風立ちぬ 堀辰雄 ⑮

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投稿者投稿者ヒマヒマ マヒマヒいいね3お気に入り登録
プレイ回数1075難易度(4.5) 3618打 長文
ジブリの「風立ちぬ」制作時に参考とされた小説です。

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問題文

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(わたしはそのもりをでた。おおきなさわをへだてながら、むこうのもりをこして、)

私はその森を出た。大きな沢を隔てながら、向うの森を越して、

(やつがたけのさんろくいったいがわたしのめのまえにはてしなくてんかいしていたが、)

八ヶ岳の山麓一帯が私の目の前に果てしなく展開していたが、

(そのずっとぜんぽう、ほとんどそのもりとすれすれぐらいのところに、)

そのずっと前方、殆んどその森とすれすれぐらいのところに、

(ひとつのせまいむらとそのかたむいたこうさくちとがよこたわり、)

一つの狭い村とその傾いた耕作地とが横たわり、

(そして、そのいちぶにいくつものあかいやねを)

そして、その一部にいくつもの赤い屋根を

(つばさのようにひろげたさなとりうむのたてものが、)

翼のように拡げたサナトリウムの建物が、

(ごくちいさなすがたになりながらしかしめいりょうにみとめられた。)

ごく小さな姿になりながらしかし明瞭に認められた。

(わたしはそうちょうから、どこをどうあるいているのかもしらずに、あしのむくまま、)

私は早朝から、何処をどう歩いて居るのかも知らずに、足の向くまま、

(じぶんのかんがえにすっかりみをまかせきったようになって、)

自分の考えにすっかり身を任せ切ったようになって、

(もりからもりへとさまよいつづけていたのだったが、)

森から森へとさ迷いつづけていたのだったが、

(いま、そんなふうにわたしのまのあたりに、)

いま、そんな風に私の目のあたりに、

(あきのすんだくうきがおもいがけずにちかよせているさなとりうむのちいさなすがたを、)

秋の澄んだ空気が思いがけずに近よせているサナトリウムの小さな姿を、

(ふいにしやにいれたせつな、わたしはきゅうになにかじぶんについていたものから)

不意に視野に入れた刹那、私は急に何か自分に憑いていたものから

(さめたようなきもちで、そのたてもののなかでたすうのびょうにんたちにとりかこまれながら、)

醒めたような気持で、その建物の中で多数の病人達に取り囲まれながら、

(まいにちまいにちをなにげなさそうにすごしているわたしたちのせいかつのいようさを、)

毎日毎日を何気なさそうに過している私達の生活の異様さを、

(はじめてそれからひきはなしてかんがえだした。)

はじめてそれから引き離して考え出した。

(そうしてさっきからじぶんのうちにわきたっているせいさくよくに)

そうしてさっきから自分の裡に湧き立っている制作慾に

(それからそれへとうながされながら、わたしはそんなわたしたちのきみょうなひごとひごとを)

それからそれへと促されながら、私はそんな私達の奇妙な日ごと日ごとを

(ひとつのいじょうにぱせてぃっくな、しかもものしずかなものがたりにおきかえだした。)

一つの異常にパセティックな、しかも物静かな物語に置き換え出した。

(「せつこよ、これまでふたりのものがこんなふうに)

「節子よ、これまで二人のものがこんな風に

など

(あいしあったことがあろうとはおもえない。)

愛し合ったことがあろうとは思えない。

(いままでおまえというものはいなかったのだもの。)

いままでお前というものは居なかったのだもの。

(それからわたしというものもーー」)

それから私というものもーー」

(わたしのむそうは、わたしたちのうえにおこったさまざまなじぶつのうえを、)

私の夢想は、私達の上に起ったさまざまな事物の上を、

(あるときはじんそくにすぎ、あるときはじっとひとところにていたいし、)

或る時は迅速に過ぎ、或る時はじっと一ところに停滞し、

(いつまでもいつまでもためらっているようにみえた。)

いつまでもいつまでも躊躇っているように見えた。

(わたしはせつこからとおくにはなれてはいたが、)

私は節子から遠くに離れてはいたが、

(そのあいだたえずかのじょにはなしかけ、そしてかのじょのこたえるのをきいた。)

その間絶えず彼女に話しかけ、そして彼女の答えるのを聞いた。

(そういうわたしたちについてのものがたりは、せいそのもののように、)

そういう私達についての物語は、生そのもののように、

(はてしがないようにおもわれた。)

果てしがないように思われた。

(そうしてそのものがたりはいつのまにかそれじしんのちからでもっていきはじめ、)

そうしてその物語はいつのまにかそれ自身の力でもって生きはじめ、

(わたしにかまわずかってにてんかいしだしながら、)

私に構わず勝手に展開し出しながら、

(ともすればひとところにていたいしがちなわたしをそこにとりのこしたまま、)

