを?」父は手を放して

(よろよろとしざった。「けしてください、おとうさん」いわおはほのおのなかへとびこんだ、)

よろよろとしざった。「消してください、お父さん」巌は炎の中へ飛びこんだ、

(かれはみぎにはしりひだりにはしり、あらゆるてーぶるをひにとおくころがし、それからかべや)

かれは右に走り左に走り、あらゆるテーブルを火に遠くころがし、それから壁や

(たなやはこのしたをかけずりまわってひのてをさえぎりさえぎりたたきのめし、)

たなや箱の下をかけずりまわって火の手をさえぎりさえぎりたたきのめし、

(ふみしだき、あしゅらおうがほのおのくるまにのってひのこをふらしけむりのくもをわかし)

ふみしだき、阿修羅王が炎の車にのって火の粉を降らし煙の雲をわかし

(ゆくがごとくあばれまわった。だがそれはむだであった。あぶらともくざいのもゆるあくしゅう)

ゆくがごとくあばれまわった。だがそれは無駄であった。油と木材の燃ゆる悪臭

(と、まっくろなけむりとはいわおのごたいをつつんだ。「けしてください」といわおはくるしそうに)

と、まっ黒な煙とは巌の五体を包んだ。「消してください」と巌は苦しそうに

(なおもさけびつづけた。「いわお!どこだ、いわお!」ちちはわがみをわすれてけむりのなかに)

なおも叫びつづけた。「巌! どこだ、巌!」父はわが身をわすれて煙の中に

(いわおをさがした。「けして・・・・・・けして・・・・・・おとうさん」ごぶごぶごぶとゆのたぎる)

巌をさがした。「消して……消して……お父さん」ごぶごぶごぶと湯のたぎる

(ようなおとが、そこここにきこえた。それはいすのわたや、けるいや、ふとんなどが)

ような音が、そこここに聞こえた。それはいすの綿や、毛類や、蒲団などが

など

(もゆるおとであった。そうしてそのあいだにがちんがちんというがらすのわれるおと)

燃ゆる音であった。そうしてそのあいだにガチンガチンというガラスの割れる音

(がきこえた。「いわお!いわお!」ちちはこえをかぎりにさけんだ。こたえがない。)

が聞こえた。「巌! 巌!」父は声をかぎりに叫んだ。答えがない。

(「いわお!いわお!」やっぱりこたえがない。ごうたはぎょうてんした、かれはふたたびかちゅうに)

「巌! 巌!」やっぱり答えがない。猛太は仰天した、かれはふたたび火中に

(とびこんだ、もうひのてはゆかいちめんにひろがった、みぎをみてもひだりをみても)

飛びこんだ、もう火の手は床一面にひろがった、右を見ても左を見ても

(ひのなみがおどっている。てんじょうにはかりゅうのしたがかがやきだした。「いわお!」)

火の波がおどっている。天井には火竜の舌が輝きだした。「巌!」

(ごうたのむねははりさけるばかりである、かれはもうきょうあくなさんびゃくだいげんでもなければ、)

猛太の胸ははりさけるばかりである、かれはもう凶悪な三百代言でもなければ、

(ふせいなせいとうやでもない、かれのあらゆるちはわがこをすくおうとするいっしんに)

不正な政党屋でもない、かれのあらゆる血はわが子を救おうとする一心に

(もえたった。かれはけむりにまかれてちっそくしているいわおのからだにあしをふれた、)

燃えたった。かれは煙に巻かれて窒息している巌の体に足をふれた、

(かれはきょうきのごとくそれをかたにかけた、そうしてきっとまどのほうをみやった。が)

かれは狂気のごとくそれを肩にかけた、そうしてきっと窓の方を見やった。が

(かれはらんらんたるほのおのかがみにいられてめがくらんだ、ごしきのこうげいがかっと)

かれは爛々たる炎の鏡に射られて目がくらんだ、五色の虹霓がかっと

(のうをさしたかとおもうとそのひかりのなかにかくぜんとひとりのおとこのかおがあらわれた。)

脳を刺したかと思うとその光の中に画然とひとりの男の顔があらわれた。

(「やあかくへい!」かれはこうさけんでたおれそうになった、とたんにかくへいのうでは)

「やあ覚平!」 かれはこう叫んで倒れそうになった、とたんに覚平の腕は

(はやくもかれのどうたいをかかえた。「おい、しっかりしろ」とかくへいはいった。)

