菊千代抄 山本周五郎 ⑬
物心がつきはじめ、女であることに気づくが受け入れられない。
葛藤を抱える日々、衝動的に凄惨な事件を起こしてしまう。
起承転結の「結」が非常に素晴らしい出来。
山本周五郎の隠れた傑作。
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問題文
(このゆめと、ゆめによっておこったからだのはんのうとが、なにをいみするか。)
この夢と、夢によって起こったからだの反応とが、なにを意味するか。
(おぼろげではあるがきくちよはりかいすることができた。)
おぼろげではあるが菊千代は理解することができた。
(そしてりかいしたせつなにはげしいぜつぼうてきなじこけんおにうちのめされ、)
そして理解した刹那に激しい絶望的な自己嫌悪にうちのめされ、
(しんけいほっさをおこしてなきさけんだ。)
神経発作を起こして泣き叫んだ。
(びょうぶをへだててねていたまつおが、びっくりしてはいってきた。)
屏風を隔てて寝ていた松尾が、びっくりしてはいって来た。
(とのいのまからもさむらいがこようとしたそうである。)
とのいの間からも侍が来ようとしたそうである。
(それほどいじょうなさけびだったのだろう。)
それほど異常な叫びだったのだろう。
(しかしきくちよはまつおさえちかよせなかった。)
しかし菊千代は松尾さえ近寄せなかった。
(「きてはいけない、さがれ、さがっておれ」)
「来てはいけない、さがれ、さがっておれ」
(こうさけんでまつおもしんじょからでてゆかせ、ひとりでてんてんとなき、)
こう叫んで松尾も寝所から出てゆかせ、独りで輾転と泣き、
(うめき、しんぎんしたということであった。)
喚き、呻吟したということであった。
(そのほっさちゅうのこまかいことはよくおぼえがない、)
その発作中のこまかい事はよく覚えがない、
(ただひとにみられてはならないとおもいつづけたことと、)
ただ人に見られてはならないと思い続けたことと、
(そしてつぎのようなこえが、あたまのなかでやすみなしに)
そして次のような声が、頭の中で休みなしに
(きこえていたことはわすれられなかった。)
聞えていたことは忘れられなかった。
(「おまえはおんなだ、おとこではない、おんなだ、)
「おまえは女だ、男ではない、女だ、
(おまえはおんなだ、おんなだ、おとこではない、おんなだ、おんなだ」)
おまえは女だ、女だ、男ではない、女だ、女だ」
(にじゅうごさいになってきくちよはかさまりょうのなかやまのやかたへうつったが、)
二十五歳になって菊千代は嵩間領の中山の屋形へ移ったが、
(しんけいほっさをおこしたひからそれまでのせいかつは、)
神経発作を起こした日からそれまでの生活は、
(すこしこちょうしていうとこうぼうそのものであった。)
少し誇張していうと荒暴そのものであった。
(こじゅうはやじまやいちのほか、つねにじゅうごさいまでのしょうねんしかつかわず、)
扈従は矢島弥市のほか、つねに十五歳までの少年しか使わず、
(じゅうごさいをこえるとすぐにやめさせた。)
十五歳を越えるとすぐにやめさせた。
(なぎなた、けんじゅつなどのけいこにはかれらにあいてをめいじ、)
薙刀、剣術などの稽古にはかれらに相手を命じ、
(こころのたかぶっているときにはよくけがをさせた。)
心の昂っているときにはよくけがをさせた。
(いちどはあいてのしょうねんがおくしているのにいらだって、)
いちどは相手の少年が臆しているのに苛立って、
(そのしょうねんのうでをなぎなたでうちおったことさえあった。)
その少年の腕を薙刀で打ち折ったことさえあった。
(つきにいちどか、ときにはつづけてにどくらい、)
月に一度か、ときには続けて二度くらい、
(あのいまわしいゆめがかのじょをはずかしめた。)
あの忌わしい夢が彼女を辱しめた。
(そしてそのゆめのあとでは、きまっておなじほっさをおこして、)
そしてその夢のあとでは、きまって同じ発作を起こして、
(まわりのものをおどろかした。)
まわりの者を驚かした。
(このままではきがくるってしまう。)
このままでは気が狂ってしまう。
(きくちよはそうおもうようになった。)
菊千代はそう思うようになった。
(どうしてもせいぎょすることのできないしょうどうてきなこういが、)
どうしても制御することのできない衝動的な行為が、
(じぶんでぞっとするほどおそろしかった。)
自分でぞっとするほど怖ろしかった。
(これをつづけてゆけばきょうじんになる、かならずはっきょうするだろうというきがした。)
これを続けてゆけば狂人になる、必ず発狂するだろうという気がした。
(やまへはいってしずかにくらそう。えどにいてもなぐさめはない。)
山へはいって静かにくらそう。江戸にいても慰めはない。
(よすてびとになって、やまへこもってへいあんにせいかつしたい、)
世捨て人になって、山へこもって平安に生活したい、
