ああ玉杯に花うけて 第九部 3

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大正時代の少年向け小説!
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(「はやくはじめろ」「なにをぐずぐずしてるんだ」きのみじかいれんちゅうはこえごえにさけんだ、)

「早く始めろ」「なにをぐずぐずしてるんだ」気の短い連中は声々に叫んだ、

(このあふるるごときぐんしゅうをわけてうらわちゅうがくのせんしゅがえいきさっそうとしてじょうないに)

この溢るるごとき群衆をわけて浦和中学の選手が英気さっそうとして場内に

(あらわれた、そろいのぼうしゆにふぉーむ、くつしたはくろとしろのにだんぬき、くつのすぱいくは)

現われた、揃いの帽子ユニフォーム、靴下は黒と白の二段抜き、靴のスパイクは

(ひにかがやき、むねのまーくよこもじのurachuはいかにもなをおもんずるわかき)

日に輝き、胸のマーク横文字の urachu はいかにも名を重んずるわかき

(ぶしのごとくみえた。けんぶつにんははくしゅかっさいした、すねあてとぷろてくたーをつけた)

武士のごとく見えた。見物人は拍手喝采した、すねあてとプロテクターをつけた

(かたはばのひろいこはらは、ますくをわきにはさみ、みっとをさげてせんとうにたった、)

肩幅の広い小原は、マスクをわきにはさみ、ミットをさげて先頭に立った、

(それにつづいてびもくしゅうれいのやなぎこういち、びんしょうらしいてづか、そのたがいっしみだれず)

それにつづいて眉目秀麗の柳光一、敏捷らしい手塚、その他がが一糸みだれず

(しずかにほをはこんでくる。「ばんざあい、うらちゅうばんざい」そうべいは)

しずかに歩を運んでくる。「バンザアイ、浦中万歳」総兵衛は

(ありったけのこえでさけんだ。うらちゅうおうえんたいはおうえんかをうたった、)

ありったけの声で叫んだ。浦中応援隊は応援歌をうたった、

(てにてにもったあかいはたはなみのごとくいっきいちふしてせいちょうりつりょはきちんきちんと)

手に手に持った赤い旗は波のごとく一起一伏して声調律呂はきちんきちんと

(そろう。せんしゅはにゅうじょうするやいなやすぐきゃっちぼーるをはじめた、それがすむと、)

揃う。選手は入場するやいなやすぐキャッチボールを始めた、それがすむと、

(いちどうさっとちってめいめいのしーとしーとにはしった。やがてのっくがはじまった。)

一同さっと散ってめいめいのシートシートに走った。やがてノックが始まった。

(のっかーはけいおうのせんしゅであったやまだというせいねんである、せいかくなのっくは)

ノッカーは慶応の選手であった山田という青年である、正確なノックは

(しきをいっそうきんしゅくさせた、さんるいからいちるいまでのっくしてがいやにおよびまたないやに)

士気を一層緊粛させた、三塁から一塁までノックして外野におよびまた内野に

(およぶまでひとりのかしつもなかった、しだいにこうふんしきたるぎじゅつのはやわざは)

およぶまでひとりの過失もなかった、次第に興奮しきたる技術の早業は

(そのはなやかなふくそうと、いかにもとくいぜんたるかおいろとともにけんぶつにんをあっとうした、)

その花やかな服装と、いかにも得意然たる顔色と共に見物人を圧倒した、

(だぶるぷれー、とりぷるぷれー、そのなかにてづかのできばえはべっして)

ダブルプレー、トリプルプレー、その中に手塚のできばえはべっして

(すばらしかった、かれはどんなごろでもかんぜんにつかんだ、かれはずじょうたかきたまを)

すばらしかった、かれはどんなゴロでも完全につかんだ、かれは頭上高き球を

(じゃんぷしてとった、ひだりがわにうたれたなんきゅうをころんでつかんだ、つかむやいなや)

ジャンプしてとった、左側に打たれた難球を転んでつかんだ、つかむやいなや

(にるいにおくった。そのきびんさ、しゃだつさはさながらかるわざしのごとく)

二塁に送った。その機敏さ、洒脱さはさながら軽業師のごとく

など

(けんぶつにんをよわした。「てづか!てづか!」のこえがなりわたった。)

見物人を酔わした。「手塚! 手塚!」の声が鳴りわたった。

(ちょうどそのときもくもくじゅくのいったいがにゅうじょうした。「きたきたきた」けんぶつにんは)

ちょうどそのとき黙々塾の一隊が入場した。「きたきたきた」見物人は

(たちあがってそのほうをみやった、どうじに「わあっ」というしょうせいがいちどに)

立ちあがってその方を見やった、同時に「わあッ」という笑声が一度に

(おこった。みよ!もくもくじゅくのいったい!それはまーくのついたぼうしもなく)

起こった。見よ! 黙々塾の一隊! それはマークの着いた帽子もなく

(そろいのゆにふぉーむもない、かれらはいちようにてぬぐいではちまきをしていた、)

