ああ玉杯に花うけて 第九部 4

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プレイ回数421難易度(4.5) 5188打 長文
大正時代の少年向け小説!
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(ぼんやりべんちへかえるとやすばはにこにこしていた。「おい、だいじょうぶ)

ぼんやりベンチへ帰ると安場はにこにこしていた。「おい、だいじょうぶ

(きょうのしあいはこっちのものだぞ」「ぼくはだめだ」とせんぞうがいった。)

今日の試合はこっちのものだぞ」「ぼくはだめだ」と千三がいった。

(「いやなかなかいい、すてきにいい」とやすばはいった。やなぎがだいやもんどに)

「いやなかなかいい、すてきにいい」と安場はいった。柳がダイヤモンドに

(たったときぐんしゅうはいちどにかっさいした。じっさいやなぎのふうさい、そのおうようなたいどはすでに)

立ったとき群集は一度に喝采した。実際柳の風采、その鷹揚な態度はすでに

(ぐんしゅうをよわした。それにたいしてこはらのごうけんちんきなきう、ふたりのたいしょうは)

群衆を酔わした。それに対して小原の剛健沈毅な気宇、ふたりの対照は

(たまらなくうつくしい。「やなぎ!」「こはら!」このこえとともにがっこうのおうえんかが)

たまらなく美しい。「柳!」「小原!」この声と共に学校の応援歌が

(とどろいた。もくもくのだいいちだしゃはごだいしゅうである。かれはかんかんにおこっていた。)

とどろいた。黙々の第一打者は五大洲である。かれはかんかんにおこっていた。

(かれはあたまのはちまきをかなぐりすてたとき、そのはんぱんたるやけどのあとが)

かれは頭の鉢巻きをかなぐりすてたとき、その斑々たる火傷のあとが

(あらわれたのでけんぶつにんはまたまたかっさいした。やなぎはしずかにてきのしせいをみやった、)

現われたので見物人はまたまた喝采した。柳は静かに敵の姿勢を見やった、

(そうしてうつくしいぼでぃすいんぐをおこした。のびのびとしたししやどうたいの)

そうして美しいボディスイングを起こした。のびのびとした四肢や胴体の

(あざやかさ、さながらえにみるがよう、たまがてをはなれた。ごだいしゅうがばっとを)

あざやかさ、さながら画に見るがよう、球が手をはなれた。五大洲がバットを

(ふったかとみるとたまはさよくのずじょうはるかにとんだ、がいやしゅははしった、ないやしゅも)

ふったかと見ると球は左翼の頭上はるかに飛んだ、外野手は走った、内野手も

(はしった、じんえいそうぜんとみだれた、こはらはあっけにとられてますくをぬぎすてたまま)

走った、陣営騒然とみだれた、小原はあっけに取られてマスクをぬぎ捨てたまま

(ほんるいにたっている。「ほーむいん」ごだいしゅうのいちげきでいってんをかいふくした。このとき)

本塁に立っている。「ホームイン」五大洲の一撃で一点を恢復した。このとき

(さんるいのはいごのまつのえだたかくらっぱのおとがきこえた。ついできちがいじみたこえ!)

三塁の背後の松の枝高くらっぱの音が聞こえた。ついで気違いじみた声!

(「もくもくばんざい!もくもくかったぞ」「ぷうぷうぷうぽうぽうぷう」)

「もくもく万歳! もくもく勝ったぞ」「ぷうぷうぷうぽうぽうぷう」

(らっぱはせんぞうのおじかくへいで、さけんでるのはぜんべえである。このせいえんとともに)

らっぱは千三の伯父覚平で、叫んでるのは善兵衛である。この声援と共に

(ここにおどろくべきせいえんしゃがあらわれた、それはせいふんがいしゃのしょっこうし、ごじゅうめいと、)

ここにおどろくべき声援者が現われた、それは製粉会社の職工四、五十名と、

(もくざいがいしゃそのほかのろうどうしゃ、ひゃくしょう、にんそく、まご!あらゆるひんみんかいきゅうが)

木材会社その他の労働者、百姓、人足、馬夫! あらゆる貧民階級が

(いちどにどっとときのこえをあげた。「もくもくかったかった」これにたいして)

一度にどっとときの声をあげた。「もくもく勝った勝った」これに対して

など

(そうべいははじめははおりをぬぎつぎははだぬぎになりおわりにすっぱだかになって)

総兵衛ははじめは羽織を脱ぎつぎは肌脱ぎになりおわりにすっぱだかになって

(おどりだした。「ふれー、ふれー、うらちゅう!」やきゅうじょうはけんぶつにんとけんぶつにんとの)

おどりだした。「フレー、フレー、浦中!」野球場は見物人と見物人との

(おうえんせんとなった。かいがすすんだ、いちたいいちがにたいにとなり、ごかい、ろくかいに)

応援戦となった。回が進んだ、一対一が二対二となり、五回、六回に

(およんだとき、うらちゅうはごてん、もくもくはさんてんになった。にてんのそうい!)

