夢十夜 第六夜 夏目漱石

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「こんな夢を見た。」で始まる10の夢の物語。

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問題文

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(うんけいがごこくじのさんもんでにおうをきざんでいるというひょうばんだから、さんぽながらいって)

運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って

(みると、じぶんよりさきにもうおおぜいあつまって、しきりにげばひょうをやっていた。)

見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。

(さんもんのまえ56けんのところには、おおきなあかまつがあって、そのみきがななめに)

山門の前五六間の所には、大きな赤松があって、その幹が斜めに

(さんもんのいらかをかくして、とおいあおぞらまでのびている。まつのみどりとしゅぬりのもんが)

山門の甍(いらか)を隠して、遠い青空まで伸びている。松の緑と朱塗の門が

(たがいにてりあってみごとにみえる。そのうえまつのいちがよい。もんのひだりのはしをめざわりに)

互いに照り合ってみごとに見える。その上松の位地が好い。門の左の端を眼障に

(ならないように、ななめにきっていって、うえになるほどはばをひろくやねまでつきだして)

ならないように、斜に切って行って、上になるほど幅を広く屋根まで突出して

(いるのがなんとなくこふうである。かまくらじだいともおもわれる。 ところがみている)

いるのが何となく古風である。鎌倉時代とも思われる。  ところが見ている

(ものは、みんなじぶんとおなじく、めいじのにんげんである。そのなかでもしゃふがいちばんおおい。)

ものは、みんな自分と同じく、明治の人間である。その中でも車夫が一番多い。

(つじまちをしてたいくつだからたっているにそういない。 「おおきなもんだなあ」)

辻待をして退屈だから立っているに相違ない。 「大きなもんだなあ」

(といっている。 「にんげんをこしらえるよりもよっぽどほねがおれるだろう」)

と云っている。 「人間を拵えるよりもよっぽど骨が折れるだろう」

(ともいっている。 そうかとおもうと、「へえにおうだね。いまでもにおうを)

とも云っている。  そうかと思うと、「へえ仁王だね。今でも仁王を

(ほるのかね。へえそうかね。わたしゃまたにおうはみんなふるいのばかりかとおもってた」)

彫るのかね。へえそうかね。私ゃまた仁王はみんな古いのばかりかと思ってた」

(といったおとこがある。 「どうもつよそうですね。なんだってえますぜ。むかしからだれが)

と云った男がある。 「どうも強そうですね。なんだってえますぜ。昔から誰が

(つよいって、におうほどつよいひとあないっていいますぜ。なんでもやまとたけるのみことよりも)

強いって、仁王ほど強い人あ無いって云いますぜ。何でも日本武尊よりも

(つよいんだってえからね」とはなしかけたおとこもある。このおとこはしりをはしょって、ぼうしを)

強いんだってえからね」と話しかけた男もある。この男は尻を端折って、帽子を

(かぶらずにいた。よほどむきょういくなおとことみえる。 うんけいはけんぶつにんのひょうばんにはいさい)

被らずにいた。よほど無教育な男と見える。  運慶は見物人の評判には委細

(とんちゃくなくのみとつちをうごかしている。いっこうふりむきもしない。たかいところにのって、)

頓着なく鑿と槌を動かしている。いっこう振り向きもしない。高い所に乗って、

(におうのかおのあたりをしきりにほりぬいていく。 うんけいはあたまにちいさいえぼしのような)

仁王の顔の辺をしきりに彫り抜いて行く。  運慶は頭に小さい烏帽子のような

(ものをのせて、すおうだかなんだかわからないおおきなそでをせなかでくくっている。)

ものを乗せて、素袍だか何だかわからない大きな袖を背中で括っている。

(そのようすがいかにもふるくさい。わいわいいってるけんぶつにんとはまるでつりあいが)

その様子がいかにも古くさい。わいわい云ってる見物人とはまるで釣り合が

など

(とれないようである。じぶんはどうしていまじぶんまでうんけいがいきているのかなと)

取れないようである。自分はどうして今時分まで運慶が生きているのかなと

(おもった。どうもふしぎなことがあるものだとかんがえながら、やはりたってみていた。)

思った。どうも不思議な事があるものだと考えながら、やはり立って見ていた。

(しかしうんけいのほうではふしぎともきたいともとんとかんじえないようすでいっしょうけんめいに)

しかし運慶の方では不思議とも奇体ともとんと感じ得ない様子で一生懸命に

(ほっている。あおむいてこのたいどをながめていたひとりのわかいおとこが、じぶんのほうを)