ともすれば一ところに停滞しがちな私を其処に取り残したまま、

(そのものがたりじしんがあたかもそういうけっかをほっしでもするかのように、)

その物語自身があたかもそういう結果を欲しでもするかのように、

(やめるおんなしゅじんこうのものがなしいしをさくいしだしていた。)

病める女主人公の物悲しい死を作為しだしていた。

(みのおわりをよかくしながら、そのおとろえかかっているちからをつくして、)

身の終りを予覚しながら、その衰えかかっている力を尽して、

(つとめてかいかつに、つとめてけだかくいきようとしていたむすめ、)

つとめて快活に、つとめて気高く生きようとしていた娘、

(ーーこいびとのうでにだかれながら、ただそののこされるもののかなしみをかなしみながら、)

ーー恋人の腕に抱かれながら、ただその残される者の悲しみを悲しみながら、

(じぶんはさもしあわせそうにしんでいったむすめ、)

自分はさも幸福そうに死んで行った娘、

(ーーそんなむすめのえいぞうがくうにかいたようにはっきりとうかんでくる。)

ーーそんな娘の影像が空に描いたようにはっきりと浮んでくる。

(「おとこはじぶんたちのあいをいっそうじゅんすいなものにしようとこころみて、)

「男は自分達の愛を一層純粋なものにしようと試みて、

(びょうしんのむすめをさそうようにしてやまのさなとりうむにはいっていくが、)

病身の娘を誘うようにして山のサナトリウムにはいって行くが、

(しがかれらをおびやかすようになると、おとこはこうしてかれらがえようとしているしあわせは、)

死が彼等を脅かすようになると、男はこうして彼等が得ようとしている幸福は、

(はたしてそれがかんぜんにえられたにしてもかれらじしんをまんぞくさせえるものかどうかを、)

果してそれが完全に得られたにしても彼等自身を満足させ得るものかどうかを、

(しだいにうたがうようになる。)

次第に疑うようになる。

(ーーが、むすめはそのしくのうちにさいごまでじぶんを)

ーーが、娘はその死苦のうちに最後まで自分を

(せいじつにかいほうしてくれたことをおとこにかんしゃしながら、さもまんぞくそうにしんでいく。)

誠実に介抱して呉れたことを男に感謝しながら、さも満足そうに死んで行く。

(そしておとこはそういうけだかいししゃにたすけられながら、)

そして男はそういう気高い死者に助けられながら、

(やっとじぶんたちのささやかなしあわせをしんずることができるようになるーー」)

やっと自分達のささやかな幸福を信ずることが出来るようになるーー」

(そんなものがたりのけつまつがまるでそこにわたしをまちぶせてでもいたかのようにみえた。)

そんな物語の結末がまるで其処に私を待ち伏せてでも居たかのように見えた。

(そしてとつぜん、そんなしにひんしたむすめのえいぞうがおもいがけないはげしさでわたしをうった。)

そして突然、そんな死に瀕した娘の影像が思いがけない烈しさで私を打った。

(わたしはあたかもゆめからさめたかのようになんともかともいいようのない)

私はあたかも夢から覚めたかのように何んともかとも言いようのない

(きょうふとしゅうちとにおそわれた。)

恐怖と羞恥とに襲われた。

(そしてそういうむそうをじぶんからふりはらおうとでもするように、)

そしてそういう夢想を自分から振り払おうとでもするように、

(わたしはこしかけていたぶなのはだかねからあらあらしくたちあがった。)

私は腰かけていたぶなの裸根から荒々しく立ち上った。

(たいようはすでにたかくのぼっていた。)

太陽はすでに高く昇っていた。

(やまやもりやむらやはたけ、そうしたすべてのものは)

山や森や村や畑、そうしたすべてのものは

(あきのおだやかなひのなかにいかにもあんていしたようにうかんでいた。)

秋の穏かな日の中にいかにも安定したように浮んでいた。

(かなたにちいさくみえるさなとりうむのたてもののなかでも、)

かなたに小さく見えるサナトリウムの建物の中でも、

(すべてのものはまいにちのしゅうかんをふたたびとりだしているのにちがいなかった。)

すべてのものは毎日の習慣を再び取り出しているのに違いなかった。

(そのうちふいに、それらのみしらぬひとびとのあいだで、)

そのうち不意に、それらの見知らぬ人々の間で、

(いつものしゅうかんからとりのこされたまま、)

いつもの習慣から取残されたまま、

(ひとりでしょんぼりとわたしをまっているせつこのさびしそうなすがたをあたまにうかべると、)

一人でしょんぼりと私を待っている節子の寂しそうな姿を頭に浮べると、

(わたしはきゅうにそれがきになってたまらないように、)

私は急にそれが気になってたまらないように、

(いそいでやまみちをくだりはじめた。)

急いで山径を下りはじめた。

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