菊千代抄 山本周五郎 ③
物心がつきはじめ、女であることに気づくが受け入れられない。
葛藤を抱える日々、衝動的に凄惨な事件を起こしてしまう。
起承転結の「結」が非常に素晴らしい出来。
山本周五郎の隠れた傑作。
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問題文
(じゅっさいくらいになってからだろう、)
十歳くらいになってからだろう、
(まきのちからがおよぎにゆこうときくちよをさそった。)
巻野主税が泳ぎにゆこうと菊千代を誘った。
(そのときはおなぎさわのしもやしきで、かんとくもわりあいゆるやかだった。)
そのときは小名木沢の下屋敷で、監督もわりあいゆるやかだった。
(「おひるねのときぬけだすんですよ」)
「お昼寝のときぬけだすんですよ」
(ちからはそういってすすめた。)
主税はそういってすすめた。
(かれはまきののべっけにあたるおうみのかみやすときのごなんでなかやしきがおなじはまちょうにあり、)
彼は巻野の別家に当る遠江守康時の五男で中屋敷が同じ浜町にあり、
(しもやしきもついし、ごちょうはなれたところにあった。)
下屋敷もつい四、五町はなれた処にあった。
(それでかれだけはつうきんでおあいてにくるのだが、)
それで彼だけは通勤でお相手に来るのだが、
(きゅうそくのひにはいえでとびまわるとみえ、)
休息の日には家でとびまわるとみえ、
(いつもなにかしらめずらしいあそびをおぼえてきてはおしえた。)
いつもなにかしら珍しい遊びを覚えて来ては教えた。
(およぎにさそったのもそのひとつで、かれはすでにいくたびもおなぎがわで、)
泳ぎに誘ったのもその一つで、彼はすでに幾たびも小名木川で、
(ひそかにおよいだことがあるというのであった。)
ひそかに泳いだことがあるというのであった。
(「いいきもちですよ、ながれのはやいときはあぶないけれど、)
「いい気持ですよ、流れの早いときは危ないけれど、
(なんでもありゃしない、こういうぐあいにみずをきってね、すぐおよげますよ」)
なんでもありゃしない、こういうぐあいに水を切ってね、すぐ泳げますよ」
(「みつかったらじいにおこられるからね」)
「みつかったらじいに怒られるからね」
(「そっとぬけだすんですよ、おひるねのときにそっと)
「そっとぬけだすんですよ、お昼寝のときにそっと
(すぐかえってくればわかりやしません、だいじょうぶですよ」)
すぐ帰って来ればわかりやしません、大丈夫ですよ」
(それはかなりつよいゆうわくであった。)
それはかなり強い誘惑であった。
(あおいつめたいみずのふかみや、なみだっているひろいかわのけしきがみえる。)
青い冷たい水の深みや、波立っている広い川の景色がみえる。
(そこへあたまからとびこんで、しぶきをあげておよぎまわる、)
そこへ頭からとびこんで、飛沫をあげて泳ぎまわる、
(いさましくぬきてをきって、じざいにおよぎまわるじぶんのすがたが)
いさましく抜手を切って、自在に泳ぎまわる自分の姿が
(そうぞうされきくちよはむねがどきどきしたくらいであった。)
想像され菊千代は胸がどきどきしたくらいであった。
(ちからのゆうわくにまけて、やしきのそとへぬけだしたのは、)
主税の誘惑に負けて、屋敷の外へぬけだしたのは、
(くもっていてかぜのつよいひであった。)
曇っていて風の強い日であった。
(そのふきんはだいみょうのしもやしきがてんてんとあるほか、)
その付近は大名の下屋敷が点々とあるほか、
(なになにしんでんなどというちめいのおおい、)
なになに新田などという地名の多い、
(まったくのいなかであって、たはたやぬまちや)
まったくの田舎であって、田畑や沼地や
(かぜよけのそりんがうちわたしてみえ、)
風よけの疎林がうちわたして見え、
(はれたひにはつくばさんまではっきりながめられる。)
晴れた日には筑波山まではっきり眺められる。
(たいがんはなだかいてんじんしゃのあるかめいどむらで、)
対岸は名だかい天神社のある亀戸村で、
(そっちにはかなりじんかがみえるが、)
そっちにはかなり人家が見えるが、
(かわとのあいだにははたけやひろいそうげんがあり、)
川とのあいだには畑や広い草原があり、
(こどもたちにはかっこうなあそびばになっていた。)
子供たちには恰好な遊び場になっていた。
(ふたりはかわにそってずっとひがしへいった。)
二人は川に沿ってずっと東へいった。
(おなぎがわがなかがわへおちるところにふなばんしょがある。)
小名木川が中川へおちるところに船番所がある。
