風立ちぬ 堀辰雄 ⑪
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問題文
(そのまますぐそのせきはとまったようだったが、)
そのまますぐその咳は止まったようだったが、
(わたしはどうもきになってならなかったので、そっとりんしつにはいっていった。)
私はどうも気になってならなかったので、そっと隣室にはいって行った。
(まっくらななかに、びょうにんはひとりでおびえてでもいたように、)
真っ暗な中に、病人は一人で怯えてでもいたように、
(おおきくめをみひらきながら、わたしのほうをみていた。)
大きく目を見ひらきながら、私の方を見ていた。
(わたしはなにもいわずに、そのそばにちかづいた。)
私は何も言わずに、その側に近づいた。
(「まだだいじょうぶよ」かのじょはつとめてほほえみをしながら、)
「まだ大丈夫よ」 彼女はつとめて微笑をしながら、
(わたしにきこえるかきこえないくらいのこごえでいった。)
私に聞えるか聞えない位のこごえで言った。
(わたしはだまったまま、べっどのへりにこしをかけた。)
私は黙ったまま、ベッドの縁に腰をかけた。
(「そこにいてちょうだい」びょうにんはいつもににず、きよわそうに、わたしにそういった。)
「そこにいて頂戴」 病人はいつもに似ず、気弱そうに、私にそう言った。
(わたしたちはそうしたまままんじりともしないでそのよるをあかした。)
私達はそうしたまままんじりともしないでその夜を明かした。
(そんなことがあってから、にさんにちすると、きゅうになつがおとろえだした。)
そんなことがあってから、二三日すると、急に夏が衰え出した。
(くがつになると、すこしあれもようのあめがなんどとなくふったりやんだりしていたが、)
九月になると、すこし荒れ模様の雨が何度となく降ったり止んだりしていたが、
(そのうちにそれはほとんどこやみなしにふりつづきだした。)
そのうちにそれは殆んど小止みなしに降り続き出した。
(それはきのはをきばませるよりさきに、それをくさらせるかとみえた。)
それは木の葉を黄ばませるより先きに、それを腐らせるかと見えた。
(さしものさなとりうむのへやべやも、まいにちまどをしめきってうすぐらいほどだった。)
さしものサナトリウムの部屋部屋も、毎日窓を閉め切って薄暗いほどだった。
(かぜがときどきとをばたつかせた。)
風がときどき戸をばたつかせた。
(そしてうらのぞうきばやしから、たんちょうな、おもくるしいおとをひきもぎった。)
そして裏の雑木林から、単調な、重くるしい音を引きもぎった。
(かぜのないひは、わたしたちはしゅうじつ、)
風のない日は、私達は終日、
(あめがやねづたいにばるこんのうえにおちるのをきいていた。)
雨が屋根づたいにバルコンの上に落ちるのを聞いていた。
(そんなあめがようやくやっときりににだしたあるそうちょう、)
そんな雨が漸やっと霧に似だした或る早朝、
(わたしはまどから、ばるこんのめんしているほそながいなかにわが)
私は窓から、バルコンの面している細長い中庭が
(いくぶんうすあかるくなってきたようなのをぼんやりとみおろしていた。)
いくぶん薄明くなって来たようなのをぼんやりと見おろしていた。
(そのとき、なかにわのむこうのほうから、ひとりのかんごふが、そんなきりのようなあめのなかを)
その時、中庭の向うの方から、一人の看護婦が、そんな霧のような雨の中を
(そこここにさきみだれているのぎくやこすもすをてあたりしだいにとりながら、)
そこここに咲き乱れている野菊やコスモスを手あたり次第に採りながら、
(こっちへむかってちかづいてくるのがみえた。)
こっちへ向って近づいて来るのが見えた。
(わたしはそれがあのだいじゅうななごうしつのつきそいかんごふであることをみとめた。)
私はそれがあの第十七号室の附添看護婦であることを認めた。
(「ああ、あのいつもふかいなせきばかりきいていたかんじゃが)
「ああ、あのいつも不快な咳ばかり聞いていた患者が
(しんだのかもしれないなあ」)
死んだのかも知れないなあ」
(ふとそんなことをおもいながら、あめにぬれたまま)
ふとそんなことを思いながら、雨に濡れたまま
(なんだかこうふんしたようになってまだはなをとっている)
何んだか興奮したようになってまだ花を採っている
(そのかんごふのすがたをみつめているうちに、)
その看護婦の姿を見つめているうちに、
(わたしはきゅうにしんぞうがしめつけられるようなきがしだした。)
私は急に心臓がしめつけられるような気がしだした。
(「やっぱりここでいちばんおもかったのはあいつだったのかな?)
「やっぱり此処で一番重かったのはあいつだったのかな?
(が、あいつがとうとうしんでしまったとすると、こんどは?)
が、あいつがとうとう死んでしまったとすると、こんどは?
