風立ちぬ 堀辰雄 ⑭

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投稿者投稿者ヒマヒマ マヒマヒいいね3お気に入り登録
プレイ回数1053難易度(4.5) 4979打 長文
ジブリの「風立ちぬ」制作時に参考とされた小説です。

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問題文

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(ぜったいあんせいのひびがつづいた。)

絶対安静の日々が続いた。

(びょうしつのまどはすっかりきいろいひおおいをおろされ、なかはうすぐらくされていた。)

病室の窓はすっかり黄色い日覆を卸され、中は薄暗くされていた。

(かんごふたちもあしをつまだててあるいた。わたしはほとんどびょうにんのまくらもとにつきっきりでいた。)

看護婦達も足を爪立てて歩いた。私は殆んど病人の枕元に附きっきりでいた。

(よとぎもひとりでひきうけていた。)

夜伽も一人で引き受けていた。

(ときどきびょうにんはわたしのほうをみてなにかいいだしそうにした。)

ときどき病人は私の方を見て何か言い出しそうにした。

(わたしはそれをいわせないように、すぐゆびをわたしのくちにあてた。)

私はそれを言わせないように、すぐ指を私の口にあてた。

(そのようなちんもくが、わたしたちをそれぞれかくじのかんがえのうちにひっこませていた。)

そのような沈黙が、私達をそれぞれ各自の考えの裡に引っ込ませていた。

(が、わたしたちはただあいてがなにをかんがえているのかを、)

が、私達はただ相手が何を考えているのかを、

(いたいほどはっきりとかんじあっていた。そしてわたしが、こんどのできごとをあたかも)

痛いほどはっきりと感じ合っていた。そして私が、今度の出来事をあたかも

(じぶんのためにびょうにんがぎせいにしていてくれたものが、)

自分のために病人が犠牲にしていて呉れたものが、

(ただめにみえるものにかわっただけかのようにおもいつめているあいだ、)

ただ目に見えるものに変っただけかのように思いつめている間、

(びょうにんはまたびょうにんで、これまでふたりしてあんなにもさいしんにさいしんにと)

病人はまた病人で、これまで二人してあんなにも細心に細心にと

(そだてあげてきたものをじぶんのかるはずみから)

育て上げてきたものを自分の軽はずみから

(いっしゅんにうちこわしてしまいでもしたようにくいているらしいのが、)

一瞬に打ち壊してしまいでもしたように悔いているらしいのが、

(はっきりとわたしにかんじられた。)

はっきりと私に感じられた。

(そしてそういうじぶんのぎせいをぎせいともしないで、じぶんのかるはずみなことばかりを)

そしてそういう自分の犠牲を犠牲ともしないで、自分の軽はずみなことばかりを

(せめているようにみえるびょうにんのいじらしいきもちが、わたしのこころをしめつけていた。)

責めているように見える病人のいじらしい気持が、私の心をしめつけていた。

(そういうぎせいをまでびょうにんにとうぜんのだいしょうのようにはらわせながら、)

そういう犠牲をまで病人に当然の代償のように払わせながら、

(それがいつしのとこになるかもしれぬようなべっどで、)

それがいつ死の床になるかも知れぬようなベッドで、

(こうしてびょうにんとともにたのしむようにしてあじわっているせいのかいらくーー)

こうして病人と共に愉しむようにして味わっている生の快楽ーー

など

(それこそわたしたちを、このうえなくこうふくにさせてくれるものだと)

それこそ私達を、この上なく幸福にさせてくれるものだと

(わたしたちがしんじているもの、ーーそれははたして)

私達が信じているもの、ーーそれは果して

(わたしたちをほんとうにまんぞくさせおおせるものだろうか?)

私達を本当に満足させおおせるものだろうか?

(わたしたちがいまわたしたちのこうふくだとおもっているものは、わたしたちがそれをしんじているよりは、)

私達がいま私達の幸福だと思っているものは、私達がそれを信じているよりは、

(もっとつかのまのもの、もっときまぐれにちかいようなものではないだろうか?)

もっと束の間のもの、もっと気まぐれに近いようなものではないだろうか?

