菊千代抄 山本周五郎 ④
物心がつきはじめ、女であることに気づくが受け入れられない。
葛藤を抱える日々、衝動的に凄惨な事件を起こしてしまう。
起承転結の「結」が非常に素晴らしい出来。
山本周五郎の隠れた傑作。
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問題文
(そのころはもうまつおはにわへあまりでてこず、)
そのころはもう松尾は庭へあまり出て来ず、
(ひがしたにとかきぬまというわかざむらいがついていた。)
東谷と柿沼という若侍が付いていた。
(ひがしたにのほうはそうでもないが、かきぬまだいしろうはやかましいおとこで、)
東谷のほうはそうでもないが、柿沼大四郎はやかましい男で、
(つまらないことにもよくむきになっておこった。)
つまらない事にもよくむきになって怒った。
(「さようなことをおおせられてはなりません。)
「さような言を仰せられてはなりません。
(それはいやしいことばでございます、)
それは卑しい言葉でございます、
(おやめなさらぬとひぐちさまにもうします」)
おやめなさらぬと樋口さまに申します」
(こんなふうにいって、めをぎょろっとさせて、)
こんなふうに云って、眼をぎょろっとさせて、
(あかくふくれたようなかおになるのであった。)
赤くふくれたような顔になるのであった。
(しばしばひぐちじろうべえにつげぐちもするらしかったが、)
しばしば樋口次郎兵衛に告げ口もするらしかったが、
(じいのこごとはおだやかで、さしたることはないのでこわくはなかった。)
じいの小言は穏やかで、さしたることはないのでこわくはなかった。
(「だまれしぶがき、おまえなんぞだまってついていればいいんだ、なまいきだぞ」)
「黙れしぶ柿、おまえなんぞ黙って付いていればいいんだ、なまいきだぞ」
(きくちよはどなりつけてなぐったりすることもあった。)
菊千代はどなりつけて殴ったりすることもあった。
(けれどもはんざぶろうにちゅういされるばあいだけは、)
けれども半三郎に注意されるばあいだけは、
(ふしぎなくらいにいうことをきいた。)
ふしぎなくらいにいうことをきいた。
(かれはたいていのことはだまってみている、)
彼はたいていのことは黙って見ている、
(たかいきのえだへのぼったりしても、しんぱいそうなめで、)
高い樹の枝へ登ったりしても、心配そうな眼で、
(したからじっとみまもっているが、)
下からじっと見まもっているが、
(かきぬまのようにわめいたりさわいだりしない。)
柿沼のように喚いたり騒いだりしない。
(むしろあとになって、たかいえだへのぼったらすぐにかたあしをこうからめとか、)
むしろあとになって、高い枝へ登ったらすぐに片足をこう絡めとか、
(てはおやゆびをはなしてこうにぎれなどとおしえてくれる。)
手はおやゆびを離してこう握れなどと教えて呉れる。
(そしてよほどめにあまるときだけ、それもあとからそっとちゅういする。)
そしてよほど眼に余るときだけ、それもあとからそっと注意する。
(「いけませんわかさま、あれはおやめください」)
「いけません若さま、あれはおやめ下さい」
(しずかなめでこちらをみて、ひくいこえでそっというのである。)
静かな眼でこちらを見て、低い声でそっというのである。
(それをわすれてきくちよがおなじことをすると、)
それを忘れて菊千代が同じことをすると、
(かれはだまったままかなしげにみつめるのであった。)
彼は黙ったまま悲しげにみつめるのであった。
(そのかなしげなひょうじょうはるいのないもので、)
その悲しげな表情は類のないもので、
(きくちよはなきたいようなきもちになり)
菊千代は泣きたいような気持になり
(けっしてさんどとはおなじあやまちをすることはなかった。)
決して三度とは同じあやまちをすることはなかった。
(きくちよはななさいのとき、えどじょうへあがってしょうぐんにめみをした。)
菊千代は七歳のとき、江戸城へあがって将軍にめみえをした。
(しょうぐんはやせたあおじろいひとで、なにかいってたんとうをくれた。)
将軍は痩せた蒼白い人で、なにか云って短刀を呉れた。
(まわりにはおおぜいのひとがいたこと、)
まわりには大勢の人がいたこと、
(てんじょうがばかげてたかかったことなどをおぼえている。)
天床がばかげて高かったことなどを覚えている。
(そのほかのことはかすみにつつまれたようで、)
