野菊の墓 伊藤左千夫 ⑬

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政夫と2歳年上の従姉・民子との淡い恋を描く。夏目漱石が絶賛。

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問題文

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(おますがともなきをしていいわけをいうたので、)

お増が共泣きをして言訣をいうたので、

(もとよりたみこはにくくないははだから、にわかにかおいろをなおして、)

もとより民子は憎くない母だから、俄に顔色を直して、

(「なるほどおますがそういえば、わたしもすこしかんちがいをしていました。)

「なるほどお増がそういえば、私も少し勘違いをしていました。

(よくおますそういうてくれた。わたしはもうすっかりこころもちがなおった。)

よくお増そういうてくれた。私はもうすっかり心持がなおった。

(たみや、だまっておくれ、もうないてくれるな。)

民や、だまっておくれ、もう泣いてくれるな。

(たみやもかわいそうであった。)

民やも可哀相であった。

(なにまさをはがっこうへいったんじゃないか、くれにはかえってくるよ。)

なに政夫は学校へ行ったんじゃないか、暮には帰ってくるよ。

(なあおます、おまえはきょうはしごとをやすんで、うまいものでもこしらえてくれ」)

なアお増、お前は今日は仕事を休んで、うまい物でも拵えてくれ」

(そのひはさんにんがいくたびもよりあって、)

その日は三人がいく度もよりあって、

(いろいろなものをこしらえてはちゃごとをやり、いちにちおもしろくはなしをした。)

いろいろな物を拵えては茶ごとをやり、一日面白く話をした。

(たみこはこのひはいつになくたかわらいをしげんきよくあそんだ。)

民子はこの日はいつになく高笑いをし元気よく遊んだ。

(なんといってもははのほうはすぐはなしがわかるけれど、)

何と云っても母の方は直ぐ話が解るけれど、

(あによめがまがなすきがないろいろなことをいうので、)

嫂が間がな隙がないろいろなことを言うので、

(とうとうぼくのかえらないうちにたみこをいちかわへかえしたとのはなしであった。)

とうとう僕の帰らない内に民子を市川へ帰したとの話であった。

(おますはながいはなしをおわるやいなやすぐうちへかえった。)

お増は長い話を終るや否やすぐ家へ帰った。

(なるほどそうであったか、あねはもちろんははまでがそういうこころになったでは、)

なるほどそうであったか、姉は勿論母までがそういう心になったでは、

(かよわいのぞみもたえたもどうよう。)

か弱い望も絶えたも同様。

(こころぼそさのやるせがなく、なくよりほかにせんがなかったのだろう。)

心細さのやるせがなく、泣くより外に詮がなかったのだろう。

(そんなにははにしかられたか・・・ひとばんじゅうなきとおした・・・)

そんなに母に叱られたか・・・一晩中泣きとおした・・・

(なるほどなどとおもうと、ふたたびあついなみだがみなぎりだしてとめどがない。)

なるほどなどと思うと、再び熱い涙が漲り出してとめどがない。

など

(ぼくはしばらくのあいだ、なみだのでるがままにそこにぼんやりしておった。)

僕はしばらくの間、涙の出るがままにそこにぼんやりして居った。

(そのひはとうとうあさめしもたべず、)

その日はとうとう朝飯もたべず、

(ひるすぎまではたけのあたりをうろついてしまった。)

昼過ぎまで畑のあたりをうろついてしまった。

(そうなるとにわかにうちにいるのがいやでたまらない。)

そうなると俄に家に居るのが厭でたまらない。

(できるならばくれのうちにがっこうへかえってしまいたかったけれど、)

出来るならば暮の内に学校へ帰ってしまいたかったけれど、

(そうもならないでようやくこらえて、)

そうもならないでようやくこらえて、

(としをこしがんたんいちにちおいてふつかのひにはあさはやくがっこうへたってしまった。)

年を越し元日一日置いて二日の日には朝早く学校へ立ってしまった。

(こんどはりくろいちかわへでて、いちかわからきしゃにのったから、)