揃いのユニフォームもない、かれらは一様にてぬぐいで鉢巻きをしていた、

(かれらのきたしゃつにはめりやすもあればねずみいろにふるびたふらんねるもあり、)

かれらのきたシャツにはメリヤスもあればねずみ色に古びたフランネルもあり、

(うでのないじゅばんもあった、かれらはたいていさるまたのうえにへこおびを)

腕のないじゅばんもあった、かれらは大抵さるまたの上にへこ帯を

(きりきりとまき、むすびたまをうしろへたれていた、かれらのはいてるのは)

きりきりと巻き、結び玉を後ろへたれていた、かれらのはいてるのは

(しゃふのごむたびもあればへいたいのふるくつもある。くにんはことごとくちがったふくそう、)

車夫のゴム足袋もあれば兵隊の古靴もある。九人はことごとくちがった服装、

(そのせんとうにこーちゃーのやすばはしちりんのようなくろいかおをしてこけいろになった)

その先頭にコーチャーの安場は七輪のような黒い顔をしてこけ色になった

(いちこうのせいふくせいぼうでどうどうとあるいてくる。いずれをみてもそれはいかにも)

一高の制服制帽で堂々と歩いてくる。いずれを見てもそれはいかにも

(みじめないったいであった、かのはなやかなうらちゅうとたいしょうしてこれはなんという)

みじめな一隊であった、かの花やかな浦中と対照してこれは何という

(きたならしいせんしゅたちだろう、けんぶつにんはたたかわぬうちにしょうはいをしった。)

きたならしい選手達だろう、見物人は戦わぬうちに勝敗を知った。

(「だめだよ、つまらない」もうみかぎりをつけてかえったものもある。)

「だめだよ、つまらない」もう見かぎりをつけて帰ったものもある。

(いちどうはかたならしをやったうえで、さっとしーとについた、やすばはうわぎをぬいで)

一同は肩ならしをやったうえで、さっとシートに着いた、安場は上衣を脱いで

(のっくした。それはなんということだろう。がんらいはれのせんじょうにおけるのっくには)

ノックした。それはなんということだろう。元来晴れの戦場におけるノックには

(いっしゅのひけつがある、それはなんきゅうをうってやらぬことである、だれでも)

一種の秘訣がある、それは難球を打ってやらぬことである、だれでも

(とれるようなたまをうってやればかしつがない、かしつがなければきがおちつく、)

取れるような球を打ってやれば過失がない、過失がなければ気がおちつく、

(とくにしあいになれぬちーむにたいしてはのっかーはよほどかんだいにてごころせねば)

特に試合になれぬチームに対してはノッカーはよほど寛大に手心せねば

(いたずらにせんしゅをあがらしてしまうおそれがある。)

いたずらに選手をあがらしてしまうおそれがある。

(なにをおもったかやすばののっくはしゅんらつをきわめたものであった、)

なにを思ったか安場のノックは峻辣をきわめたものであった、

(なんきゅうまたなんきゅう!だいいちばんにさんるいしゅがみすする、ついでしょーとのあおき、)

難球また難球! 第一番に三塁手がミスする、ついでショートの青木、

(これもみごとにみすする、やりなおす、またみすする、さんど、よんど!)

これもみごとにミスする、やりなおす、またミスする、三度、四度!

(せんぞうはしだいにむねがこどうした、けんぶつにんはくちぐちにののしる。「やあい、とうふや、)

千三は次第に胸が鼓動した、見物人は口々にののしる。「やあい、豆腐屋、

(だめだぞ」ちょうしょうばせいをきくたびにせんぞうはあたまにちがぎゃくじょうして)

だめだぞ」嘲笑罵声を聞くたびに千三は頭に血が逆上して

(めがくらみそうになってきた。かれがちまなこになればなるほど、)

目がくらみそうになってきた。かれが血眼になればなるほど、

(やすばののっくがもうれつになる。やっとたまをつかんだかとおもうといちるいへさんしゃくもたかい)

安場のノックが猛烈になる。やっと球をつかんだかと思うと一塁へ三尺も高い

(たまをほうりつける。けんぶつにんはますますわらう。さんざんなあくばのなかに)

球をほうりつける。見物人はますますわらう。さんざんな悪罵の中に

(のっくはおわった。せんぞうはいくどもいくどもすべったのでからだはどろだらけになった)

ノックはおわった。千三はいくどもいくども滑ったので身体は泥だらけになった

(そのほかのひとびともどうようであった。やがてしんぱんしゃがおごそかにせんこくした。)

その他の人々も同様であった。やがて審判者がおごそかに宣告した。

(「ぷれーぼーる!」うらちゅうはせんこうである。もくもくのとうしゅごだいしゅうははじめて)

「プレーボール!」浦中は先攻である。黙々の投手五大洲ははじめて

(まんなかにたった、かれはじゅうろくさいではあるがしんちょうごしゃくにすん、とうしゅとしては)

まん中にたった、かれは十六歳ではあるが身長五尺二寸、投手としては

(もうしぶんなきたいかくである、かれはてせいのしゃつをきていた、それはしろもめんで)

