雨あがる 山本周五郎 ⑥
寺尾聰、宮崎美子、主演で映画化。
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問題文
(これよりすこしまえ、まつばやしとははんたいがわにあるみちへ、)
これより少しまえ、松林とは反対側にある道へ、
(さんにんのさむらいがうまをのりつけてきて、このばのようすをながめていた。)
三人の侍が馬を乗りつけて来て、この場のようすを眺めていた。
(そうして、にげまわるいへえをごにんのものが、「かたなをかえせ」とか)
そうして、逃げまわる伊兵衛を五人の者が、「刀を返せ」とか
(「このぶれいもの」「まてげろう」などとわめきながらおいまわすのをみて、)
「この無礼者」「待て下郎」などと喚きながら追いまわすのを見て、
(はじめてうまをおり、そのなかのふたりがこっちへちかよってきた。)
初めて馬を下り、そのなかの二人がこっちへ近寄って来た。
(「しずまれ、みぐるしいぞ」)
「鎮まれ、見苦しいぞ」
(しじゅうごろくになるこえたさむらいが、よくとおるおもみのあるこえでせいしした。)
四十五六になる肥えた侍が、よく徹る重みのある声で制止した。
(「はたしあいははっとである、ひかえろ」)
「はたし合いは法度である、控えろ」
(「ごろうしょくであるぞ」もうひとりがどなった。)
「御老職であるぞ」 もう一人がどなった。
(「みなしずまれ、ごろうしょくのおいでであるぞ」)
「みな鎮まれ、御老職のおいでであるぞ」
(よほどいせいのあるひととみえ、このひとことでみんなはっとし、)
よほど威勢のある人とみえ、このひと言でみんなはっとし、
(すなおにそうとうをやめた。)
すなおに争闘をやめた。
(ごろうしょくといわれたそのちゅうねんのさむらいは、ぐっとかれらをにらみつけ、)
御老職といわれたその中年の侍は、ぐっとかれらを睨みつけ、
(すぐにいへえのほうへきた。)
すぐに伊兵衛のほうへ来た。
(「なにだれかはしらないがよくおとめくだすった、)
「何誰かは知らないがよくお止め下すった、
(わたしはとうはんのあおやましゅぜんともうすもの、あつくおれいをもうしあげます」)
私は当藩の青山主膳と申す者、厚くお礼を申上げます」
(「はあ、いやとんでもない」)
「はあ、いやとんでもない」
(もちろんさしあげていたかたなはおろしていたが、)
もちろんさし上げていた刀は下ろしていたが、
(かれはれいによってきょうしゅくし、あかくなった。)
彼は例によって恐縮し、赤くなった。
(「かえってわたしこそしつれいなことをいたしまして、)
「却って私こそ失礼なことを致しまして、
(みなさんをすっかりおこらせてしまいまして」)
みなさんをすっかり怒らせてしまいまして」
(「けっきにはやるばかものども、さぞおしょうしでございましたろう、)
「血気にはやる馬鹿者ども、さぞ御笑止でございましたろう、
(しつれいながらそこもとは」)
失礼ながらそこもとは」
(「はあ、みさわいへえともうしまして、ろうにんものでございまして、)
「はあ、三沢伊兵衛と申しまして、浪人者でございまして、
(むこうのかわへつりにまいったのですが、)
向うの川へ釣りにまいったのですが、
(こちらがあぶないもようだったものですから、ついしらずその、こういうことに」)
こちらが危ないもようだったものですから、つい知らずその、こういうことに」
(「とうちにごたいざいでいらっしゃるか」)
「当地に御滞在でいらっしゃるか」
(「おいわけのまつばやという、いやとんでもない、どうかあれです、)
「追分の松葉屋という、いやとんでもない、どうかあれです、
(わたしのことなどけっしておきになさらないように、ほんのなにしただけですから」)
私のことなど決してお気になさらないように、ほんのなにしただけですから」
(かれはかたなをそこへおき、おじぎをしながらこうたいした。)
彼は刀をそこへ置き、おじぎをしながら後退した。
(「どうかおかまいなく、つまがまっておりますし、)
「どうかお構いなく、妻が待っておりますし、
(かりたつりざおもほうりだしたままですし、しつれいします」)
借りた釣り竿も放りだしたままですし、失礼します」
(そしていそいでそこをさった。)
そしていそいでそこを去った。
(つりざおもびくももとのところにあった。)
釣り竿も魚籠も元の処にあった。
(もうつりをするきにもなれないので、それらをひろいあげると、)
もう釣りをする気にもなれないので、それらを拾いあげると、
(がっかりしたようなきもちできとについた。)
がっかりしたような気持で帰途についた。
(「はたしあいだなんて、あぶないことをするものだ」)
「はたし合いだなんて、危ないことをするものだ」
(あるきながらかれはつぶやいた。)
歩きながら彼は呟いた。
(「おやきょうだい、さいしのいるものもあるだろうに、つまらないいじとか、)
「親兄弟、妻子のいる者もあるだろうに、つまらない意地とか、