今度は陸路市川へ出て、市川から汽車に乗ったから、

(たみこのきんじょをとおったのであれど、)

民子の近所を通ったのであれど、

(ぼくはきまりがわるくてどうしてもたみこのうちへよれなかった。)

僕は極りが悪くてどうしても民子の家へ寄れなかった。

(またぼくによられたらば、たみこがこまるだろうともおもって、)

また僕に寄られたらば、民子が困るだろうとも思って、

(いくたびよろうとおもったけれどついによらなかった。)

いくたび寄ろうと思ったけれどついに寄らなかった。

(おもえばじつにひとのきょうぐうはへんかするものである。)

思えば実に人の境遇は変化するものである。

(そのいちねんまえまでは、たみこがぼくのところへきていなければ、)

その一年前までは、民子が僕の所へ来て居なければ、

(ぼくはにちようのたびにたみこのうちへいったのである。)

僕は日曜のたびに民子の家へ行ったのである。

(ぼくはたみこのうちへいってもほかのひとにはようはない。)

僕は民子の家へ行っても外の人には用はない。

(いつでも、「おばあさん、たみさんは」)

いつでも、「お祖母さん、民さんは」

(そら「たみさんは」がきたといわれるくらいで、)

そら「民さんは」が来たといわれる位で、

(あるときなどはぼくがゆくと、たみこはにわにきくのはなをつんでいた。)

或る時などは僕がゆくと、民子は庭に菊の花を摘んで居た。

(ぼくはたみさんちょっとおいでとむりにせどへひっぱっていって、)

僕は民さんちょっとおいでと無理に背戸へ引張って行って、

(にけんばしごをふたりでにないだし、)

二間梯子を二人でにない出し、

(かきのきへかけたのをたみこにおさえさせ、)

柿の木へ掛けたのを民子に抑えさせ、

(ぼくがのぼってかきをむっつばかりとる。)

僕が登って柿を六つばかりとる。

(たみこにはんぶんやればたみこはひとつでたくさんというから、)

民子に半分やれば民子は一つで沢山というから、

(ぼくはそのいつつをもってそのままうらからぬけてかえってしまった。)

僕はその五つを持ってそのまま裏から抜けて帰ってしまった。

(さすがにこのときはとむらのうちでもうちじゅうでぼくをわるくいったそうだけれど、、)

さすがにこの時は戸村の家でも家中で僕を悪く言ったそうだけれど、

(たみこひとりはただにこにこわらっていて、)

民子一人はただにこにこ笑って居て、

(けっしてまさおさんわるいとはいわなかったそうだ。)

決して政夫さん悪いとは言わなかったそうだ。

(これくらいへだてなくしたあいだがらだに、こいということおぼえてからは、)

これ位隔てなくした間柄だに、恋ということ覚えてからは、

(いちかわのまちをとおるすらはずかしくなったのである。)

市川の町を通るすら恥ずかしくなったのである。

(このとしのしょちゅうやすみにはうちにかえらなかった。)

この年の暑中休みには家に帰らなかった。

(くれにもかえるまいとおもったけれど、)

暮にも帰るまいと思ったけれど、

(としのくれだからいちにちでもふつかでもかえれというてははからてがみがきたゆえ、)

年の暮だから一日でも二日でも帰れというて母から手紙がきた故、

(おおみそかのよるかえってきた。)

おおみそかの夜帰ってきた。

(おますもことしきりでさがったとのはなしでいよいよはなしあいてもないから、)

お増も今年きりで下がったとの話でいよいよ話相手もないから、

(またがんじついちにちでふつかのひにでかけようとすると、)

また元日一日で二日の日に出掛けようとすると、

(ははがおまえにもいうておくがたみこはよめにいった、)

母がお前にも言うて置くが民子は嫁にいった、

(きょねんのしもつきやはりいちかわのうちで、)

去年の霜月やはり市川の内で、

(たいへんゆうふくなうちだそうだ、とかんたんにいうのであった。)