(ーーああ、あんなことをいんちょうがいってくれなければよかったんだにーー」)
ーーああ、あんなことを院長が言ってくれなければよかったんだにーー」
(わたしはそのかんごふがおおきなはなたばをかかえたまま)
私はその看護婦が大きな花束を抱えたまま
(ばるこんのかげにかくれてしまってからも、)
バルコンの蔭に隠れてしまってからも、
(うつけたようにまどがらすにかおをくっつけていた。)
うつけたように窓硝子に顔をくっつけていた。
(「なにをそんなにみていらっしゃるの?」べっどからびょうにんがわたしにとうた。)
「何をそんなに見ていらっしゃるの?」ベッドから病人が私に問うた。
(「こんなあめのなかで、さっきからはなをとっているかんごふがいるんだけれど、)
「こんな雨の中で、さっきから花を採っている看護婦が居るんだけれど、
(あれはだれだろうかしら?」)
あれは誰だろうかしら?」
(わたしはそうひとりごとのようにつぶやきながら、やっとそのまどからはなれた。)
私はそう独り言のようにつぶやきながら、やっとその窓から離れた。
(しかし、そのひはとうとういちにちじゅう、)
しかし、その日はとうとう一日中、
(わたしはなんだかびょうにんのかおをまともにみられずにいた。)
私はなんだか病人の顔をまともに見られずに居た。
(なにもかもみぬいていながら、わざとしらぬようなようすをして、)
何もかも見抜いていながら、わざと知らぬような様子をして、
(ときどきわたしのほうをじっとびょうにんがみているようなきさえされて、)
ときどき私の方をじっと病人が見ているような気さえされて、
(それがわたしをいっそうくるしめた。)
それが私を一層苦しめた。
(こんなふうにおたがいにわかたれないふあんやきょうふをだきはじめ、)
こんな風にお互に分たれない不安や恐怖を抱きはじめ、
(ふたりがふたりですこしずつべつべつにものをかんがえだすなんということは、)
二人が二人で少しずつ別々にものを考え出すなんと云うことは、
(いけないことだとおもいかえしては、)
いけないことだと思い返しては、
(わたしははやくこんなできごとはわすれてしまおうとつとめながら、)
私は早くこんな出来事は忘れてしまおうと努めながら、
(またいつのまにやらそのことばかりをあたまにうかべていた。)
又いつのまにやらその事ばかりを頭に浮べていた。
(そしてしまいには、わたしたちがこのさなとりうむにはじめてついたゆきのふるばんに)
そしてしまいには、私達がこのサナトリウムに初めて着いた雪のふる晩に
(びょうにんがみたというゆめ、はじめはそれをきくまいとしながらついにうちまけて)
病人が見たという夢、はじめはそれを聞くまいとしながら遂に打ち負けて
(びょうにんからそれをききだしてしまったあのふきつなゆめのことまで、)
病人からそれを聞き出してしまったあの不吉な夢のことまで、
(いままでずっとわすれていたのに、ひょっくりおもいうかべたりしていた。)
いままでずっと忘れていたのに、ひょっくり思い浮べたりしていた。
(ーーそのふしぎなゆめのなかで、びょうにんはしがいになってひつぎのなかにふせていた。)
ーーその不思議な夢の中で、病人は死骸になって棺の中に臥ていた。
(ひとびとはそのひつぎをにないながら、どこだかしらないのはらをよこぎったり、)
人々はその棺を担いながら、何処だか知らない野原を横切ったり、
(もりのなかへはいったりした。もうしんでいるかのじょはしかし、)
森の中へはいったりした。もう死んでいる彼女はしかし、
(ひつぎのなかから、すっかりふゆがれたのづらや、くろいもみのきなどをありありとみたり、)
棺の中から、すっかり冬枯れた野面や、黒い樅の木などをありありと見たり、
(そのうえをさびしくふいてすぎるかぜのおとをみみにきいたりしていた、)
その上をさびしく吹いて過ぎる風の音を耳に聞いたりしていた、
(ーーそのゆめからさめてからも、かのじょはじぶんのみみがとてもつめたくて、)
ーーその夢から醒めてからも、彼女は自分の耳がとても冷たくて、
(もみのざわめきがまだそれをみたしているのをまざまざとかんじていた。ーー)
樅のざわめきがまだそれを充たしているのをまざまざと感じていた。ーー
(そんなきりのようなあめがなおすうじつふりつづいているうちに、)
そんな霧のような雨がなお数日降り続いているうちに、
(すでにもうほかのきせつになっていた。)
すでにもう他の季節になっていた。
(さなとりうむのなかも、きがついてみると、)
サナトリウムの中も、気がついて見ると、
(あれだけたすうになっていたかんじゃたちもひとりさりふたりさりして、)
あれだけ多数になっていた患者達も一人去り二人去りして、
(そのあとにはこのふゆをこちらでこさなければならないような)
そのあとにはこの冬をこちらで越さなければならないような
(おもいかんじゃたちばかりがとりのこされ、また、なつのまえのようなさびしさにかわりだしていた。)
重い患者達ばかりが取り残され、又、夏の前のような寂しさに変り出していた。
(だいじゅうななごうしつのかんじゃのしがそれをきゅうにめだたせた。)
第十七号室の患者の死がそれを急に目立たせた。
(くがつのすえのあるあさ、わたしがろうかのきたがわのまどからなにげなしに)
九月の末の或る朝、私が廊下の北側の窓から何気なしに
(うらのぞうきばやしのほうへめをやってみると、そのきりぶかいはやしのなかに)
裏の雑木林の方へ目をやって見ると、その霧ぶかい林の中に
(いつになくひとがでたりはいったりしているのがいようにかんじられた。)
いつになく人が出たり入ったりしているのが異様に感じられた。
(かんごふたちにきいてみてもなにもしらないようなようすをしていた。)
看護婦達に訊いて見ても何も知らないような様子をしていた。
(それっきりわたしもついわすれていたが、よくじつもまた、そうちょうからにさんにんのにんぷがきて、)
それっきり私もつい忘れていたが、翌日もまた、早朝から二三人の人夫が来て、
(そのおかのへりにあるくりのきらしいものをきりたおしはじめているのが)
その丘の縁にある栗の木らしいものを伐り倒しはじめているのが
(きりのなかにみえたりかくれたりしていた。)
霧の中に見えたり隠れたりしていた。