およんだとき、浦中は五点、黙々は三点になった。二点の相違!

(このままでおしとおすであろうか。せんぞうはかいごとにみすをした、しかもかれは)

このままで押し通すであろうか。千三は回ごとにミスをした、しかもかれは

(さんしんふたつ、ぴーごろひとつをうっただけである。かれはすみにちいさくなって)

三振二つ、ピーゴロ一つを打っただけである。かれはすみに小さくなって

(なみだぐんでいた。かくへいはもうまつのえだにのりながららっぱをふくゆうきもなくなった。)

涙ぐんでいた。覚平はもう松の枝に乗りながららっぱをふく勇気もなくなった。

(「かてないかなあ」とかれはぜんべえにいった。「かてそうもないなあ」と)

「勝てないかなあ」とかれは善兵衛にいった。「勝てそうもないなあ」と

(ぜんべえがいった。すべてのおうえんしゃもちからがぬけてしまった。じっさいやなぎのせいせきは)

善兵衛がいった。すべての応援者も力が抜けてしまった。実際柳の成績は

(おどろくべきものであった、かれのたまはそくりょくにおいてごだいしゅうにおとっているが、)

おどろくべきものであった、かれの球は速力において五大洲におとっているが、

(そのじゅうおうじざいなせいきのたまはかいがかさなるにしたがってねっきをおびてきた、)

その縦横自在な正奇の球は回が重なるにしたがって熱気をおびてきた、

(どうかしてかれがてきにうたれこむときにはこはらがますくをぬいでだいやもんどへ)

どうかしてかれが敵に打たれこむときには小原がマスクをぬいでダイヤモンドへ

(すすんでくる、そうしてこういう。「おい、おれのはなのあなになにかはいってないか)

進んでくる、そうしてこういう。「おい、おれの鼻穴になにかはいってないか

(みてくれ」「なにもないよ」とやなぎはこはらのはなをみていう。「そうか、)

見てくれ」「なにもないよ」と柳は小原の鼻を見ていう。「そうか、

(かにがいっぴきはいってるようなきがするよ」「そんなことがあるもんか」と)

かにが一ぴきはいってるような気がするよ」「そんなことがあるもんか」と

(やなぎはわらいだす。それをみてこはらはまたいう。「ごだいしゅうのあたまにかにを)

柳はわらいだす。それを見て小原はまたいう。「五大洲の頭にかにを

(はわせてやろうか」「なぜだ」「てんかおうこうだ」「はっはっはっ」)

這わせてやろうか」「なぜだ」「天下横行だ」「はッはッはッ」

(これでやなぎのきがしっかりとおちつくのである、やなぎはこはらのろうこうにかんしゃするのは)

これで柳の気がしっかりとおちつくのである、柳は小原の老巧に感謝するのは

(いつもこういうてんにある。やなぎばかりでない、てづかもいろいろなかいぎきょくぎをやって)

いつもこういう点にある。柳ばかりでない、手塚もいろいろな快技曲技をやって

(けんぶつにんをよわした、かれはもっともとくいであった、ふぁいんぷれーをやるたびに)

見物人を酔わした、かれはもっとも得意であった、ファインプレーをやるたびに

(けんぶつにんのほうをみやってびしょうした、ときにはぼうしをぬいでおうえんしゃにおじぎをした。)

見物人の方を見やって微笑した、ときには帽子をぬいで応援者におじぎをした。

(せんぞうはくらいくらいきぶんにおされてだまっていた。かれはこのままこのばを)

千三は暗い暗い気分におされてだまっていた。かれはこのままこの場を

(にげだしたいとおもった。とやすばがにこにこしてきた。「そろそろいいじぶんだよ」)

逃げだしたいと思った。と安場がにこにこしてきた。「そろそろいい時分だよ」

(「なにが?」「らっきーせぶんだ」「ぼくにらっきーはない、だめだ」)

「なにが?」「ラッキーセブンだ」「ぼくにラッキーはない、だめだ」

(「ばかいえ、きみはたしかにかてるのにかたずにいるんだ」「どうして?」)

「ばかいえ、きみはたしかに勝てるのに勝たずにいるんだ」「どうして?」

(「きみはだいじなことをわすれてる」「なにを?だいじなことを?」)

「きみは大事なことをわすれてる」「なにを? 大事なことを?」

(「うむ、せんせいにおそわったことを」せんぞうはじっとかんがえた。「あっ、へそか」)

「うむ、先生に教わったことを」千三はじっと考えた。「あッ、へそか」

(「にんげんがへそをわすれたら、もうおしまいだ」「そうか、うむ、ああへそだ、)

「人間がへそをわすれたら、もうおしまいだ」「そうか、うむ、ああへそだ、

(はっはっはっ」とせんぞうはわらった。「わかったか」やすばはぐっとせんぞうのへそを)

はッはッはッ」と千三はわらった。「わかったか」安場はぐっと千三のへそを

(おした。ふしぎにせんぞうはあたまがすっとかるくなった、むねにつかえたもじゃもじゃした)

押した。ふしぎに千三は頭がすッと軽くなった、胸につかえたもじゃもじゃした

(ものがけむりのごとくきえて、どっしりとはらのそこにおもみができた。「みろ!)