早くもかれの胴体をかかえた。「おい、しっかりしろ」と覚平はいった。

(「きさまはおれをころしにきたのか」「たすけにきたんだ」かくへいはごうたといわおをさゆうに)

「きさまはおれを殺しにきたのか」「助けにきたんだ」覚平は猛太と巌を左右に

(かかえた、そうしてぜんりょくをこめてまどのそとへおどりでた。とうちょくのひとびとや)

かかえた、そうして全力をこめて窓の外へおどりでた。当直の人々や

(きんじょのひとびとによってひはけされたが、しつないのじゅうきはほとんどようをなさなかった。)

近所の人々によって火は消されたが、室内の什器はほとんど用をなさなかった。

(じゅうようなしょるいはことごとくしょうしつした。ひとびとはまどのそとにたおれているごうたふしをびょういんに)

重要な書類はことごとく消失した。人々は窓の外に倒れている猛太父子を病院に

(おくった。かくへいはひとびととともにしょうかにつとめた、さわぎのうちによるがほのぼのと)

送った。覚平は人々とともに消火につとめた、さわぎのうちに夜がほのぼのと

(あけた。まちはかなえのわくがごとくりゅうげんひごがおこった。ふせいこうじのもんだいが)

明けた。町は鼎のわくがごとく流言蜚語が起こった。不正工事の問題が

(おこりつつあり、だいぎごくがここにひらかれんとするやさきにやくばに)

起こりつつあり、大疑獄がここに開かれんとする矢先に役場に

(ほうかをしたものがあるということはなんぴとといえどもうたがわずにいられない。)

放火をしたものがあるということは何人といえども疑わずにいられない。

(こうはこういう。「これはどうしかいすなわちやくばはのものがしょうこをいんめつさせるために)

甲はこういう。「これは同志会すなわち役場派の者が証拠を堙滅させるために

(ほうかしたのである」おつはこういう。「やくばはんたいはすなわちりっけんとうのやつらが)

放火したのである」乙はこういう。「役場反対派すなわち立憲党のやつらが

(やくばをうたがわせるためにこいにほうかしたのだ」いろめがねをもってみるといずれも)

役場を疑わせるために故意に放火したのだ」色眼鏡をもってみるといずれも

(どうりのようにおもえる。だがたすうのひとはこういった。「ごうたふしがいちめいを)

道理のように思える。だが多数の人はこういった。「猛太父子が一命を

(なげだしてしょうかにつとめたところをもってみると、やくばはがほうかしたのではなかろう」)

投げだして消火に努めた処をもってみると、役場派が放火したのではなかろう」

(こういってひとびとはごうたがうらわまちのためにめざましいはたらきをしたことをくちを)

こういって人々は猛太が浦和町のためにめざましい働きをしたことを口を

(きわめてしょうさんした、それとどうじにいわおのこうろうにたいするしょうさんもはっぽうからおこった。)

きわめて称讃した、それと同時に巌の功労に対する称讃も八方から起こった。

(はんしはんしょうのままびょういんへはこばれたまではいしきしていたがそのあとのことはいわおは)

半死半生のまま病院へ運ばれたまでは意識していたがその後のことは巌は

(なんにもしらなかった。かれがびょういんのいっしつにめがさめたとき、ぜんしんもかおも)

なんにも知らなかった。かれが病院の一室に目がさめたとき、全身も顔も

(ほうたいされているのにきがついた。「めがさめて?」ははのこえがまくらもとにきこえた、)

繃帯されているのに気がついた。「目がさめて?」母の声が枕元に聞こえた、

(どうじにやさしいははのめがはっきりとみえた、ははのかおはあおざめていた。)

同時にやさしい母の目がはっきりと見えた、母の顔はあおざめていた。

(「おとうさんは?」といわおがきいた。「そこにやすんでいらっしゃいます」)

「お父さんは?」と巌がきいた。「そこにやすんでいらっしゃいます」

(いわおはむきなおろうとしたがいたくてたまらないのでやっとくびだけをむけた、)

巌は向きなおろうとしたが痛くてたまらないのでやっと首だけを向けた、

(ちょうどならんだとなりのしんだいにちちはほうたいしたかたてをむねにあててねむっている、)

ちょうど並んだ隣の寝台に父は繃帯した片手を胸にあてて眠っている、

(ひげもびんもやけちぢれてところどころくろずんでいるほおはほうたいのあいだから)

ひげもびんも焼けちぢれてところどころ黒ずんでいるほおは繃帯のあいだから

(もれてみえる。「おとうさんはどんなですか」「たいしたこともないのです、)

