菊千代抄 山本周五郎 ⑥
物心がつきはじめ、女であることに気づくが受け入れられない。
葛藤を抱える日々、衝動的に凄惨な事件を起こしてしまう。
起承転結の「結」が非常に素晴らしい出来。
山本周五郎の隠れた傑作。
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問題文
(じゅうごさいのとしのばんしゅうのことである。)
十五歳の年の晩秋のことである。
(なかやしきからうまで、むこうじま、かめいどてんじんをまわって、)
中屋敷から馬で、向島、亀戸天神をまわって、
(しもやしきまでとおのりがゆるされた。)
下屋敷まで遠乗りが許された。
(きょりはさしたることはない、)
距離はさしたることはない、
(とおのりなどというほどのものではないが、)
遠乗りなどというほどのものではないが、
(やしきからそとへでることがめずらしく、いさみたってでかけた。)
屋敷から外へ出ることが珍しく、勇み立ってでかけた。
(せんとうがわじまというちゅうろうのさむらい、)
先登が和島という中老の侍、
(きくちよのうしろにたけなかしゅんがくというばじゅつのしはんがつづき、)
菊千代のうしろに竹中春岳という馬術の師範が続き、
(そのあとにがくゆうがごにん、むろんそのなかにははんざぶろうもいた。)
そのあとに学友が五人、むろんそのなかには半三郎もいた。
(むこうじまのもくぼじできゅうそくし、めいじてあったとみえるちゃかをたべてでた。)
向島の木母寺で休息し、命じてあったとみえる茶菓をたべて出た。
(そこからこうめをとおってかめいどへむかったのだが、)
そこから小梅を通って亀戸へ向ったのだが、
(かれのみちへかかったとき、みぎがわにあるたがわのかれあしのしげみから、)
枯野道へかかったとき、右側にある田川の枯芦の繁みから、
(いたちともかわうそともみえるかなりおおきなけものが、)
いたちともかわうそともみえるかなり大きな毛物が、
(とつぜんとびだしてきてみちをよこぎった。)
とつぜんとびだして来て道を横切った。
(これにおどろいたのだろう、せんとうのわじまのうまが)
これに驚いたのだろう、先登の和島の馬が
(たかくいなないてぼうだちになった。)
高くいなないて棒立ちになった。
(わじまはたくみにたづなをさばいてのりしずめたが、)
和島は巧みに手綱を捌いて乗り鎮めたが、
(すぐうしろにいたきくちよのうまはもっときょうがくし、)
すぐうしろにいた菊千代の馬はもっと驚愕し、
(おおきくちょうやくすると、わじまのうまのわきをすりぬけて、)
大きく跳躍すると、和島の馬の脇をすりぬけて、
(くるったようにしっそうしはじめた。)
狂ったように疾走し始めた。
(うしろでなにかさけぶこえがした、だれかおってくるらしい。)
うしろでなにか叫ぶ声がした、誰か追って来るらしい。
(だがきくちよはめのくらむようなきもちで、)
だが菊千代は眼のくらむような気持で、
(たづなをしぼることもくつわをしめることもおもいうかばず、)
手綱を絞ることもくつわを緊めることも思いうかばず、
(いまおちるか、いまか、とただむちゅうではをくいしばっていた。)
いま落ちるか、いまか、とただ夢中で歯をくいしばっていた。
(どのくらいはしったものか、きがつくとたけなかしはんとはんざぶろうとが、)
どのくらい走ったものか、気がつくと竹中師範と半三郎とが、
(さゆうからうまをよせてこちらにき、)
左右から馬を寄せてこちらに来、
(こちらのじょうばをはさむようにして、ひろいそうげんのなかへおいこみ、)
こちらの乗馬を挾むようにして、広い草原のなかへ追いこみ、
(なおくるいいでようとするのを、さゆうからおさえおさえ、)
なお狂い出ようとするのを、左右から抑え抑え、
(そうげんのはしにあるてらのいけがきのところでようやくとめた。)
草原の端にある寺の生垣のところでようやく止めた。
(はんざぶろうはすばやくきてくつわをとりあぶみをおさえた。)
半三郎はすばやく来て轡を取りあぶみを押えた。
(かれはまっさおなひきつったようなかおで、)
彼はまっ蒼なひきつったような顔で、
(あせみずくになり、はげしくあえいでいた。)