(そのすこしてまえまでいって、くりばやしのなかへはいり、)
その少し手前までいって、栗林の中へはいり、
(そこできものをぬぎにかかった。)
そこで着物をぬぎにかかった。
(ちょうどまんちょうとみえて、みずのいっぱいあるかわのなかでは、)
ちょうど満潮とみえて、水のいっぱいある川の中では、
(ふきんのこどもたちがおとこもおんなもすっぱだかで、)
付近の子供たちが男も女もすっ裸で、
(やかましくみずをはねかえしてはさわぎまわっていた。)
やかましく水をはねかえしては騒ぎまわっていた。
(「さあはやくおぬぎなさいよ、どうしたんです」)
「さあ早くおぬぎなさいよ、どうしたんです」
(さきにすばやくはだかになったちからは、こういってせきたてた。)
先にすばやく裸になった主税は、こう云ってせきたてた。
(きくちよはしんじょからぬけだしてきたので、)
菊千代は寝所からぬけだして来たので、
(おびをとけばいいのであった。)
帯を解けばいいのであった。
(そのおびはもうといたのであるが、)
その帯はもう解いたのであるが、
(どうしてもきているものをぬぐことができない。)
どうしても着ている物をぬぐことができない。
(ーーわかさまのは・・・こわれてる。)
ーー若さまのは・・・こわれてる。
(こういうささやきがみみのおくのほうできこえる。)
こういう囁きが耳の奥のほうで聞える。
(そうしていま、かわであばれまわっているこどもたちのすっぱだかのからだをみると、)
そうして今、川で暴れまわっている子供たちの素裸のからだを見ると、
(しゅうちともけんおともはんだんのつかないかんじょうにおそわれ、)
羞恥とも嫌悪とも判断のつかない感情におそわれ、
(きもののまえをしっかりとあわせたままとほうにくれるのであった。)
着物の前をしっかりと合わせたまま途方にくれるのであった。
(そこへひがしたにというわかざむらいとまつおがかけつけてきた。)
そこへ東谷という若侍と松尾が駆けつけて来た。
(それでそのぼうけんはちゅうしになったが、)
それでその冒険は中止になったが、
(そこまでいっておよげなかったくちおしさより、)
そこまでいって泳げなかった口惜しさより、
(はだかにならずにすんだことのほうが、)
裸にならずに済んだことのほうが、
(きくちよにははるかにうれしくすくわれたようなきもちであった。)
菊千代にははるかにうれしく救われたような気持であった。
(はっきりとじしんのからだにちゅういするようになったのは、)
はっきりと自身のからだに注意するようになったのは、
(それからのちのことである。)
それからのちのことである。
(もちろんつねにというわけではない、)
もちろん常にというわけではない、
(ごくときたまのことではあるが、)
ごくときたまのことではあるが、
(ふとするとおなぎがわであそんでいたこどもたちの、)
ふとすると小名木川で遊んでいた子供たちの、
(おとこもおんなもすっぱだかのからだつきが、めにうかぶ、)
男も女も素裸のからだつきが、眼にうかぶ、
(そしてじぶんのからだとのさいを、)
そして自分のからだとの差異を、
(ひそかにじっとおもいくらべるのであった。)
ひそかにじっと思い比べるのであった。
(きくちよはたしかにさいのあることをみとめた。)
菊千代はたしかに差異のあることを認めた。
(それはかなりれきぜんとしたものであったが、)
それはかなり歴然としたものであったが、
(ひのたつにしたがっていんしょうがうすくなり、)
日の経つにしたがって印象が薄くなり、
(かれらのそこがどんなふうであったか、)
かれらのそこがどんなふうであったか、
(じぶんとどのようにちがっていたかはっきりしなくなった。)
自分とどのように違っていたかはっきりしなくなった。
(ちがうのがとうぜんなんだ、かれらはげみんのこどもだし、)
違うのが当然なんだ、かれらは下民の子供だし、
(じぶんははちまんごくのだいみょうのよつぎなのだから、)
自分は八万石の大名の世継ぎなのだから、
(かれらとはすべてがちがうんだ。)
かれらとはすべてが違うんだ。
(こうじぶんでじぶんをなっとくさせた。)
こう自分で自分を納得させた。
(そのとおりだとおもうのだが、)
そのとおりだと思うのだが、
(それでもいっしゅのふあんやしゅうちがしだいにねづよくなり、)
それでも一種の不安や羞恥がしだいに根強くなり、
(そのはんどうのように、ことばつきやどうさがだんだんそぼうになっていった。)
その反動のように、言葉つきや動作がだんだん粗暴になっていった。