もれて見える。「お父さんはどんなですか」「大したこともないのです、

(てだけがすこしひどいようですよ」「それはよかった」いわおはこういって)

手だけが少しひどいようですよ」「それはよかった」巌はこういって

(ふたたびつくづくとちちのねがおをみやった。「これがぼくのおとうさんなのかなあ」)

ふたたびつくづくと父の寝顔を見やった。「これが僕のお父さんなのかなあ」

(ふとつぶやくようにこういった。「なにをいってるの?」とはははびしょうした。)

ふとつぶやくようにこういった。「なにをいってるの?」と母は微笑した。

(「いや、なんでもありません」いわおはだまった、かれのあたまにはふしぎな)

「いや、なんでもありません」巌はだまった、かれの頭にはふしぎな

(ぎわくがしょうじた。これがはたしてぼくのちちだろうか。わがみのつみをいんぺいするために)

疑惑が生じた。これがはたしてぼくの父だろうか。わが身の罪を隠蔽するために

(やくばをやこうとしたきょうあくなさくやのこうい!それがぼくのちちだろうか。)

役場を焼こうとした凶悪な昨夜の行為! それがぼくの父だろうか。

(かれはようしょうからわがちちをそんけいしすうはいしていた、がくしきがありたんりょくがあり、)

かれは幼少からわが父を尊敬し崇拝していた、学識があり胆力があり、

(とうきょうのちめいのしとしたしくまじわってうらわのまちにすばらしいせいりょくのあるちち、せいぎを)

東京の知名の士と親しく交わって浦和の町にすばらしい勢力のある父、正義を

(さけびじんどうをさけび、せいじのかくせいをさけんでいるちち!じっさいかれはわがちちを)

叫び人道を叫び、政治の覚醒を叫んでいる父!実際かれはわが父を

(ゆいつのきょうじとしていたが、いまやそれらのそんけいやしんこうやきょうじはそつぜんとして)

ゆいつの矜持としていたが、いまやそれらの尊敬や信仰や矜持は卒然として

(すべてむねのなかからきえうせた。「おとうさんはわるいひとだ」かれはおおごえをだして)

すべて胸の中から消え失せた。「お父さんは悪い人だ」かれは大声をだして

(なきたくなった。かれにはなにものもなくなった。「わるいひとだ!」)

なきたくなった。かれにはなにものもなくなった。「悪い人だ!」

(いままでちちにおしえられたこと、しかられたこと、それらはみんなうそのように)

いままで父に教えられたこと、しかられたこと、それらはみんなうそのように

(おもえた。やけてちぢれたひげがむにゃむにゃとうごいて、くちがぽっかりあいて)

思えた。焼けてちぢれたひげがむにゃむにゃと動いて、口がぽっかりあいて

(らんぐいのはがあらわれたかとおもうとごうたはめをぱっちりとひらいた。ちちとこの)

乱ぐいの歯があらわれたかと思うと猛太は目をぱっちりと開いた。父と子の

(しせんがあった。「おう、めがさめたのか、どうだ、いたむか」)

視線が合った。「おう、目がさめたのか、どうだ、痛むか」

(ちちはおきなおっていった。「なんでもありません」といわおはひややかにいった、)

父は起きなおっていった。「なんでもありません」と巌は冷ややかにいった、

(ちちはしんだいをおりようとしてくびにつったほうたいをきにしながらいわおのしんだいへよりそうた)

父は寝台を降りようとして首につった繃帯を気にしながら巌の寝台へ寄りそうた

(そうしてしんぱいそうなめをいわおのかおにちかづけた。「げんきをだせよ、いいか、)

そうして心配そうな目を巌の顔に近づけた。「元気をだせよ、いいか、

(どこもいたみはしないか、くるしかったらくるしいといえよ」いわおはだまってかおを)

どこも痛みはしないか、苦しかったら苦しいといえよ」巌はだまって顔を

(そむけた、くるしさはくびをのこぎりでひかれるよりくるしい、しかしそれは)

そむけた、苦しさは首をのこぎりでひかれるより苦しい、しかしそれは

(やけどのいたみではない、ちちをさげすむこころのふかでである。このよのなかに)

火傷の痛みではない、父をさげすむ心の深傷である。この世の中に

(かみでありほとけでありせいぎのえいゆうであるとしんじていたものが)

神であり仏であり正義の英雄であると信じていたものが

(いちやのうちにあくまはじゅんとなったぜつぼうのくるしみである。)

一夜のうちに悪魔波旬となった絶望の苦しみである。

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