菊千代抄 山本周五郎 ⑲
物心がつきはじめ、女であることに気づくが受け入れられない。
葛藤を抱える日々、衝動的に凄惨な事件を起こしてしまう。
起承転結の「結」が非常に素晴らしい出来。
山本周五郎の隠れた傑作。
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問題文
(かれがげんたのこやにいるじぶんから、)
彼が源太の小屋にいるじぶんから、
(いちどみのうえをききたいとおもった。)
いちど身の上を聞きたいと思った。
(そればかりでなく、ふとするとかれとなら)
そればかりでなく、ふとすると彼となら
(うちとけたはなしができそうにおもえた。)
うちとけた話ができそうに思えた。
(すじょうをかくして、こんなやまのなかへのがれてきて、)
素姓を隠して、こんな山の中へのがれて来て、
(ひっそりとやまいをやしなっている、たずねてくるものもないらしい、)
ひっそりと病を養っている、訪ねて来る者もないらしい、
(かぞくなどもあるのかないのか。)
家族なども有るのか無いのか。
(そのこどくなすがたにはきくちよときょうつうするものがある、)
その孤独な姿には菊千代と共通するものがある、
(それがこころをひくのであろう。)
それが心をひくのであろう。
(さくのそばでであってからのちも、)
柵の側で出会ってからのちも、
(しばしばやかたのうちそとでみかけることがあった。)
しばしば屋形のうちそとでみかけることがあった。
(きょうはよびかけてやろう。)
今日は呼びかけてやろう。
(そうおもうのであるが、さんざえもんはひどくきょうしゅくするようすで、)
そう思うのであるが、三左衛門はひどく恐縮するようすで、
(いつもこちらをさけるように、ただていとうしてさるのがきまりだった。)
いつもこちらを避けるように、ただ低頭して去るのがきまりだった。
(さんがつになってまもなく、かさまのしろからつかいがあり、ちちがたずねてきた。)
三月になってまもなく、嵩間の城から使いがあり、父が訪ねて来た。
(ともはじゅうにんばかりだったが、かごがいくつもついてきて、)
供は十人ばかりだったが、駕が幾つも付いて来て、
(わかいこしもとがごにんとそのもちものがはこびこまれた。)
若い腰元が五人とその持物が運びこまれた。
(このありさまをみると、きくちよはすぐにべっけのちからをおもいだし、)
このありさまを見ると、菊千代はすぐに別家の主税を思いだし、
(ぶじょくされたようにはらがたった。)
侮辱されたように肚が立った。
(かのじょがちょっかんしたとおりちからは)
彼女が直感したとおり主税は
(かえってこちらのせいかつぶりをちちにはなしたらしく、)
帰ってこちらの生活ぶりを父に話したらしく、
(「あいかわらずそうぼうのようなくらしをしているというではないか、)
「相変らず僧坊のようなくらしをしているというではないか、
(もっときらくにしてはどうだ」)
もっと気楽にしてはどうだ」
(ひさかたぶりのたいめんにちちはすぐこういった。)
久方ぶりの対面に父はすぐこう云った。
(「ちいさくともたてぬしとなれば、これはこれでいちじょうのあるじといえる、)
「小さくとも館主となれば、これはこれで一城のあるじといえる、
(にんげんはそのみぶんにおうじたいきかたをしなければならない、)
人間はその身分に応じた生き方をしなければならない、
(もうすこしかんかつなきもちになって、)
もう少し寛濶な気持になって、
(たのしむことはたのしんでいきなければ・・・)
楽しむことは楽しんで生きなければ・・・
(あとでくやんでもわかいひをとりもどすことはできないぞ」)
あとで悔んでも若い日をとり戻すことはできないぞ」
(きくちよはだまってきいていた。)
菊千代は黙って聞いていた。
(せけんでたのしみといわれていることは、えどでたいていやってみた。)
世間で楽しみといわれている事は、江戸でたいていやってみた。
(けれどもこころからじぶんをなぐさめ、たのしませてくれたものはない。)
けれども心から自分を慰め、楽しませて呉れたものはない。
(なかやまへきたのはいんとんである。)
中山へ来たのは隠遁である。
(よすてびとになるつもりできたのだ。)
世捨て人になるつもりで来たのだ。
(ちちもそれをしっていたはずなのに、いまさらなぜこんなことをいうのか。)
父もそれを知っていた筈なのに、いまさらなぜこんなことをいうのか。
(そういうきもちであった。)
そういう気持であった。
(「つれてきたごにんはそれぞれげいたっしゃだ、)
「伴れて来た五人はそれぞれ芸達者だ、
(なかでもあしやともうすのがきはしもきくし、)
なかでも葦屋と申すのが気はしもきくし、
(またいろいろせけんもしっているのであいてにはおもしろいであろう、)
またいろいろ世間も知っているので相手には面白いであろう、
(まず、ともかくもひろうさせよう」)