汗みずくになり、激しくあえいでいた。
(きくちよはうまからおりると、あしがふらふらし、)
菊千代は馬から下りると、足がふらふらし、
(はきけをかんじたので、そのままかれくさのうえへこしをおろした・・・)
はきけを感じたので、そのまま枯草の上へ腰をおろした・・・
(わじまやしはんがしきりにわびをいい、)
和島や師範がしきりに詫びを云い、
(そこへまたおくれたがくゆうたちがのりつけた。)
そこへまた遅れた学友たちが乗りつけた。
(「もういい、なんでもない」きくちよはうるさくなっててをふった。)
「もういい、なんでもない」 菊千代はうるさくなって手を振った。
(「すこしやすむから、みんなはなれてくれ、はんざぶろうがいればよい」)
「少し休むから、みんな離れて呉れ、半三郎がいればよい」
(みんなはすぐにはうごこうとしなかった。)
みんなはすぐには動こうとしなかった。
(きくちよはかおをあげて、れいのないするどいめでかれらをにらんだ、)
菊千代は顔をあげて、例のない鋭い眼でかれらを睨んだ、
(それでようやくみんなそこをはなれ、)
それでようやくみんなそこを離れ、
(そうげんのなかほどへいって、うまとひととでこちらをかくすようにした。)
草原の中ほどへいって、馬と人とでこちらを隠すようにした。
(きくちよはしっきんしたのである、うまがとまったとたん、)
菊千代は失禁したのである、馬が止ったとたん、
(あたたかいものがかなりたりょうにそこをぬらすのをかんじた。)
温かいものがかなり多量にそこを濡らすのを感じた。
(いまもそれがきみわるくうちもものはだにかんじられるのである。)
今もそれがきみ悪く内腿の肌に感じられるのである。
(「ごきぶんがおわるうございますか」)
「御気分がお悪うございますか」
(「きぶんもわるい、はきそうなきもちだ、しかしこれはおさまるだろう」)
「気分も悪い、はきそうな気持だ、しかしこれはおさまるだろう」
(「おくすりをめしましょうか」)
「お薬をめしましょうか」
(「いやくすりはいらない、だいじょうぶだ」)
「いや薬はいらない、大丈夫だ」
(はやくこのふゆかいなもののしまつをしたい、)
早くこの不愉快なものの始末をしたい、
(そのためにみんなをとおざけたのであるが、)
そのためにみんなを遠ざけたのであるが、
(さてはんざぶろうとふたりきりになると、)
さて半三郎と二人きりになると、
(どういってせつめいしていいかわからず、)
どういって説明していいかわからず、
(とうていくちにすることができないようなきもちになった。)
とうてい口にすることができないような気持になった。
(「ひえるといけません、おしきください」)
「冷えるといけません、お敷き下さい」
(はんざぶろうもどうてんしていたのだろう、)
半三郎も動顛していたのだろう、
(ふときづいてうまのりはおりをぬいだ。)
ふと気づいて馬乗り羽折をぬいだ。
(「いやかまわない、こうしていればいい」)
「いや構わない、こうしていればいい」
(きくちよはおこったようにかおをそむけた。)
菊千代は怒ったように顔をそむけた。
(「すこしこうしていれば、すぐにかえれるから」)
「少しこうしていれば、すぐに帰れるから」
(それをしけばよごれるであろう。)
それを敷けば汚れるであろう。
(はんざぶろうのまえからさえにげだしたくなった。)
半三郎の前からさえ逃げだしたくなった。
(これまではこんなことできをつかったためしもない、)
これまではこんな事で気を遣ったためしもない、
(ごてんにばかりいたせいでもあるが、)
御殿にばかりいたせいでもあるが、
(おかわのふじょうのしまつさえまつおにさせてきた。)
おかわの不浄の始末さえ松尾にさせてきた。
(それがいまはまるでちがう、あんないじょうなできごとがあったのだから、)
それが今はまるで違う、あんな異常な出来事があったのだから、
(そそうをするくらいはさしてきにすることもない、)
そそうをするくらいはさして気にすることもない、
(あっさりいってしまえばいい。)
あっさりいってしまえばいい。
(そうわかっていて、しかしどうにもいいだすことができなかった。)
そうわかっていて、しかしどうにも云いだすことができなかった。