目羅博士の不思議な犯罪 二 1 江戸川乱歩

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語り手の江戸川は、上野動物園で巧みに檻の中の猿をからかう「男」と出会う。「男」は江戸川に、猿の人真似の本能や、「模倣」の恐怖について語る。

動物園を出た後、上野の森の捨て石に腰をかけ、江戸川は「男」の経験談を聞くことにした。

一から五までで一つのお話です。

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問題文

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(「どいるのしょうせつに「きょうふのたに」というのがありましたね」)

「ドイルの小説に『恐怖の谷』というのがありましたね」

(せいねんはとうとつにはじめた。 「あれは、どっかのけわしいやまとやまがつくっているきょうこくの)

青年は唐突に始めた。 「あれは、どっかの嶮しい山と山が作っている峡谷の

(ことでしょう。だが、きょうふのたにはなにもしぜんのきょうこくばかりではありませんよ。)

ことでしょう。だが、恐怖の谷は何も自然の峡谷ばかりではありませんよ。

(このとうきょうのまんなかの、まるのうちにだっておそろしいたにまがあるのです。)

この東京の真中の、丸の内にだって恐ろしい谷間があるのです。

(たかいびるでぃんぐとびるでぃんぐとのあいだにはさまっている、ほそいどうろ。そこは)

高いビルディングとビルディングとの間にはさまっている、細い道路。そこは

(しぜんのきょうこくよりも、ずっとけわしく、ずっといんきです。ぶんめいのつくったゆうこくです。)

自然の峡谷よりも、ずっと嶮しく、ずっと陰気です。文明の作った幽谷です。

(かがくのつくったたにぞこです。そのたにぞこのどうろからみた、りょうがわの6かい7かいのさっぷうけいな)

科学の作った谷底です。その谷底の道路から見た、両側の六階七階の殺風景な

(こんくりーとけんちくは、しぜんのだんがいのように、あおばもなく、きせつきせつのはなもなく、)

コンクリート建築は、自然の断崖の様に、青葉もなく、季節季節の花もなく、

(めにおもしろいでこぼこもなく、もじどおりおのでたちわった、きょだいなねずみいろのさけめに)

目に面白いでこぼこもなく、文字通り斧でたち割った、巨大な鼠色の裂目に

(すぎません。みあげるそらはおびのようにほそいのです。ひもつきも、いちにちのあいだにほんの)

過ぎません。見上る空は帯の様に細いのです。日も月も、一日の間にホンの

(すうふんかんしか、まともにはてらないのです。そのそこからはひるまでもほしがみえる)

数分間しか、まともには照らないのです。その底からは昼間でも星が見える

(くらいです。ふしぎなつめたいかぜが、たえずふきまくっています。 そういうきょうこくの)

位です。不思議な冷い風が、絶えず吹きまくっています。  そういう峡谷の

(ひとつに、だいじしんいぜんまで、ぼくはすんでいたのです。たてもののしょうめんはまるのうちのえすどおり)

一つに、大地震以前まで、僕は住んでいたのです。建物の正面は丸の内のS通り

(にめんしていました。しょうめんはあかるくてりっぱなのです。しかし、いちどはいめんにまわったら、)

に面していました。正面は明るくて立派なのです。併し、一度背面に廻ったら、

(べつのびるでぃんぐとせなかあわせで、おたがいにさっぷうけいな、こんくりーとまるだしの、)

別のビルディングと背中合わせで、お互に殺風景な、コンクリート丸出しの、

(まどのあるだんがいが、たったふたまはばほどのつうろをはさんで、むきあっています。とかいの)

窓のある断崖が、たった二間巾程の通路を挟んで、向き合っています。都会の

(ゆうこくというのは、つまりそのぶぶんなのです。 びるでぃんぐのへやべやは、)

幽谷というのは、つまりその部分なのです。  ビルディングの部屋部屋は、

(たまにはじゅうたくけんようのひともありましたが、たいていはひるまだけのおふぃすで、よるはみな)

たまには住宅兼用の人もありましたが、大抵は昼間丈けのオフィスで、夜は皆

(かえってしまいます。ひるまにぎやかなだけに、よるのさびしさといったらありません。)

帰ってしまいます。昼間賑かな丈けに、夜の淋しさといったらありません。

(まるのうちのまんなかで、ふくろがなくかとあやしまれるほど、ほんとうにみやまのかんじです。れいの)

