風立ちぬ 堀辰雄 ⑰

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投稿者投稿者ヒマヒマ マヒマヒいいね3お気に入り登録
プレイ回数1032難易度(4.4) 4557打 長文
ジブリの「風立ちぬ」制作にあたり参考とされた小説です。

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問題文

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((ふゆ)せんきゅうひゃくさんじゅうごねんじゅうがつはつか)

(冬)   一九三五年十月二十日

(ごご、いつものようにびょうにんをのこして、わたしはさなとりうむをはなれると、)

午後、いつものように病人を残して、私はサナトリウムを離れると、

(しゅうかくにいそがしいのうふらのたちはたらいているでんぱたのあいだをぬけながら、ぞうきばやしをこえて、)

収穫に忙しい農夫等の立ち働いている田畑の間を抜けながら、雑木林を越えて、

(そのやまのくぼみにあるひとけのたえたせまいむらにおりたあと、)

その山の窪みにある人けの絶えた狭い村に下りた後、

(ちいさなけいりゅうにかかったつりばしをわたって、)

小さな谿流にかかった吊橋を渡って、

(そのむらのたいがんにあるくりのきのおおいひくいやまへよじのぼり、)

その村の対岸にある栗の木の多い低い山へよじのぼり、

(そのじょうほうのしゃめんにこしをおろした。そこでわたしはなんじかんも、あかるい、しずかなきぶんで、)

その上方の斜面に腰を下ろした。そこで私は何時間も、明るい、静かな気分で、

(これからてをつけようとしているものがたりのこうそうにふけっていた。)

これから手を着けようとしている物語の構想に耽っていた。

(ときおりわたしのあしもとのほうで、おもいだしたように、)

ときおり私の足もとの方で、思い出したように、

(こどもらがくりのきをゆすぶっていちどきにくりのみをおとす、)

子供等が栗の木をゆすぶって一どきに栗の実を落す、

(そのたにじゅうにひびきわたるようなおおきなおとにおどろかされながらーー)

その谿じゅうに響きわたるような大きな音に愕かされながらーー

(そういうじぶんのまわりにみききされるすべてのものが、わたしたちのせいのかじつも)

そういう自分のまわりに見聞きされるすべてのものが、私達の生の果実も

(すでにじゅくしていることをつげ、そしてそれをはやくとりいれるようにと)

すでに熟していることを告げ、そしてそれを早く取り入れるようにと

(じぶんをうながしでもしているかのようにかんずるのが、わたしはすきであった。)

自分を促しでもしているかのように感ずるのが、私は好きであった。

(ようやくひがかたむいて、はやくもそのたにのむらがむこうのぞうきやまのかげのなかに)

ようやく日が傾いて、早くもその谿の村が向うの雑木山の影の中に

(すっかりはいってしまうのをみとめると、わたしはしずかにたちあがって、)

すっかりはいってしまうのを認めると、私はしずかに立ち上って、

(やまをおり、ふたたびつりばしをわたって、あちらこちらにすいしゃが)

山を下り、再び吊橋をわたって、あちらこちらに水車が

(ごとごととおとをたてながらたえずまわっているせまいむらのなかを)

ごとごとと音を立てながら絶えず廻っている狭い村の中を

(なんということはなしにひとまわりしたあと、)

何んということはなしに一まわりした後、

(やつがたけのさんろくいったいにひろがっているからまつばやしのへりを、)

八ヶ岳の山麓一帯に拡がっている落葉松林の縁を、

など

(もうそろそろびょうにんがもじもじしながらじぶんのかえりを)

もうそろそろ病人がもじもじしながら自分の帰りを

(まっているだろうとかんがえながら、)

待っているだろうと考えながら、

(こころもちあしをはやめてさなとりうむにもどるのだった。)

心もち足を早めてサナトリウムに戻るのだった。

(じゅうがつにじゅうさんにちあけがたちかく、わたしはじぶんのすぐみぢかでしたようなきのする)

十月二十三日  明け方近く、私は自分のすぐ身近でしたような気のする

(いようなものおとにおどろいてめをさました。)

異様な物音に驚いて目を覚ました。

(そうしてしばらくみみをそばだてていたが、)

