菊千代抄 山本周五郎 ⑰
物心がつきはじめ、女であることに気づくが受け入れられない。
葛藤を抱える日々、衝動的に凄惨な事件を起こしてしまう。
起承転結の「結」が非常に素晴らしい出来。
山本周五郎の隠れた傑作。
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問題文
(ぶけであることはたしかだ。)
武家であることはたしかだ。
(きくちよはそのみぶりをみるたびにそうおもった。)
菊千代はその身ぶりを見るたびにそう思った。
(それもしそうのただしいにんげんにそういない。)
それも志操の正しい人間に相違ない。
(そしてじぶんではなるべくそしらぬかおをして、)
そして自分ではなるべくそ知らぬ顔をして、
(めだたないようにさかなやとりなどをときどきもってゆかせたり、)
めだたないように魚や鳥などをときどき持ってゆかせたり、
(かさまからつきににどずついしゃがくるとたちよって)
嵩間から月に二度ずつ医者が来るとたちよって
(しんさつやとうやくをするようめいじたりした。)
診察や投薬をするよう命じたりした。
(かれがぼうはんのろうしでたておかさんざえもんというなであることや)
彼が某藩の浪士で楯岡三左衛門という名であることや
(ろうがいもとしがとしだから、たぶんこのままかたまるだろうなどということは、)
労咳も年が年だから、たぶんこのままかたまるだろうなどということは、
(みなそのいしゃからきいてしったのである。)
みなその医者から聞いて知ったのである。
(うつってきてよくとしのあき、べっけのまきのちからがとつぜんなかやまへたずねてきた。)
移って来て翌年の秋、別家の巻野主税がとつぜん中山へ訪ねて来た。
(かれはぶくぶくふとって、しゃれたくちひげなどたてて、)
彼はぶくぶく肥って、しゃれた口髭など立てて、
(あさからさけをのみながら、もうよのなかがつまらないから、)
朝から酒を飲みながら、もう世の中がつまらないから、
(いっそえしにでもなろうかとおもうなどといった。)
いっそ絵師にでもなろうかと思うなどといった。
(「こんなことをもうしあげてはあれですが、)
「こんなことを申上げてはあれですが、
(ちょっとわるいおんなにひっかかりましてね、)
ちょっと悪い女にひっかかりましてね、
(わたしもだいぶひどいめにあいましたが、)
私もだいぶひどいめにあいましたが、
(こどもができたなんていいだしたりしましてね、)
子供ができたなんていいだしたりしましてね、
(だれのこだかわかりゃあしないんですが、)
誰の子だかわかりゃあしないんですが、
(それでまあ、そのあれなんです、そのほうのしまつをするあいだ)
それでまあ、そのあれなんです、そのほうの始末をするあいだ
(えどにいないほうがよかろうということで、)
江戸にいないほうがよかろうということで、
(じつはおおあらいのほうめんをまわったりしたんですが、)
実は大洗の方面を廻ったりしたんですが、
(ひょいとこちらのやかたをおもいだしたもんでね、)
ひょいとこちらの屋形を思いだしたもんでね、
(ごしゅうぎだけでももうしあげなければなるまいというわけでさんじょうした、)
御祝儀だけでも申上げなければなるまいというわけで参上した、
(つまりそんなようなことで、じつのところ)
つまりそんなようなことで、実のところ
(もうなってないようなものなんですが、そんなこんなでまあ、)
もうなってないようなものなんですが、そんなこんなでまあ、
(やっぱりえでもかいてゆこうかとおもわざるをえないですよ」)
やっぱり絵でも描いてゆこうかと思わざるを得ないですよ」
(ちからはいつかたいざいした。)
主税は五日滞在した。
(そのあいださけばかりのんで、いかがわしいうたをうたい、)
そのあいだ酒ばかり飲んで、いかがわしい唄をうたい、
(「ここにはいろっぽいこしもとなどいないですか」などとまつおにいったりした。)
「ここには色っぽい腰元などいないですか」などと松尾に云ったりした。
(「これだけのやかたでこしもとがいないというのはさびしいですなあ、)
「これだけの屋形で腰元がいないというのは淋しいですなあ、
(だいいちまだとのさまがひとりみでいるというのがおかしい、)