そのほかのことは霞に包まれたようで、
(なにもおもいだすことができない。)
なにも思いだすことができない。
(そのとしにいもうとがうまれた。つるこというなで、)
その年に妹が生れた。鶴子という名で、
(せいぼはのちにじしょういんといわれたそくしつである。)
生母はのちに滋松院といわれた側室である。
(このそくしつはつるこのしたにもふたりじょしをうんだ。)
この側室は鶴子の下にも二人女子を生んだ。
(きくちよがじゅうさんさいのときははがなくなった。)
菊千代が十三歳のとき母が亡くなった。
(かみやしきからのきゅうしで、きくちよはいまりんじゅうというところへいった。)
上屋敷からの急使で、菊千代はいま臨終というところへいった。
(にねんほどまえからびょうがしていて、)
二年ほどまえから病臥していて、
(たびたびみまいにもきたが、ははのたいどはいつもれいたんだったし、)
たびたびみまいにも来たが、母の態度はいつも冷淡だったし、
(こちらもあいちゃくがなく、けいしきてきなあいさつをしてはかえったのであるが、)
こちらも愛着がなく、形式的な挨拶をしては帰ったのであるが、
(りんじゅうのときのいんしょうはわすれることができない。)
臨終のときの印象は忘れることができない。
(はははきみのわるいほどあおざめたむくんだようなかおで、)
母はきみの悪いほど蒼ざめたむくんだような顔で、
(くるしそうにあえぎ、きくちよをみると、)
苦しそうにあえぎ、菊千代を見ると、
(ひとみのにごっためをみひらき、こちらへてをさしのばした。)
ひとみの濁った眼をみひらき、こちらへ手をさし伸ばした。
(「どうしたのだ、にぎってあげないのか」)
「どうしたのだ、握ってあげないのか」
(そばにいたちちからせきたてられたので、)
側にいた父からせきたてられたので、
(きくちよはきみのわるいのをがまんして、そのてをおそるおそるにぎった。)
菊千代はきみの悪いのをがまんして、その手をおそるおそる握った。
(するとはははぞっとするほどのちからでこちらのゆびをつかみ、)
すると母はぞっとするほどの力でこちらの指を掴み、
(もっとおおきくめをみはって、ぜいぜいしたこえでいった。)
もっと大きく眼をみはって、ぜいぜいした声で云った。
(「おかわいそうに、きくさま・・・おかわいそうに」)
「お可哀そうに、菊さま・・・お可哀そうに」
(そうしてめからぽろぽろなみだをこぼした。)
そうして眼からぽろぽろ涙をこぼした。
(きくちよはみのちぢまるほどふかいで、いやらしくて、)
菊千代は身の縮まるほど不快で、いやらしくて、
(はやくそこをにげだすことばかりかんがえていた。)
早くそこを逃げだすことばかり考えていた。
(ははのかおなどはみようともせず、)
母の顔などは見ようともせず、
(すみのほうでろうじょたちのすすりあげるこえさえ、)
隅のほうで老女たちの啜りあげる声さえ、
(そらぞらしいとおもったくらいであった。)
そらぞらしいと思ったくらいであった。
(ははのそうぎがおわり、ひつようなきにちがすむまで、)
母の葬儀が終り、必要な忌日が済むまで、
(きくちよはやくみつきあまりかみやしきにいた。)
菊千代は約三月あまり上屋敷にいた。
(このあいだにいもうとたちとかなりしたしくなったが、)
このあいだに妹たちとかなり親しくなったが、
(なついてくるつるこよりも、かくこというみっつのいもうとがすきで、)
なついてくる鶴子よりも、佳玖子という三つの妹が好きで、
(そのことだけいちばんよくあそんだ。)
その子とだけいちばんよく遊んだ。
(つるこ、さだこ、としこまでがじしょういんのこで、)
鶴子、貞子、淑子までが滋松院の子で、
(かくこはそのごまもなくしんだげっしょういんというそくしつのこであった。)
佳玖子はその後まもなく死んだ月照院という側室の子であった。
(もちろんせいぼのちがうことであいじょうのさをつけたわけではない、)
もちろん生母の違うことで愛情の差をつけたわけではない、
(かくこはまるまるとよくこえて、)
佳玖子はまるまるとよく肥えて、
(いつもめをいとのようにしてにこにこわらい、)
いつも眼を糸のようにしてにこにこ笑い、
(おぼつかないかたことでたえずおもしろいことをいう、)
おぼつかない片言で絶えず面白いことをいう、
(それがひじょうにかわいかった。)
それがひじょうに可愛かった。