そうしてしばらく耳をそば立てていたが、

(さなとりうむぜんたいはしんだようにひっそりとしていた。)

サナトリウム全体は死んだようにひっそりとしていた。

(それからなんだかめがさえて、わたしはもうねつかれなくなった。)

それからなんだか目が冴えて、私はもう寝つかれなくなった。

(ちいさながのこびりついているまどがらすをとおして、)

小さな蛾のこびりついている窓硝子をとおして、

(わたしはぼんやりとあかつきのほしがまだふたつみっつかすかにひかっているのをみつめていた。)

私はぼんやりと暁の星がまだ二つ三つかすかに光っているのを見つめていた。

(が、そのうちにわたしはそういうあさあけがなんともいえずに)

が、そのうちに私はそういう朝明けが何んとも云えずに

(さびしいようなきがしてきて、そっとおきあがると、)

寂しいような気がして来て、そっと起き上ると、

(なにをしようとしているのかじぶんでもわからないように、)

何をしようとしているのか自分でも分らないように、

(まだくらいとなりのびょうしつへすあしのままではいっていった。)

まだ暗い隣りの病室へ素足のままではいって行った。

(そうしてべっどにちかづきながら、せつこのねがおをかがみこむようにしてみた。)

そうしてベッドに近づきながら、節子の寝顔をかがみ込こむようにして見た。

(するとかのじょはおもいがけず、ぱっちりとめをみひらいて、)

すると彼女は思いがけず、ぱっちりと目を見ひらいて、

(そんなわたしのほうをみあげながら、「どうなすったの?」)

そんな私の方を見上げながら、「どうなすったの?」

(といぶかしそうにきいた。)

といぶかしそうに訊いた。

(わたしはなんでもないといっためくばせをしながら、)

私は何んでもないと云った目くばせをしながら、

(そのまましずかにかのじょのうえにみをかがめて、)

そのまま徐かに彼女の上に身を屈めて、

(いかにもこらえきれなくなったように)

いかにもこらえ切れなくなったように

(そのかおへぴったりとじぶんのかおをおしつけた。)

その顔へぴったりと自分の顔を押しつけた。

(「まあ、つめたいこと」かのじょはめをつぶりながら、あたまをすこしうごかした。)

「まあ、冷たいこと」彼女は目をつぶりながら、頭をすこし動かした。

(かみのけがかすかににおった。そのままわたしたちはおたがいのつくいきをかんじあいながら、)

髪の毛がかすかに匂った。そのまま私達はお互のつく息を感じ合いながら、

(いつまでもそうしてじっとほおずりをしていた。)

いつまでもそうしてじっと頬ずりをしていた。

(「あら、また、くりがおちたーー」)

「あら、又、栗が落ちたーー」

(かのじょはめをほそめにあけてわたしをみながら、そうささやいた。)

彼女は目を細目に明けて私を見ながら、そう囁いた。

(「ああ、あれはくりだったのかい。)

「ああ、あれは栗だったのかい。

(ーーあいつのおかげでおれはさっきめをさましてしまったのだ」)

ーーあいつのお蔭でおれはさっき目を覚ましてしまったのだ」

(わたしはすこしうわずったようなこえでそういいながら、そっとかのじょをてばなすと、)

私は少し上ずったような声でそう言いながら、そっと彼女を手放すと、

(いつのまにかだんだんあかるくなりだしたまどのほうへあゆみよっていった。)

いつの間にかだんだん明るくなり出した窓の方へ歩み寄って行った。

(そしてそのまどによりかかって、)

そしてその窓によりかかって、

(いましがたどちらのめからにじみでたのかもわからない)

いましがたどちらの目から滲み出たのかも分らない

(あついものがわたしのほおをつたうがままにさせながら、)

熱いものが私の頬を伝うがままにさせながら、

(むこうのやまのせにいくつかくものうごかずにいるあたりがあかくにごったような)

向うの山の背にいくつか雲の動かずにいるあたりが赤く濁ったような

(いろあいをおびだしているのをみいっていた。)

色あいを帯び出しているのを見入っていた。

(はたけのほうからはやっとものおとがきこえだした。)