だいいちまだ殿さまが独り身でいるというのがおかしい、
(わたしはそこはえんりょなくもうしあげるたちですが、)
私はそこは遠慮なく申上げるたちですが、
(おくがたをおむかえにならんとすればですね、)
奥方をお迎えにならんとすればですね、
(もしそうとすればですね、これははっきりいいますけれど、)
もしそうとすればですね、これははっきり云いますけれど、
(やっぱりそこはきれいなのをしごにんおそばへおかなければいけないとおもう、)
やっぱりそこはきれいなのを四五人お側へ置かなければいけないと思う、
(これはしぜんにはんしますよ、わたしはだんじて・・・」)
これは自然に反しますよ、私は断じて・・・」
(ようときたまましんじょへもぐりこみ、めがさめるとすぐにさけである。)
酔うと着たまま寝所へもぐりこみ、眼がさめるとすぐに酒である。
(きくちよはにどばかりあいてになってやっただけで、)
菊千代は二度ばかり相手になってやっただけで、
(あとはかえるまでまつおにまかせきりだった。)
あとは帰るまで松尾に任せきりだった。
(やじまやいちははじめてちからをみるので、)
矢島弥市は初めて主税を見るので、
(そのぼうじゃくぶじんなありさまには、ひどくおどろいたらしい。)
その傍若無人なありさまには、ひどく驚いたらしい。
(けれどもちからのことばにはかんずるところもあったふうで、)
けれども主税の言葉には感ずるところもあったふうで、
(「どうもやはり、これは、さしでがましゅうございますけれども、)
「どうもやはり、これは、差出がましゅうございますけれども、
(これはやはりおくがたをおむかえあそばしませぬと・・・」)
これはやはり奥方をお迎えあそばしませぬと・・・」
(いつものどんかんなちょうしでそういいだした。)
いつもの鈍感な調子でそう云いだした。
(それはちからがさったごろくにちたったあるひ、)
それは主税が去った五六日経った或る日、
(ふたりでおかのうえをあるいているときのことであった。)
二人で丘の上を歩いているときのことであった。
(「おまえのきにすることではない」)
「おまえの気にすることではない」
(きくちよはわきをむいたままひややかにいった。)
菊千代は脇を向いたまま冷やかに云った。
(「それはもうおおせのとおりですが」やいちはもそもそくちごもったが、)
「それはもう仰せのとおりですが」弥市はもそもそ口ごもったが、
(やがてまた、「ごりょうぶんのものなども、)
やがてまた、「御領分の者なども、
(そのことでおうわさをいたしておりまするし」)
そのことでお噂を致しておりまするし」
(「りょうないのものが・・・なにかいっているのか」)
「領内の者が・・・なにか云っているのか」
(「そこはどうしてもげみんのことでございますから、)
「そこはどうしても下民のことでございますから、
(いろいろとぐにもつかぬことを・・・)
いろいろと愚にもつかぬことを・・・
(もちろんごしんぱいもうしあげてのことでございますが」)
もちろん御心配申上げてのことでございますが」
(もうよせとしかりつけようとしたが、きくちよはそのままだまってあるいた。)
もうよせと叱りつけようとしたが、菊千代はそのまま黙って歩いた。
(はっせんごくのたてぬしで、にじゅうろくさいで、)
八千石の館主で、二十六歳で、
(まだけっこんもせずわかいじじょもおかないとすれば、)
まだ結婚もせず若い待女も置かないとすれば、
(りょうないのものたちがふしんにおもうのはとうぜんかもしれない。)
領内の者たちが不審に思うのは当然かもしれない。
(かれらはどんなうわさをしているか。)
かれらはどんな噂をしているか。
(こうかんがえると、およそふせいけつなものがそうぞうされ、)
こう考えると、およそ不清潔なものが想像され、
(ぞっとはだざむくなるかんじだった。)
ぞっと肌寒くなる感じだった。
(そのふゆかいなきもちからにげるように、)
その不愉快な気持から逃げるように、
(ちょうどいつかのみちにさしかかったので、)
ちょうどいつかの道にさしかかったので、
(きくちよはかなりきゅうなほそいさかを、あしばやにたけつぐのいえのほうへおりていった。)
菊千代はかなり急な細い坂を、足ばやに竹次の家のほうへ下りていった。