もうしぶんなき体格である、かれは手製のシャツを着ていた、それは白木綿で

(ははがぬうてくれたのだが、かれはそのむねのところにすみくろぐろとかたかなで)

母が縫うてくれたのだが、かれはその胸のところに墨黒々と片仮名で

(「もくもく」とみぎからひだりにかいた。かれがこれをきたとき、すずめがそれだけは)

「モクモク」と右から左に書いた。かれがこれを着たとき、すずめがそれだけは

(よしてくれといった、かれはがんとしてきかない。「おれはにほんじんだから)

よしてくれといった、かれは頑としてきかない。「おれは日本人だから

(にほんのもじのしるしをかくんだ、けとうのまねなんかしんでもしやしないよ」)

日本の文字のしるしを書くんだ、毛唐のまねなんか死んでもしやしないよ」

(これをきいてもくもくせんせいはかんたんした。「まつした!おまえはいまにえらい)

これをきいて黙々先生は感歎した。「松下! おまえはいまにえらい

(ものになるよ」けんぶつにんはいまかれのむねのかたかなをみていちどにどっとわらった。)

ものになるよ」見物人はいまかれの胸の片仮名を見て一度にどっとわらった。

(「やあい、もくもく」「もくねんじんやあい」「もくべえやあい」)

「やあい、モクモク」「モクネンジンやあい」「モク兵衛やあい」

(だがかれはすこしもひるまなかった、かれのてっぽうのごときそっきゅうはまたたくまに)

だがかれは少しもひるまなかった、かれの鉄砲のごとき速球はまたたく間に

(ふたりをさんしんせしめた、つぎはやなぎこういちである。こういちはぼっくすにたってきっと)

ふたりを三振せしめた、つぎは柳光一である。光一はボックスに立ってきっと

(とうしゅをみやった、かれはそっきゅうにたいしてかくしんがある。せんぞうはしょうがっこうにありしとき)

投手を見やった、かれは速球に対して確信がある。千三は小学校にありしとき

(こういちのくせをよくしっている、かれはこういちがかならずじぶんのほうへうつだろうと)

光一のくせをよく知っている、かれは光一がかならず自分の方へ打つだろうと

(おもった。「うたしてもいいよ」とせんぞうはごだいしゅうにいった。「よしっ」)

思った。「打たしてもいいよ」と千三は五大洲にいった。「よしッ」

(ごだいしゅうはまっすぐなたまをだした。かつぜんとおとがした、けんぶつにんはひやりとした、)

五大洲はまっすぐな球をだした。戞然と音がした、見物人はひやりとした、

(たまははたしてせんぞうにむかった、せんぞうははやくもみぎのほうへよった。「しめたっ」)

球ははたして千三に向かった、千三は早くも右の方へよった。「しめたッ」

(とおもうまもなくかれはあしをすべらした、かっさいのこえがおこった、)

と思う間もなくかれは足をすべらした、喝采の声が起こった、

(たまはいっちょくせんにちゅうけんのほうへころがった。せんぞうのめからなみだがこぼれた。)

球は一直線に中堅の方へ転がった。千三の目から涙がこぼれた。

(こういちははやくもにるいにはしった。つぎのだしゅはてきのしゅしょうこはらである。ほーむらんか)

光一は早くも二塁に走った。つぎの打手は敵の主将小原である。ホームランか

(さんるいか、いずれにしてもいってんはとるだろうとひとびとはおもった、とうしゅごだいしゅうはじっと)

三塁か、いずれにしても一点は取るだろうと人々は思った、投手五大洲はじっと

(うでをくんでほしゅのさいんをみやった。だいいっきゅうはたかめのかーぶであった。ごだいしゅうは)

腕をくんで捕手のサインを見やった。第一球は高目のカーブであった。五大洲は

(そのとおりにたまをなげた。こはらはぼーるをとるだろうとおもいのほか、)

そのとおりに球を投げた。小原はボールを取るだろうと思いのほか、

(かれはおどりあがってそれをうった、たまはしょーとのあたまをはるかにたかくとんだ、)

かれはおどり上がってそれを打った、球はショートの頭をはるかに高く飛んだ、

(せんぞうはうしろにはしった、とたまはのびるかとおもいのほか、とちゅうできれて)

千三はうしろに走った、と球は伸びるかと思いのほか、途中で切れて

(さかおとしにおちた、はっとおもうまもない、こういちはしっぷうのごとくほんるいをおそうた、)

さか落としに落ちた、ハッと思う間もない、光一は疾風のごとく本塁を襲うた、

(せんぞうはあわててほーむになげた、たまはたかくねっとをうった。つぎのだしゃのさんしんで)

千三はあわててホームに投げた、球は高くネットを打った。次の打者の三振で

(わずかにくいとめたものの、だいいっかいにおいてもくもくはいってんをまけた。せんぞうは)

わずかに食い止めたものの、第一回において黙々は一点を負けた。千三は

(かおをあげることができなかった、かれはなくにもなけなかった。)

顔をあげることができなかった、かれはなくにもなけなかった。

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