丸の内の真中で、ふくろが鳴くかと怪まれる程、本当に深山の感じです。例の

など

(うしろがわのきょうこくも、よるこそもじどおりきょうこくです。 ぼくは、ひるまはげんかんばんをつとめ、)

うしろ側の峡谷も、夜こそ文字通り峡谷です。  僕は、昼間は玄関番を勤め、

(よるはそのびるでぃんぐのちかしつにねとまりしていました。45にんとまりこみのなかまが)

夜はそのビルディングの地下室に寝泊りしていました。四五人泊り込みの仲間が

(あったけれど、ぼくはえがすきで、ひまさえあれば、ひとりぼっちで、かんヴぁすを)

あったけれど、僕は絵が好きで、暇さえあれば、独りぼっちで、カンヴァスを

(ぬりつぶしていました。しぜんほかのれんちゅうとはくちもきかないようなひがおおかったのです)

塗りつぶしていました。自然他の連中とは口も利かない様な日が多かったのです

(そのじけんがおこったのは、いまいううしろがわのきょうこくなのですから、そこのありさまを)

その事件が起ったのは、今いううしろ側の峡谷なのですから、そこの有様を

(すこしおはなししておくひつようがあります。そこにはたてものそのものに、じつにふしぎな、)

少しお話しして置く必要があります。そこには建物そのものに、実に不思議な、

(きみのわるいあんごうがあったのです。あんごうにしては、あんまりぴったりいっちしすぎて)

気味の悪い暗合があったのです。暗合にしては、あんまりぴったり一致し過ぎて

(いるので、ぼくは、そのたてものをせっけいしたぎしの、きまぐれないたずらではないかと)

いるので、僕は、その建物を設計した技師の、気まぐれないたずらではないかと

(おもったものです。 というのは、そのふたつのびるでぃんぐは、おなじくらいのおおきさで)

思ったものです。  というのは、其二つのビルディングは、同じ位の大きさで

(りょうほうとも5かいでしたが、おもてがわや、そくめんは、かべのいろなりそうしょくなり、まるでちがって)

両方とも五階でしたが、表側や、側面は、壁の色なり装飾なり、まるで違って

(いるくせに、きょうこくのがわのはいめんだけは、どこからどこまで、すんぶんちがわぬつくりになって)

いる癖に、峡谷の側の背面丈けは、どこからどこまで、寸分違わぬ作りになって

(いたのです。やねのかたちから、ねずみいろのかべのいろから、かくかいによっつずつひらいているまどの)

いたのです。屋根の形から、鼠色の壁の色から、各階に四つずつ開いている窓の

(こうぞうから、まるでしゃしんにうつしたように、そっくりなのです。もしかしたら、)

構造から、まるで写真に写した様に、そっくりなのです。若しかしたら、

(こんくりーとのひびわれまで、おなじかたちをしていたかもしれません。 そのきょうこく)

コンクリートのひび割れまで、同じ形をしていたかも知れません。  その峡谷

(にめんしたへやは、いちにちにすうふんかん(というのはちとおおげさですが)まあほんのまたたく)

に面した部屋は、一日に数分間(というのはちと大袈裟ですが)まあほんの瞬く

(ひましかひがささぬので、しぜんかりてがつかず、ことにいちばんふべんな5かいなどは、)

ひましか日がささぬので、自然借り手がつかず、殊に一番不便な五階などは、

(いつもあきべやになっていましたので、ぼくはひまなときには、かんヴぁすとえふでを)

いつも空部屋になっていましたので、僕は暇なときには、カンヴァスと絵筆を

(もって、よくそのあきべやへはいりこんだものです。そして、まどからのぞくたびごとに、)

持って、よくその空き部屋へ入り込んだものです。そして、窓から覗く度毎に、

(むこうのたてものが、まるでこちらのしゃしんのように、よくにていることを、ぶきみに)

向うの建物が、まるでこちらの写真の様に、よく似ていることを、不気味に

(おもわないではいられませんでした。なにかおそろしいできごとのぜんちょうみたいに)

思わないではいられませんでした。何か恐ろしい出来事の前兆みたいに

(かんじられたのです。 そして、そのぼくのよかんが、まもなくてきちゅうするときがきたでは)

感じられたのです。  そして、其僕の予感が、間もなく的中する時が来たでは

(ありませんか。5かいのきたのはしのまどで、くびくくりがあったのです。しかも、それが)

ありませんか。五階の北の端の窓で、首くくりがあったのです。しかも、それが

(すこしときをへだてて、さんどもくりかえされたのです。)

少し時を隔てて、三度も繰返されたのです。

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