(ーーよとぎにつかれたわたしは、びょうにんのまどろんでいるかたわらで、)

ーー夜伽に疲れた私は、病人のまどろんでいる傍で、

(そんなかんがえをとつおいつしながら、)

そんな考えをとつおいつしながら、

(このごろともすればわたしたちのこうふくがなにものかにおどかされがちなのを、)

この頃ともすれば私達の幸福が何物かに脅かされがちなのを、

(ふあんそうにかんじていた。)

不安そうに感じていた。

(そのききは、しかし、いっしゅうかんばかりでたちのいた。)

その危機は、しかし、一週間ばかりで立ち退いた。

(あるあさ、かんごふがやっとびょうしつからひおおいをとりよけて、)

或る朝、看護婦がやっと病室から日覆を取り除けて、

(まどのいちぶをあけはなしていった。)

窓の一部を開け放して行った。

(まどからさしこんでくるあきらしいにっこうをまぶしそうにしながら、)

窓から射し込んで来る秋らしい日光をまぶしそうにしながら、

(「きもちがいいわ」とびょうにんはべっどのなかからよみがえったようにいった。)

「気持がいいわ」と病人はベッドの中から蘇ったように言った。

(かのじょのまくらもとでしんぶんをひろげていたわたしは、)

彼女の枕元で新聞を拡げていた私は、

(にんげんにおおきなしょうどうをあたえるできごとなんぞというものは)

人間に大きな衝動を与える出来事なんぞと云うものは

(かえってそれがすぎさったあとはなんだかまるでよそのことのように)

却ってそれが過ぎ去った跡は何んだかまるでよその事のように

(みえるものだなあとおもいながら、そういうかのじょのほうをちらりとみやって、)

見えるものだなあと思いながら、そういう彼女の方をちらりと見やって、

(おもわずやゆするようなちょうしでいった。)

思わず揶揄するような調子で言った。

(「もうおとうさんがきたって、あんなにこうふんしないほうがいいよ」)

「もうお父さんが来たって、あんなに興奮しない方がいいよ」

(かのじょはかおをこころもちあからめながら、そんなわたしのやゆをすなおにうけいれた。)

彼女は顔を心持ちあからめながら、そんな私の揶揄を素直に受け入れた。

(「こんどはおとうさまがいらしたってしらんかおをしていてやるわ」)

「こんどはお父様がいらっしたって知らん顔をして居てやるわ」

(「それがおまえにできるんならねえーー」)

「それがお前に出来るんならねえーー」

(そんなふうにじょうだんでもいいあうように、わたしたちはおたがいにあいてのきもちを)

そんな風に冗談でも言い合うように、私達はお互に相手の気持を

(いたわりあうようにしながら、いっしょになってこどもらしく、)

いたわり合うようにしながら、一緒になって子供らしく、

(すべてのせきにんをかのじょのちちにおしつけあったりした。)

すべての責任を彼女の父に押しつけ合ったりした。

(そうしてわたしたちはすこしもわざとらしくなく、)

そうして私達は少しもわざとらしくなく、

(このいっしゅうかんのできごとがほんのなにかのまちがいにすぎなかったような、)

この一週間の出来事がほんの何かの間違いに過ぎなかったような、

(きがるなきぶんになりながら、いましがたまでわたしたちをにくたいてきばかりでなく、)

気軽な気分になりながら、いましがたまで私達を肉体的ばかりでなく、

(せいしんてきにもおそいかかっているようにみえたききを、)

精神的にも襲いかかっているように見えた危機を、

(こともなげにきりぬけだしていた。すくなくともわたしたちにはそうみえた。)

事もなげに切り抜け出していた。少くとも私達にはそう見えた。

(あるばん、わたしはかのじょのそばでほんをよんでいるうち、とつぜん、それをとじて、)

或る晩、私は彼女の側で本を読んでいるうち、突然、それを閉じて、

(まどのところにいき、しばらくかんがえぶかそうにたたずんでいた。)

窓のところに行き、しばらく考え深そうに佇んでいた。

(それからまた、かのじょのそばにかえった。)

それから又、彼女の傍に帰った。

(わたしはふたたびほんをとりあげて、それをよみだした。)

私は再び本を取り上げて、それを読み出した。

(「どうしたの?」かのじょはかおをあげながらわたしにとうた。)

「どうしたの?」彼女は顔を上げながら私に問うた。

(「なんでもない」わたしはむぞうさにそうこたえて、)

「何んでもない」私は無造作にそう答えて、

(すうびょうじほんのほうにきをとられているようなようすをしていたが、)

数秒時本の方に気をとられているような様子をしていたが、

(とうとうわたしはくちをきった。)

とうとう私は口を切った。

(「こっちへきてあんまりなにもせずにしまったから、)

「こっちへ来てあんまり何もせずにしまったから、

(ぼくはこれからしごとでもしようかとかんがえだしているのさ」)

僕はこれから仕事でもしようかと考え出しているのさ」

(「そうよ、おしごとをなさらなければいけないわ。)