大変裕福な家だそうだ、と簡単にいうのであった。

(ぼくははあそうですかとむぞうさにこたえてでてしまった。)

僕ははアそうですかと無造作に答えて出てしまった。

(たみこはよめにいった。)

民子は嫁に往った。

(このいちごをきいたときのぼくのこころもちは)

この一語を聞いた時の僕の心持は

(じぶんながらふしぎとおもうほどのへいきであった。)

自分ながら不思議と思うほどの平気であった。

(ぼくがたみこをおもっているかんじょうになんらのどうようをおこさなかった。)

僕が民子を思っている感情に何らの動揺を起さなかった。

(これにはなにかそうとうのりゆうがあるかもしれねど、)

これには何か相当の理由があるかも知れねど、

(ともかくもじじつはそうである。)

ともかくも事実はそうである。

(ぼくはただりくつなしにたみこはいかなきょうがいにはいろうとも、)

僕はただ理窟なしに民子は如何な境涯に入ろうとも、

(ぼくをおもっているこころはけっしてかわらぬものとしんじている。)

僕を思っている心は決して変らぬものと信じている。

(よめにいこうがどうしようが、たみこはいぜんたみこで、)

嫁にいこうがどうしようが、民子は依然民子で、

(ぼくがたみこをおもうこころにすんぶんのかわりないように)

僕が民子を思う心に寸分の変りない様に

(たみこにもけっしてかわりないようにおもわれて、)

民子にも決して変りない様に思われて、

(そのかんねんはほとんどおおいしのうえにざしているようで)

その観念は殆ど大石の上に坐して居る様で

(けのさきほどのきぐしんもない。)

毛の先ほどの危惧心もない。

(それであるからたみこはよめにいったときいてもすこしもおどろかなかった。)

それであるから民子は嫁に往ったと聞いても少しも驚かなかった。

(しかしそのころからいままでにないかんがえもでてきた。)

しかしその頃から今までにない考えも出て来た。

(たみこはただただすこしもげんきがなく、)

民子はただただ少しも元気がなく、

(やせおとろえてふさいでばかりいるだろうとのみおもわれてならない。)

痩せ衰えてふさいで許り居るだろうとのみ思われてならない。

(かわいそうなたみさんというかんねんばかりたかまってきたのである。)

可哀相な民さんという観念ばかり高まってきたのである。

(そういうわけであるから、がっこうへいってもいぜんとはほとんどはんたいになって、)

そういう訣であるから、学校へ往っても以前とは殆ど反対になって、

(いぜんはつとめてひとなかへはいって、くもんをまぎらそうとしたけれど、)

以前は勉めて人中へ這入って、苦悶を紛らそうとしたけれど、

(こんどはなるべくひとをさけて、ひとりでたみこのうえにおもいをはせてたのしんでおった。)

今度はなるべく人を避けて、一人で民子の上に思いを馳せて楽しんで居った

(なすばたけのことやわたばたけのことや、じゅうさんにちのばんのさびしいかぜや、)

茄子畑の事や棉畑の事や、十三日の晩の淋しい風や、

(またやぎりのわたしでわかれたときのことやを、)

また矢切の渡で別れた時の事やを、

(くりかえしくりかえしかんがえてはひとりなぐさめておった。)

繰返し繰返し考えては独り慰めて居った。

(たみこのことさえかんがえればいつでもきぶんがよくなる。)

民子の事さえ考えればいつでも気分がよくなる。

(もちろんかなしいこころもちになることがしばしばあるけれど、)

勿論悲しい心持になることがしばしばあるけれど、

(さんざんなみだをだせばやはりあとはきぶんがよくなる。)

さんざん涙を出せばやはり跡は気分がよくなる。

(たみこのことをおもっていればかえってがっかのせいせきもわるくないのである。)

民子の事を思って居ればかえって学課の成績も悪くないのである。

(これらもふしぎのひとつで、いかなるわけかしらねど、ぼくはじっさいそうであった。)

これらも不思議の一つで、如何なるわけか知らねど、僕は実際そうであった。

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