彫っている。仰向いてこの態度を眺めていた一人の若い男が、自分の方を

(ふりむいて、 「さすがはうんけいだな。がんちゅうにわれわれなしだ。てんかのえいゆうは)

振り向いて、 「さすがは運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄は

(ただにおうとわれとあるのみというたいどだ。あっぱれだ」といってほめだした。)

ただ仁王と我れとあるのみと云う態度だ。天晴れだ」と云って賞め出した。

(じぶんはこのことばをおもしろいとおもった。それでちょっとわかいおとこのほうをみると、)

自分はこの言葉を面白いと思った。それでちょっと若い男の方を見ると、

(わかいおとこは、すかさず、 「あののみとつちのつかいかたをみたまえ。だいじざいのみょうきょうに)

若い男は、すかさず、 「あの鑿と槌の使い方を見たまえ。大自在の妙境に

(たっしている」といった。 うんけいはいまふといまゆをいっすんのたかさによこへほりぬいて、)

達している」と云った。  運慶は今太い眉を一寸の高さに横へ彫り抜いて、

(のみのはをたてにかえすやいなやはすに、うえからつちをうちくだした。かたいきをひときざみに)

鑿の歯を竪に返すや否や斜すに、上から槌を打ち下した。堅い木をひと刻みに

(けずって、あついきくずがつちのこえにおうじてとんだとおもったら、こばなのおっぴらいた)

削って、厚い木屑が槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっ開いた

(いかりばなのそくめんがたちまちうきあがってきた。そのかたなのいれかたがいかにもぶえんりょで)

怒り鼻の側面がたちまち浮き上がって来た。その刀の入れ方がいかにも無遠慮で

(あった。そうしてすこしもぎねんをさしはさんでおらんようにみえた。 「よくああむぞうさ)

あった。そうして少しも疑念を挾んでおらんように見えた。 「よくああ無造作

(にのみをつかって、おもうようなまゆやはなができるものだな」とじぶんはあんまりかんしん)

に鑿を使って、思うような眉や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心

(したからひとりごとのようにいった。するとさっきのわかいおとこが、 「なに、あれはまゆや)

したから独言のように言った。するとさっきの若い男が、 「なに、あれは眉や

(はなをのみでつくるんじゃない。あのとおりのまゆやはながきのなかにうまっているのを、)

鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、

(のみとつちのちからでほりだすまでだ。まるでつちのなかからいしをほりだすようなものだから)

鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだから

(けっしてまちがうはずはない」といった。 じぶんはこのときはじめてちょうこくとは)

けっして間違うはずはない」と云った。  自分はこの時始めて彫刻とは

(そんなものかとおもいだした。はたしてそうならだれにでもできることだとおもいだした)

そんなものかと思い出した。はたしてそうなら誰にでもできる事だと思い出した

(それできゅうにじぶんもにおうがほってみたくなったからけんぶつをやめて)

それで急に自分も仁王が彫ってみたくなったから見物をやめて

(さっそうちへかえった。 どうぐばこからのみとかなづちをもちだして、うらへでて)

さっそく家(うち)へ帰った。  道具箱から鑿と金槌を持ち出して、裏へ出て

(みると、せんだってのぼうふうでたおれたかしを、まきにするつもりで、こびきにひかせた)

見ると、せんだっての暴風で倒れた樫を、薪にするつもりで、木挽に挽かせた

(てごろなやつが、たくさんつんであった。 じぶんはいちばんおおきいのをえらんで、)

手頃な奴が、たくさん積んであった。  自分は一番大きいのを選んで、

(いきおいよくほりはじめてみたが、ふこうにして、におうはみあたらなかった。そのつぎのにも)

勢いよく彫り始めて見たが、不幸にして、仁王は見当らなかった。その次のにも

(うんわるくほりあてることができなかった。さんばんめのにもにおうはいなかった。)

運悪く掘り当てる事ができなかった。三番目のにも仁王はいなかった。

(じぶんはつんであるたきぎをかたっぱしからほってみたが、どれもこれもにおうを)

自分は積んである薪を片っ端から彫って見たが、どれもこれも仁王を

(かくしているのはなかった。ついにめいじのきにはとうていにおうはうまって)

蔵(かく)しているのはなかった。ついに明治の木にはとうてい仁王は埋って

(いないものだとさとった。それでうんけいがきょうまでいきているりゆうもほぼわかった。)

いないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。

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