(ぶしのめんもくとかいうことでしょう、・・・しかししっぱいだったですなあ、)
武士の面目とかいうことでしょう、・・・しかし失敗だったですなあ、
(あたまのうえへかたなをごほん、りょうてでさしあげて、)
頭の上へ刀を五本、両手でさし上げて、
(あやまりながらにげまわったというのは、われながらあさましい、)
あやまりながら逃げまわったというのは、われながらあさましい、
(しかもそれをみられたのだから、うっ」)
しかもそれを見られたのだから、うっ」
(いへえはくびをちぢめてうめいた。)
伊兵衛は首を縮めて呻いた。
(やどへかえったが、することがなかった。)
宿へ帰ったが、する事がなかった。
(あきないようのがんぐもあまるほどつくってあるし、)
あきない用の玩具も余るほど作ってあるし、
(もっとつくるにしてもざいりょうをかうぜにが(やどちんがあるので)しんぱいだった。)
もっと作るにしても材料を買う銭が(宿賃があるので)心配だった。
(ふかざけをしたよくじつで、しきりにのみたいゆうわくもある、)
深酒をした翌日で、しきりに飲みたい誘惑もある、
(しようがないので、あさひるけんたいのしょくじをしてねてしまった。)
しようがないので、朝昼兼帯の食事をして寝てしまった。
(ねむりのなかでかれはすばらしいゆめをみた。)
眠りのなかで彼はすばらしい夢をみた。
(どこかのはんしゅがけらいをおおぜいつれてきて、)
どこかの藩主が家来を大勢伴れて来て、
(ぜひともめしかかえたいというのである。)
ぜひとも召抱えたいというのである。
(ーーまたきまずいことになりますから。とかれはじたいした。)
ーーまた気まずいことになりますから。と彼は辞退した。
(はんしゅはぜひぜひとゆずらず、しょくろくはせんごくだすといった。)
藩主はぜひぜひと譲らず、食禄は千石だすと云った。
(せんごくとなるとはなしはべつである。)
千石となると話はべつである。
(かれはむねがどきどきし、いよいよじせつがきたかとおもって、)
彼は胸がどきどきし、いよいよ時節が来たかと思って、
(ゆめのようなこうふくなきぶんにみたされた。そのときつまにおこされた。)
夢のような幸福な気分に満たされた。そのとき妻に起こされた。
(「おきゃくさまでございます」)
「お客さまでございます」
(さんどめくらいにかれはめをさました。)
三度めくらいに彼は眼をさました。
(そしてやっぱりゆめだったかと、すくなからずがっかりしたが、)
そしてやっぱり夢だったかと、少なからずがっかりしたが、
(きゃくははんちゅうのさむらいだときいて、こんどははっきりとめがさめた。)
客は藩中の侍だと聞いて、こんどははっきりと眼がさめた。
(「さむらいですって、それは、いやすぐでます、ちょっとかおだけあらって」)
「侍ですって、それは、いやすぐ出ます、ちょっと顔だけ洗って」
(いへえはうらへとびだしていった。)
伊兵衛は裏へとびだしていった。
(きゃくはあのそうげんへうまをのりつけたひとりで、)
客はあの草原へ馬を乗りつけた一人で、
(「ごろうしょくであるぞ」とごうれいをかけたおとこだった。)
「御老職であるぞ」と号令をかけた男だった。
(としはさんじゅうしご、なはうしおだいろくというそうで、)
年は三十四五、名は牛尾大六というそうで、
(このやすやどにはへいこうしたらしく、どまにたったままようけんをのべた。)
この安宿には閉口したらしく、土間に立ったまま用件を述べた。
(ようやくすると、けさのれいにいっさんけんじたいし、またはなしたいこともあるから、)
要約すると、今朝の礼に一盞献じたいし、また話したいこともあるから、
(あおやましゅぜんたくまでぜひきてもらいたい、というのであった。)
青山主膳宅までぜひ来て貰いたい、というのであった。
(いへえはわくわくした。まさゆめかもしれない。)
伊兵衛はわくわくした。正夢かもしれない。
(ぜんちょうということもけいべつはできない。)
前兆ということも軽蔑はできない。
(よければどうどうする、かごがまたしてあるからというので、)
よければ同道する、駕籠が待たしてあるからというので、
(まってもらってしたくをした。)
待って貰って支度をした。
(「どういうごようでございますか、どこでおしりあいになったかたですか」)
「どういう御用でございますか、どこでお知合いになった方ですか」
(おたよはしんぱいそうにきいた。)
おたよは心配そうに訊いた。
(かれはしつぼうさせたくなかったので、くわしいことはかえってはなすといい、)
彼は失望させたくなかったので、詳しいことは帰って話すと云い、
(ふるくはあるがもんつきのいふくにはかまをつけて、ひさかたぶりにだいしょうをさして、)
古くはあるが紋付の衣服に袴をつけて、久方ぶりに大小を差して、
(どうしゅくしゃたちのいぶかしさとうらやましげなめにおくられながら、)
同宿者たちの訝しさと羨しげな眼に送られながら、
(うしおだいろくとともにでていった。)
牛尾大六と共に出ていった。