ものが煙のごとく消えて、どっしりと腹の底に重みができた。「見ろ!

(あのてづかてえやつはいまにたいへんなみすをやるぞ、けんぶつにんにほめられること)

あの手塚てえやつはいまに大変なミスをやるぞ、見物人に賞められること

(ばかりをかんがえてるからね」「やる!きっとやる」とせんぞうはいった。)

ばかりを考えてるからね」「やる! きっとやる」と千三はいった。

(このときごだいしゅうはあんだしていちるいをとった、つぎのくらもうはばんとした、てづかは)

このとき五大洲は安打して一塁をとった、つぎのクラモウはバントした、手塚は

(それをとってにるいへなげようかいちるいへなげようかとぎぐしてるうちにそうほうを)

それを取って二塁へ投げようか一塁へ投げようかと疑惧してるうちに双方を

(いかしてしまった。さんばんはせんぞうである。「ぷうぷうぽうぽう」とらっぱが)

生かしてしまった。三番は千三である。「ぷうぷうぽうぽう」とらっぱが

(なった。「あおき!あおき!ふれいふれい」とぜんべえがどなる。)

鳴った。「青木! 青木! フレイフレイ」と善兵衛がどなる。

(「とうふやあ」とてきかたがひやかす。せんぞうはぼっくすにたつまえにばっとをひとふり)

「豆腐屋ア」と敵方がひやかす。千三はボックスに立つ前にバットを一ふり

(ふった、それはせんせいのてせいのこぶこぶだらけのばっとである。かれは)

ふった、それは先生の手製のこぶこぶだらけのバットである。かれは

(ちまなこになってこういちをにらんだ。いままでかれはこういちをみるときいっしゅのよわきを)

血眼になって光一をにらんだ。いままでかれは光一を見るとき一種の弱気を

(かんじたのであった、かれはわがおじがにゅうごくちゅうにうけたやなぎけのこうおんをおもい、)

感じたのであった、かれはわが伯父が入獄中に受けた柳家の高恩を思い、

(わがひんをあわれんでがくしをだしてやろうとしたこういちのゆうじょうをおもうと、かれのたまを)

わが貧をあわれんで学資をだしてやろうとした光一の友情を思うと、かれの球を

(うつきあいがぬけてどうすることもできないのであった。いまかれはせいかに)

打つ気合いが抜けてどうすることもできないのであった。いまかれは臍下に

(きをしずめ、せんせいのばっとをさげてたったとき、はじめてやきゅうのいぎがわかった。)

気をしずめ、先生のバットをさげて立ったとき、初めて野球の意義がわかった。

(しじょうはしじょうである、おんぎはおんぎである、だがやきゅうはせんせいおよびぜんこうのめいよを)

私情は私情である、恩義は恩義である、だが野球は先生および全校の名誉を

(にのうてたたかうのである、しじょうをはなれてこうこうぜんとたたかってこそそれがほんとうの)

荷のうて戦うのである、私情をはなれて公々然と戦ってこそそれが本当の

(やきゅうせいしんである、このばっとはせんせいをだいひょうしたものである、ぼくがうつのでない)

野球精神である、このバットは先生を代表したものである、ぼくが打つのでない

(せんせいがうつのだ。こうおもってこういちのかおをみやるとこういちはびしょうしている、)

先生が打つのだ。こう思って光一の顔を見やると光一は微笑している、

(そのおとこらしいくちもと、じょうひんなめのなかにはこういってるかのごとくみえる。)

その男らしい口元、上品な目の中にはこういってるかのごとく見える。

(「おたがいにぜんりょくをつくしてぎじゅつをたたかわそうじゃないか、まけてもかっても)

「おたがいに全力を尽くして技術を戦わそうじゃないか、負けても勝っても

(いい、てきとなりみかたとなってもよくたたかってこそおたがいのほんもうだ」)

いい、敵となり味方となってもよく戦ってこそおたがいの本望だ」

(せんぞうはたまらなくうれしくなった、かれはぼっくすにたった。それをみて)

千三はたまらなく嬉しくなった、かれはボックスに立った。それを見て

(こういちはおもった。「かわいそうにあおきはきょうはばかにしょげかえっている、)

光一は思った。「かわいそうに青木は今日はばかにしょげかえっている、

(いっぽんぐらいはうたしてやりたいな」だがかれはすぐにかんがえなおした。)

一本ぐらいは打たしてやりたいな」だがかれはすぐに考えなおした。

(「いやいや、ぼくのおなさけのたまをうってよろこぶあおきではない、そんなことは)

「いやいや、ぼくのお情けの球を打って喜ぶ青木ではない、そんなことは

(かえってあおきをぶじょくしかつがっこうとやきゅうどうをぶじょくするものだ」)

かえって青木を侮辱しかつ学校と野球道を侮辱するものだ」

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