(そうすることができればすくなくともきょうじんにはならずにすむだろう。)
そうすることができれば少なくとも狂人にはならずに済むだろう。
(それがじぶんにのこされたゆいいつのみちだ。)
それが自分に残された唯一の道だ。
(きくちよはこうこころをきめて、なかやまへうつることをちちにたのんだ。)
菊千代はこう心をきめて、中山へ移ることを父に頼んだ。
(さだながもきくちよのぎょうじょうにはとうわくしていたらしい、)
貞良も菊千代の行状には当惑していたらしい、
(ついぞこごとめいたことはいわなかったが、)
ついぞ小言めいたことはいわなかったが、
(なかやまへゆきたいときくと、しゅうびをひらくといったひょうじょうで、)
中山へゆきたいと聞くと、愁眉をひらくといった表情で、
(それはよかろうとすぐにしょうちしてくれた。)
それはよかろうとすぐに承知して呉れた。
(ばくふへのてつづきでちょっとひまどったが、)
幕府への手続きでちょっと暇取ったが、
(にじゅうごさいのとしのにがつ、きくちよはえどをたってなかやまのやしきへうつった。)
二十五歳の年の二月、菊千代は江戸を立って中山の屋敷へ移った。
(ひぐちじろうべえはろうねんなので、そのときいとまをやり、)
樋口次郎兵衛は老年なので、そのときいとまをやり、
(みぢかのものではまつおとやじまやいちだけをつれていった。)
身ぢかの者では松尾と矢島弥市だけを伴れていった。
(なかやまはかさまのほんじょうからごりばかりはなれたところで、)
中山は嵩間の本城から五里ばかり離れたところで、
(やかたはなだらかなたにかいのおかのうえにあった。)
屋形はなだらかな谷峡の丘の上に在った。
(しきちはごせんつぼばかりだろうか、)
敷地は五千坪ばかりだろうか、
(さんぽうについじべいをめぐらしきたがわはさくになっていて、)
三方に築地塀をめぐらし北側は柵になっていて、
(そのうしろはふかいもりがそのままやまへとつづいている。)
そのうしろは深い森がそのまま山へと続いている。
(もりはおのをいれたこともないように、)
森は斧を入れたこともないように、
(すぎやひのきのおおきなたちがれのきもみえ、)
杉や檜のおおきな立枯れの樹もみえ、
(びっしりとかんぼくがしげって、いつもじめじめしていた。)
びっしりと灌木が繁って、いつもじめじめしていた。
(そこにはきつねやたぬきやしかなどがすんでいるというが、)
そこには狐や狸や鹿などが棲んでいるというが、
(かぜのふきぐあいによって、ふるいまつばのにおいがやかたのなかまでにおってきた。)
風の吹きぐあいによって、古い松葉の匂いが屋形の中まで匂って来た。
(またにわをうきょくしてちいさなながれがつくってあったが)
また庭を迂曲して小さな流れが作ってあったが
(それはすみとおったあまるほどのすいりょうで、)
それは澄み徹った余るほどの水量で、
(いつもあふれるばかりたぷたぷとながれていたが、)
いつも溢れるばかりたぷたぷと流れていたが、
(そのみずはやますそにわき、もりのなかをぬけてくるので、)
その水は山裾に湧き、森の中をぬけて来るので、
(あきになるとしゅじゅさまざまなおちばをながれにのせてはこんできた。)
秋になると種々さまざまな落葉を流れにのせて運んで来た。
(そのなかにはまだきくちよのみたこともないかたちの、)
そのなかにはまだ菊千代の見たこともない形の、
(しかもめのさめるほどうつくしくこうようしたものがたくさんあって、)
しかも眼のさめるほど美しく紅葉したものがたくさんあって、
(はじめのうちはいくしゅるいとなくひろってはあつめたものであった。)
初めのうちは幾種類となく拾っては集めたものであった。
(「きてよかった、ほんとうにきてよかった」)
「来てよかった、本当に来てよかった」
(うつってきてにねんばかりのあいだ、きくちよはおりにふれてそういった。)
移って来て二年ばかりのあいだ、菊千代はおりにふれてそう云った。
(「もっとはやくくればよかった、ここならおちついてくらせる、)
「もっと早く来ればよかった、ここならおちついてくらせる、
(もうけっしてみんなをこまらせるようなことはしないよ」)
もう決してみんなを困らせるようなことはしないよ」
(それはこちょうではなかった。)
それは誇張ではなかった。
(きもちもあかるくさわやかで、)
気持も明るく爽やかで、
(しんけいがとがったりいらだつようなこともないまいにちが)
神経が尖ったり苛立つようなこともない毎日が
(せいしんでのびのびとしていた。)
清新でのびのびとしていた。
(まわりにひとがすくないので、)
まわりに人が少ないので、
(おとこであろうとするたえまないどりょくからほとんどかいほうされ、)
男であろうとする絶間ない努力から殆んど解放され、
(ひさかたぶりでじゆうなじぶんをとりもどしたかんじだった。)
久方ぶりで自由な自分をとりもどした感じだった。