目羅博士の不思議な犯罪 三 1 江戸川乱歩
動物園を出た後、上野の森の捨て石に腰をかけ、江戸川は「男」の経験談を聞くことにした。
一から五までで一つのお話です。
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問題文
(「じむいんは、たったひとりで、みばんというものそのまのへやにあかしました。)
「事務員は、たった一人で、三晩というものその魔の部屋にあかしました。
(しかしなにごともなかったのです。かれはあくまばらいでもしたかおで、おおいばりです。)
しかし何事もなかったのです。彼は悪魔払いでもした顔で、大威張りです。
(そこで、ぼくはいってやりました。 「あなたのねたばんは、みばんとも、くもっていた)
そこで、僕は云ってやりました。 『あなたの寝た晩は、三晩とも、曇っていた
(じゃありませんか。つきがでなかったじゃありませんか」とね」 「ほほう、その)
じゃありませんか。月が出なかったじゃありませんか』とね」 「ホホウ、その
(じさつとつきとが、なにかかんけいでもあったのですか」 わたしはちょっと)
自殺と月とが、何か関係でもあったのですか」 私はちょっと
(おどろいて、ききかえした。 「ええ、あったのです。さいしょのこうりょうぶろーかーも、)
驚いて、聞き返した。 「エエ、あったのです。最初の香料ブローカーも、
(そのつぎのへやかりびとも、つきのさえたばんにしんだことを、ぼくはきづいていました。)
その次の部屋借り人も、月の冴えた晩に死んだことを、僕は気づいていました。
(つきがでなければ、あのじさつはおこらないのだ。それも、せまいきょうこくに、ほんのすうふんかん)
月が出なければ、あの自殺は起らないのだ。それも、狭い峡谷に、ほんの数分間
(しろがねいろのようこうがさしこんでいる、そのあいだにおこるのだ。げっこうのようじゅつなのだ。とぼくは)
白銀色の妖光がさし込んでいる、その間に起るのだ。月光の妖術なのだ。と僕は
(しんじきっていたのです」 せいねんはいいながら、おぼろにしろいかおをあげて、)
信じきっていたのです」 青年は云いながら、おぼろに白い顔を上げて、
(げっこうにつつまれたきゃっかのしのばずのいけをながめた。 そこには、せいねんのいわゆるきょだいなかがみに)
月光に包まれた脚下の不忍池を眺めた。 そこには、青年の所謂巨大な鏡に
(うつった、いけのけしきが、ほのしろく、あやしげによこたわっていた。 「これです。この)
写った、池の景色が、ほの白く、妖しげに横わっていた。 「これです。この
(ふしぎなげっこうのまりょくです。げっこうは、つめたいひのような、いんきなげきじょうをゆうはつします。)
不思議な月光の魔力です。月光は、冷い火の様な、陰気な激情を誘発します。
(ひとのこころがりんのようにもえあがるのです。そのふかしぎなげきじょうが、たとえば「げっこうのきょく」)
人の心が燐の様に燃え上るのです。その不可思議な激情が、例えば『月光の曲』
(をうむのです。しじんならずとも、つきにむじょうをおしえられるのです。「げいじゅつてききょうき」)
を生むのです。詩人ならずとも、月に無常を教えられるのです。『芸術的狂気』
(ということばがゆるされるならば、つきはひとを「げいじゅつてききょうき」にみちびくものでは)
という言葉が許されるならば、月は人を『芸術的狂気』に導くものでは
(ありますまいか」 せいねんのわじゅつが、しょうしょうばかりわたしをへきえきさせた。)
ありますまいか」 青年の話術が、少々ばかり私を辟易させた。
(「で、つまり、げっこうが、そのひとたちをいしさせたとおっしゃるのですか」)
「で、つまり、月光が、その人達を縊死させたとおっしゃるのですか」
(「そうです。なかばはげっこうのつみでした。しかし、つきのひかりが、じかにひとをじさつさせるわけ)
「そうです。半ばは月光の罪でした。併し、月の光りが、直に人を自殺させる訳
(はありません。もしそうだとすれば、いま、こうしてまんしんにつきのひかりをあびている)
はありません。若しそうだとすれば、今、こうして満身に月の光をあびている
(わたしたちは、もうそろそろ、くびをくくらねばならぬじぶんではありますまいか」)
私達は、もうそろそろ、首を溢らねばならぬ時分ではありますまいか」
(かがみにうつったようにみえる、あおじろいせいねんのかおが、にやにやとわらった。わたしは、かいだんを)
鏡に写った様に見える、青白い青年の顔が、ニヤニヤと笑った。私は、怪談を
(きいているこどものような、おびえをかんじないではいられなかった。)
聞いている子供の様な、おびえを感じないではいられなかった。
(「そのごうけつじむいんは、よっかめのばんも、まのへやでねたのです。そして、)
「その豪傑事務員は、四日目の晩も、魔の部屋で寝たのです。そして、
(ふこうなことには、そのばんはつきがさえていたのです。 わたしは)
不幸なことには、その晩は月が冴えていたのです。 私は
(まよなかに、ちかしつのふとんのなかで、ふとめをさまし、たかいまどから)
真夜半(まよなか)に、地下室の蒲団の中で、ふと目を覚まし、高い窓から
(さしこむつきのひかりをみて、なにかしらはっとして、おもわずおきあがりました。そして、)
さし込む月の光を見て、何かしらハッとして、思わず起き上りました。そして、
(ねまきのまま、えれべーたーのよこの、せまいかいだんを、むちゅうで5かいまでかけのぼった)
寝間着のまま、エレベーターの横の、狭い階段を、夢中で五階まで駈け昇った
(のです。まよなかのびるでぃんぐが、ひるまのにぎやかさにひきかえて、どんなにさびしく)
のです。真夜半のビルディングが、昼間の賑かさに引きかえて、どんなに淋しく
(ものすごいものだか、ちょっとごそうぞうもつきますまい。なんびゃくというこべやをもった、)
物凄いものだか、ちょっとご想像もつきますまい。何百という小部屋を持った、
(おおきなはかばです。はなしにきく、ろーまのかたこむです。まったくのくらやみではなく、ろうか)
大きな墓場です。話に聞く、ローマのカタコムです。全くの暗闇ではなく、廊下
(のようしょようしょには、でんとうがついているのですが、そのほのぐらいひかりがいっそう)
の要所要所には、電燈がついているのですが、そのほの暗い光が一層
(おそろしいのです。 やっと5かいの、れいのへやにたどりつくと、わたしは、)
恐ろしいのです。 やっと五階の、例の部屋にたどりつくと、私は、
(むゆうびょうしゃのように、はいきょのびるでぃんぐを、さまよっているじぶんじしんがこわくなって)
夢遊病者の様に、廃墟のビルディングを、さまよっている自分自身が怖くなって
(きょうきのようにどあをたたきました。そのじむいんのなをよびました。)
狂気の様にドアを叩きました。その事務員の名を呼びました。
(だが、なかからはなんのこたえもないのです。わたしじしんのこえが、ろうかにこだまして、)
だが、中からは何の答えもないのです。私自身の声が、廊下にこだまして、
(さびしくきえていくほかには。)
淋しく消えて行く外には。