まず、ともかくも披露させよう」
(それからしゅえんになった。)
それから酒宴になった。
(こしもとたちはうつくしくけしょうして、きかざって、こと、しゃみせん、ふえ、)
腰元たちは美しく化粧して、着飾って、琴、三味線、笛、
(つづみなどそれぞれのげいをみせ、うたもうたいおどりもおどった。)
鼓などそれぞれの芸をみせ、唄もうたい踊もおどった。
(あしやというのはもうにじゅうにさんであろう、)
葦屋というのはもう二十二三であろう、
(こがらのきりっとしまったからだつきでかおかたちもよく、)
小柄のきりっと緊ったからだつきで顔かたちもよく、
(たちいのどうさもきびきびしていた。)
立ち居の動作もきびきびしていた。
(とくいなのはつづみらしいが、こともふえもたくみである。)
得意なのは鼓らしいが、琴も笛も巧みである。
(そしてほかのよにんをじざいにしきして、)
そしてほかの四人を自在に指揮して、
(しゅえんのせきをたえずあかせないように、ゆきとどいたこころくばりをみせた。)
酒宴の席を絶えず飽かせないように、ゆき届いた心くばりをみせた。
(かさまにそしょうがあってきたので、ひまがないからといいわけのようにことわって、)
嵩間に訴訟があって来たので、暇がないからと云いわけのように断わって、
(ちちはいちやだけとまるとかえっていった。)
父は一夜だけ泊ると帰っていった。
(こしもとたちがきてはつかあまりは、たしかにみのまわりがはなやいで、)
腰元たちが来て二十日あまりは、たしかに身のまわりが華やいで、
(にぎやかでもあるしきがまぎれた。)
賑やかでもあるし気がまぎれた。
(ちちによくいいつけられたとみえ、あしやはほとんどつききりだった。)
父によくいいつけられたとみえ、葦屋はほとんど付ききりだった。
(しょうぶんもよほどびんかんなのだろう、たえずそばにいて、)
性分もよほど敏感なのだろう、絶えず側にいて、
(きくちよののぞむことはたいていさきへさきへとまわってした。)
菊千代の望むことはたいてい先へ先へとまわってした。
(だがきくちよはやがてあきて、つかれてさえきた。)
だが菊千代はやがて飽きて、疲れてさえきた。
(そんなとしごろのむすめたちと、いっしょにくらしたことははじめてで、)
そんな年ごろの娘たちと、いっしょにくらしたことは初めてで、
(うつくしくけしょうをし、きかざったすがたをみると、)
美しく化粧をし、着飾った姿を見ると、
(めずらしくもありめのたのしみでもあった。)
珍しくもあり眼の楽しみでもあった。
(みんなではなしをさせて、ひさしぶりのえどことばで、)
みんなで話をさせて、久しぶりの江戸言葉で、
(ばかげたようなたあいのないはなしをするのについわらったこともある。)
ばかげたようなたあいのない話をするのについ笑ったこともある。
(しかしそれははつかばかりのことであった。)
しかしそれは二十日ばかりのことであった。
(やがてけしょうのこうりょうのつよいにおいが)
やがて化粧の香料のつよい匂いが
(はなにつきわかいからだのなまめいたすがたがめざわりになった。)
鼻につき若いからだのなまめいた姿が眼ざわりになった。
(「やいち、うまをだしてくれ」)
「弥市、馬を出して呉れ」
(かのじょたちがすごろくばんなどをもってくるのをみて、)
彼女たちが双六盤などを持って来るのを見て、
(とつぜんそこをにげだして、はかまもかえずうまで)
とつぜんそこを逃げだして、袴も替えず馬で
(とびだすようなことがしばしばになった。)
とびだすようなことがしばしばになった。
(ゆうげはこざかもりときまったようで、)
ゆうげは小酒宴ときまったようで、
(だまっていればふけるまでひいたりうたったりおどったりする。)
黙っていれば更けるまで弾いたり唄ったり踊ったりする。
(それもうるさくなるばかりで、しかりつけてやめさせるか、)
それもうるさくなるばかりで、叱りつけてやめさせるか、
(さっさとせきをさるようになった。)
さっさと席を去るようになった。
(「これからはむしつけるまでおんぎょくはむようだ、)
「これからは申しつけるまで音曲は無用だ、
(またみのまわりのことはまつおにさせるから、よばぬかぎりはでてこないように」)
また身のまわりのことは松尾にさせるから、呼ばぬ限りは出て来ないように」
(あるひどうにもかんがたったので、あしやにむかってきびしくそういった。)
ある日どうにも癇が立ったので、葦屋に向ってきびしくそういった。
(それはさんがつげじゅんの、ひるからきおんのたかいむしむしするひだった。)
それは三月下旬の、昼から気温の高いむしむしする日だった。
(あしやにそういいわたしたあと、)
葦屋にそういい渡したあと、
(やいちをつれてりょうぶんはずれのほうまであるきまわり、)
弥市を伴れて領分はずれのほうまで歩きまわり、
(さすがにつかれきってかえってきた。)
さすがに疲れきって帰って来た。