畑の方からはやっと物音が聞え出した。

(ーー「そんなことをしていらっしゃるとおかぜをひくわ」)

ーー「そんな事をしていらっしゃるとお風を引くわ」

(べっどからかのじょがちいさなこえでいった。)

ベッドから彼女が小さな声で言った。

(わたしはなにかきがるいちょうしでへんじをしてやりたいとおもいながら、)

私は何か気軽い調子で返事をしてやりたいと思いながら、

(かのじょのほうをふりむいた。)

彼女の方をふり向いた。

(が、おおきくみはってきづかわしそうにわたしをみつめている)

が、大きくみはって気づかわしそうに私を見つめている

(かのじょのめとみあわせると、そんなことばはだされなかった。)

彼女の目と見合わせると、そんな言葉は出されなかった。

(そうしてむごんのまままどをはなれて、じぶんのへやにもどっていった。)

そうして無言のまま窓を離れて、自分の部屋に戻って行った。

(それからすうふんたつと、びょうにんはあけがたにいつもする、)

それから数分立つと、病人は明け方にいつもする、

(おさえかねたようなはげしいせきをだした。)

抑えかねたようなはげしい咳を出した。

(ふたたびねどこにもぐりこみながら、わたしはなんともかともいわれないような)

再び寝床に潜りこみながら、私は何んともかとも云われないような

(ふあんなきもちでそれをきいていた。)

不安な気持でそれを聞いていた。

(じゅうがつにじゅうしちにちわたしはきょうもまたやまやもりでごごをすごした。)

十月二十七日  私はきょうもまた山や森で午後を過した。

(ひとつのしゅだいが、しゅうじつ、わたしのかんがえをはなれない。)

一つの主題が、終日、私の考えを離れない。

(しんのこんやくのしゅだいーーふたりのにんげんがそのあまりにもみじかいいっしょうのあいだを)

真の婚約の主題ーー二人の人間がその余りにも短い一生の間を

(どれだけおたがいにこうふくにさせあえるか?)

どれだけお互に幸福にさせ合えるか?

(あらがいがたいうんめいのまえにしずかにあたまをうなだれたまま、たがいにこころとこころと、)

抗いがたい運命の前にしずかに頭をうなだれたまま、互に心と心と、

(みとみとをあたためあいながら、ならんでたっているわかいだんじょのすがた、)

身と身とを温め合いながら、並んで立っている若い男女の姿、

(ーーそんなひとくみとしての、さびしそうな、)

ーーそんな一組としての、寂しそうな、

(それでいてどこかたのしくないこともないわたしたちのすがたが、)

それでいて何処か愉しくないこともない私達の姿が、

(はっきりとわたしのめのまえにみえてくる。)

はっきりと私の目の前に見えて来る。

(それをおいて、いまのわたしになにがかけるだろうか?)

それをおいて、いまの私に何が描けるだろうか?

(はてしのないようなさんろくをすっかりきばませながらかたむいているからまつばやしのへりを、)

果てしのないような山麓をすっかり黄ばませながら傾いている落葉松林の縁を、

(ゆうがた、わたしがいつものようにあしばやにかえってくると、)

夕方、私がいつものように足早に帰って来ると、

(ちょうどさなとりうむのうらになったぞうきばやしのはずれに、)

丁度サナトリウムの裏になった雑木林のはずれに、

(ななめになったひをあびて、かみをまぶしいほどひからせながらたっている)

斜めになった日を浴びて、髪をまぶしいほど光らせながら立っている

(ひとりのせのたかいわかいおんながとおくみとめられた。)

一人の背の高い若い女が遠く認められた。

(わたしはちょっとたちどまった。どうもそれはせつこらしかった。)

私はちょっと立ち止まった。どうもそれは節子らしかった。

(しかしそんなばしょにひとりきりのようなのをみて、)

しかしそんな場所に一人きりのようなのを見て、

(はたしてかのじょかどうかわからなかったので、)

果して彼女かどうか分らなかったので、

(わたしはただまえよりもすこしあしをはやめただけだった。)

私はただ前よりも少し足を早めただけだった。

(が、だんだんちかづいてみると、それはやはりせつこであった。)

が、だんだん近づいて見ると、それはやはり節子であった。

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