菊千代抄 山本周五郎 ⑨
物心がつきはじめ、女であることに気づくが受け入れられない。
葛藤を抱える日々、衝動的に凄惨な事件を起こしてしまう。
起承転結の「結」が非常に素晴らしい出来。
山本周五郎の隠れた傑作。
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問題文
(それからというものは、きくちよはたえずそのことをおもいつめていた。)
それからというものは、菊千代は絶えずそのことを思い詰めていた。
(どうしてもかれはしななければならない。)
どうしても彼は死ななければならない。
(あのふきんしんなこがぼうげんをくちにしたとき、)
あの不謹慎な子が暴言を口にしたとき、
(はんざぶろうははかまのままとびこんできて、あのこをしかってつきとばし、)
半三郎は袴のままとびこんで来て、あの子を叱って突きとばし、
(じぶんをだくようにしていけからたすけあげた。)
自分を抱くようにして池から助けあげた。
(あのときのかれのたいどには、ひじをまもろうとするむきなものがあった。)
あのときの彼の態度には、秘事を守ろうとするむきなものがあった。
(それいらいずっときょうまでの、にちじょうのこまごましたてん、かれのまなざしやきょそ。)
それ以来ずっと今日までの、日常のこまごました点、彼のまなざしや挙措。
(すべてがそれをしょうめいしているではないか。)
すべてがそれを証明しているではないか。
(いつもかれはじぶんをおんなとしてみ、おんなとしてあつかってきた。)
いつも彼は自分を女として見、女として扱って来た。
(もっともけっていてきなことはとおのりのひのできごとである。)
もっとも決定的なことは遠乗りの日の出来事である。
(きくちよがしっきんだとおもいあやまった、あのちゃくいのよごれをかれはそのめでみた。)
菊千代が失禁だと思い誤った、あの着衣の汚れを彼はその眼で見た。
(まだきくちよじしんがきづかないうち、)
まだ菊千代自身が気づかないうち、
(うしろから、かれはそれをみたのである。)
うしろから、彼はそれを見たのである。
(そのときもらしたかれのひくいさけびも、きくちよのみみにはのこっている。)
そのときもらした彼の低い叫びも、菊千代の耳には残っている。
(いかしてはおけない、どうしても。)
生かしてはおけない、どうしても。
(こうつぶやきながら、ぞっとみをちぢめて、)
こう呟やきながら、ぞっと身を縮めて、
(さらにきくちよはおもいだすのであった。)
さらに菊千代は思いだすのであった。
(かのじょはこれまでつねにはんざぶろうとすもうをとり、じゅうじゅつのけいこをした。)
彼女はこれまで常に半三郎と相撲を取り、柔術の稽古をした。
(かれになげられ、くみあってたおれ、はげしくおさえこまれたとき、)
彼に投げられ、組合って倒れ、激しく押えこまれたとき、
(かのじょはいっしゅのつよいこころよさをかんじた。)
彼女は一種の強い快さを感じた。
(それでこのんでかれひとりをあいてにえらんだ、)
それで好んで彼ひとりを相手に選んだ、
(かれでなければそのこころよさはあじわえなかったから。)
彼でなければその快さは味わえなかったから。
(けれどもそのときはんざぶろうはしっていたのだ。)
けれどもそのとき半三郎は知っていたのだ。
(じぶんがおんなであるということを、)
自分が女であるということを、
(しっていてじぶんをあのようにくみしきぜんしんでおさえこんだのだ。)
知っていて自分をあのように組みしき全身で押えこんだのだ。
(「ああ、あ、どうしよう」きくちよはりょうてでかおをおおってうめく。)
「ああ、あ、どうしよう」 菊千代は両手で顔を掩って呻く。
(それをおもいだすたびごとに、ふんぬとしゅうちとのいりまじった、)
それを思いだすたびごとに、忿怒と羞恥とのいりまじった、
(みをさかれるようなはげしいかんじょうにおそわれ、)
身を裂かれるような烈しい感情におそわれ、
(かおをおおってうめくのであった。)
顔を掩って呻くのであった。
(ちちはあんがいはやくおとうとがうまれるかもしれないといった。)
父は案外はやく弟が生れるかもしれないと云った。
(それにはやはりこんきょがあったものとみえ、)
それにはやはり根拠があったものとみえ、
(としがあけるとまもなくおとこのこがうまれた。)
年があけるとまもなく男の子が生れた。
(せいぼはのちにせいじゅいんといわれたそくしつで、)
生母はのちに清樹院といわれた側室で、
(このひとがさだながのしょうがいよきはんりょとなったのである。)
この人が貞良の生涯よき伴侶となったのである。
(うまれたこはかめちよとなづけられたが、)
生れた子は亀千代と名づけられたが、
(せいちょうしてちちのあとをついだえちごのかみさだおきはかれである。)
成長して父の跡を継いだ越後守貞意は彼である。
(おとうとがうまれたということをきいてから、)
弟が生れたということを聞いてから、
(きくちよはおとことしていきるけっしんがついた。)