「そうよ、お仕事をなさらなければいけないわ。

(おとうさまもそれをしんぱいなさっていたわ」)

お父様もそれを心配なさっていたわ」

(かのじょはまじめなかおつきをしてへんじをした。)

彼女は真面目な顔つきをして返事をした。

(「わたしなんかのことばかりかんがえていないでーー」)

「私なんかのことばかり考えていないでーー」

(「いや、おまえのことをもっともっとかんがえたいんだーー」)

「いや、お前のことをもっともっと考えたいんだーー」

(わたしはそのときとっさにあたまにうかんできたあるしょうせつのばくとしたいでえを)

私はそのとき咄嗟に頭に浮んで来た或る小説の漠としたイデエを

(すぐそのばでおいまわしだしながら、ひとりごとのようにいいつづけた。)

すぐその場で追い廻し出しながら、独り言のように言い続けた。

(「おれはおまえのことをしょうせつにかこうとおもうのだよ。)

「おれはお前のことを小説に書こうと思うのだよ。

(それよりほかのことはいまのおれにはかんがえられそうもないのだ。)

それより他のことは今のおれには考えられそうもないのだ。

(おれたちがこうしておたがいにあたえあっているこのこうふく、)

おれ達がこうしてお互に与え合っているこの幸福、

(ーーみながもういきどまりだとおもっているところからはじまっているような)

ーー皆がもう行き止まりだと思っているところから始っているような

(このせいのたのしさ、ーーそういっただれもしらないような、)

この生の愉しさ、ーーそう云った誰も知らないような、

(おれたちだけのものを、おれはもっとかくじつなものに、)

おれ達だけのものを、おれはもっと確実なものに、

(もうすこしかたちをなしたものにおきかえたいのだ。わかるだろう?」)

もうすこし形をなしたものに置き換えたいのだ。分るだろう?」

(「わかるわ」かのじょはじぶんじしんのかんがえでもおおうかのように)

「分るわ」彼女は自分自身の考えでも逐おうかのように

(わたしのかんがえをおおっていたらしく、それにすぐおうじた。)

私の考えを逐っていたらしく、それにすぐ応じた。

(が、それからくちをすこしゆがめるようにわらいながら、)

が、それから口をすこし歪めるように笑いながら、

(「わたしのことならどうでもおすきなようにおかきなさいな」)

「私のことならどうでもお好きなようにお書きなさいな」

(とわたしをかるくあしらうようにいいたした。)

と私を軽くあしらうように言い足した。

(わたしはしかし、そのことばをそっちょくにうけとった。)

私はしかし、その言葉を率直に受取った。

(「ああ、それはおれのすきなようにかくともさ。)

「ああ、それはおれの好きなように書くともさ。

(ーーが、こんどのやつはおまえにもたんとじょりょくしてもらわなければならないのだよ」)

ーーが、今度の奴はお前にもたんと助力して貰わなければならないのだよ」

(「わたしにもできることなの?」「ああ、おまえにはね、おれのしごとのあいだ、)

「私にも出来ることなの?」「ああ、お前にはね、おれの仕事の間、

(あたまからあしのさきまでしあわせになっていてもらいたいんだ。そうでないとーー」)

頭から足のさきまで幸福になっていて貰いたいんだ。そうでないとーー」

(ひとりでぼんやりとかんがえごとをしているのよりも、)

一人でぼんやりと考え事をしているのよりも、

(こうやってふたりでいっしょにかんがえあっているみたいなほうが、)

こうやって二人で一緒に考え合っているみたいな方が、

(よけいじぶんのあたまがかっぱつにはたらくのをいようにかんじながら、)

余計自分の頭が活溌に働くのを異様に感じながら、

(わたしはあとからあとからとわいてくるしそうにおされでもするかのように、)

私はあとからあとからと湧いてくる思想に押されでもするかのように、

(びょうしつのなかをいつかいったりきたりしだしていた。)

病室の中をいつか往ったり来たりし出していた。

(「あんまりびょうにんのそばにばかりいるから、げんきがなくなるのよ。)

「あんまり病人の側にばかりいるから、元気がなくなるのよ。

(ーーすこしはさんぽでもしていらっしゃらない?」)

ーーすこしは散歩でもしていらっしゃらない?」

(「うん、おれもしごとをするとなりあ」とわたしはめをかがやかせながら、)

「うん、おれも仕事をするとなりあ」と私は目をかがやかせながら、

(げんきよくこたえた。「うんとさんぽもするよ」)

元気よく答えた。「うんと散歩もするよ」

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