菊千代は男として生きる決心がついた。
(そうしてにがつはじめのしゅんかんというにふさわしい、)
そうして二月はじめの春寒というにふさわしい、
(ひどくいてるひのことであったが、)
ひどく凍てる日のことであったが、
(かのじょはなかやしきのしょいんへでてはんざぶろうをよび、ひとばらいをした。)
彼女は中屋敷の書院へ出て半三郎を呼び、人ばらいをした。
(すぎむらはんざぶろうはもうじゅうはっさいで、むろんげんぷくしているし、)
椙村半三郎はもう十八歳で、むろん元服しているし、
(ちょうしんのやせがたではあるが、ほねぐみのたくましいりんとしたせいねんになっていた。)
長身の痩形ではあるが、骨組の逞しい凛とした青年になっていた。
(わずかにすうかげつあわなかっただけであるが、)
僅かに数カ月会わなかっただけであるが、
(きくちよにはみちがえるようなかんじだった。)
菊千代には見ちがえるような感じだった。
(たいかくにくらべてややちいさいとうぶの、ひきしまったおもながなかおに、)
躰格に比べてやや小さい頭部の、ひき緊ったおもながな顔に、
(こいまゆとあいかわらずぬれたようにあかいくちびるとがめをひく。)
濃い眉と相変らず濡れたように赤い唇とが眼をひく。
(きくちよはいきなりかれのむねへとびつきたいようなしょうどうにかられた。)
菊千代はいきなり彼の胸へとびつきたいような衝動にかられた。
(ほとんどみがうきそうになった。)
殆んど身が浮きそうになった。
(しかしそれはたちまちはげしいぞうおにかわり、ひざのうえのてがふるえだした。)
しかしそれはたちまち激しい憎悪に変り、膝の上の手が震えだした。
(「きょうはききたいことがあってよんだのだ、)
「今日はききたいことがあって呼んだのだ、
(いらぬことはもうすにはおよばない。)
いらぬことは申すには及ばない。
(みがきくことにへんじだけすればよい」)
みがきくことに返辞だけすればよい」
(きくちよはできるだけひややかにいった。)
菊千代はできるだけ冷やかにいった。
(「そのほうきくちよがおとこであるか、おんなであるかしっているであろうな」)
「そのほう菊千代が男であるか、女であるか知っているであろうな」
(「おそれながら」)
「おそれながら」
(「へんじだけもうせ、しっているかどうか」)
「返辞だけ申せ、知っているかどうか」
(はんざぶろうはりょうてをついたままだまっていた。)
半三郎は両手をついたまま黙っていた。
(このへやへはいってから、かれはまだいちどもこちらをみない。)
この部屋へはいってから、彼はまだいちどもこちらを見ない。
(あおいほどすんだはくせきのめんをふせ、)
蒼いほど澄んだ白皙の面を伏せ、
(なにかをたえしのぶとでもいうように、かたくくちをひきむすんでいた。)
なにかを耐え忍ぶとでもいうように、固く口をひきむすんでいた。
(「へんじをせぬか、はんざぶろう」きくちよはふるえながらさけんだ、)
「返辞をせぬか、半三郎」菊千代は震えながら叫んだ、
(「そのほうきくちよをじゃくねんとみてあなどるのか」)
「そのほう菊千代を若年とみてあなどるのか」
(「おそれながら、けっしてさような」)
「おそれながら、決してさような」
(「ではもうせ、へんじをきこう」)
「では申せ、返辞を聞こう」
(「おそれながら、そればかりは・・・」)
「おそれながら、そればかりは・・・」
(ほとんどつぶやくようなこえであった。)
殆んど呟くような声であった。
(きくちよはぜんしんのちがひになるようないかりをかんじ、)
菊千代は全身の血が火になるような怒りを感じ、
(われしらずひざがまえへでた。)
われ知らず膝が前へ出た。
(「いえないというのはしっているからだな、)
「いえないというのは知っているからだな、
(はんざぶろう、おもてをあげてきくちよをみよ、)
半三郎、面をあげて菊千代を見よ、
(このめをみるのだ、はんざぶろう、おもてをあげぬか」)
この眼を見るのだ、半三郎、面をあげぬか」
(かれはしずかにかおをあげた。)
彼は静かに顔をあげた。
(きくちよはそのめをいとめるようにみながらいった。)
菊千代はその眼を射止めるように見ながらいった。
(「きくちよがおんなだということを、そのほうしっていたのだな」)
「菊千代が女だということを、そのほう知っていたのだな」
(「ーーはい」)
「ーーはい」
(「めをふせるな、そして、・・・それははじめから、しっていたことだな」)
「眼を伏せるな、そして、・・・それは初めから、知っていたことだな」
(はんざぶろうのめが、しかりとこたえるのをみとめて、)
半三郎の眼が、然りと答えるのを認めて、
(きくちよはいっしゅんふしぎなかんかくにつつまれた。)
菊千代は一瞬ふしぎな感覚に包まれた。
(それはぜつぼうてきなかんきとでもいおうか、)
それは絶望的な歓喜とでもいおうか、
(くつうとかいかんとがふくごうしたしびれるようなかんじのものであった。)
苦痛と快感とが複合した痺れるような感じのものであった。