菊千代抄 山本周五郎 ㉒

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武家の因習で男として育てられた娘の話。
自分は男であると疑わず育った菊千代。
物心がつきはじめ、女であることに気づくが受け入れられない。
葛藤を抱える日々、衝動的に凄惨な事件を起こしてしまう。
起承転結の「結」が非常に素晴らしい出来。
山本周五郎の隠れた傑作。

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問題文

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(じこくがじこくだし、またきくちよが)

時刻が時刻だし、また菊千代が

(らんぼうするのではないかとしんぱいしたのだろう、)

乱暴するのではないかと心配したのだろう、

(まつおはよるがあけてからにするようにとなだめた。)

松尾は夜が明けてからにするようにとなだめた。

(しかしけっきょくさからってはかえってわるいとかんがえたようすで、)

しかし結局さからっては却って悪いと考えたようすで、

(てしょくにひをうつしてでていった。)

手燭に火を移して出ていった。

(かなりまった。そしてさんざえもんがきた。)

かなり待った。そして三左衛門が来た。

(きがえをし、はかまをはいていた。)

着替えをし、袴をはいていた。

(きくちよがやぐのうえにおきなおると、)

菊千代が夜具の上に起きなおると、

(まつおがせへふすまをかけ、かみへくしをいれた。)

松尾が背へふすまを掛け、髪へ櫛を入れた。

(「おまえはさがってくれ」)

「おまえはさがって呉れ」

(こういってまつおをとおざけてから、きくちよはさんざえもんのほうをみた。)

こう云って松尾を遠ざけてから、菊千代は三左衛門のほうを見た。

(かれはずっとはなれててをつき、あたまをたれていた。)

彼はずっと離れて手をつき、頭を垂れていた。

(「ひさかたぶりであった、すぎむらはんざぶろう、ちこう」)

「久方ぶりであった、椙村半三郎、近う」

(かれはあたまをたれたまま、こきゅういつつばかりして、)

彼は頭を垂れたまま、呼吸五つばかりして、

(それからひざでこちらへすすみでた・・・)

それから膝でこちらへ進み出た・・・

(いたましくとがったかた、やせているたいく。)

いたましく尖った肩、痩せている躰躯。

(たをへだててあいさつをしたすがたがみえる、)

田を隔てて挨拶をした姿がみえる、

(まきをわっているときのおちついたみぶり、)

薪を割っているときのおちついた身ぶり、

(やかたへうつってからはじめてもりのさくのところでみた)

屋形へ移ってから初めて森の柵のところで見た

(かたをかがめたようなうしろすがた。)

肩をかがめたようなうしろ姿。

など

(それはやまいとしんろうのためにへんぼうしているが)

それは病と辛労のために変貌しているが

(まぎれもなくはんざぶろうのいんしょうとあうものだ。)

紛れもなく半三郎の印象と合うものだ。

(げんにいま、めのまえにかれをみて)

現に今、眼の前に彼を見て

(そのあまりにまぎれのないことがはげしくきくちよをうった。)

そのあまりに紛れのないことが烈しく菊千代を打った。

(「どうしてここへきた。はんざぶろう、ちちうえのおいいつけか」)

「どうして此処へ来た。半三郎、父上のお云いつけか」

(「わたしのいちぞんでございます」「なんのために」)

「私の一存でございます」 「なんのために」

(はんざぶろうはまたあたまをたれ、りょうてをついていた。)

半三郎はまた頭を垂れ、両手をついていた。

(きくちよはのどもとへなにかこみあげてくる、)

菊千代は喉もとへなにかこみあげてくる、

(もどかしいようなせつないような、)

もどかしいようなせつないような、

(まだけいけんしたことのないかんじょうでむねがいっぱいになった。)

まだ経験したことのない感情で胸がいっぱいになった。

(「はんざぶろうはむかしはなにもいわなかった、じぶんのいいたいことも、)

「半三郎は昔はなにも云わなかった、自分の云いたいことも、

(いわなければならないことも、くちにはださないで、)

云わなければならないことも、口には出さないで、

(だまっていたけれどもこよいはいわなければいけない、)

黙っていたけれども今宵はいわなければいけない、

(ほんとうのことを、のこらずはなさなければいけない」)

本当のことを、残らず話さなければいけない」

(きくちよはちょっとことばをきり、)

菊千代はちょっと言葉を切り、

(たかぶってくるきもちをおさえるようにふかくいきをついた。)

昂ぶってくる気持を抑えるように深く息をついた。

(「どうして、ここへきた、はんざぶろう、)

「どうして、此処へ来た、半三郎、

(あのときのことをひとたちうらむためにか」)

あのときのことをひと太刀うらむためにか」

(はんざぶろうはやはりかおをふせ、てをついたままでいなというどうさをみせた。)

半三郎はやはり顔を伏せ、手をついたままで否という動作をみせた。

(ないていたのか、なくのをこらえていたものか、)

泣いていたのか、泣くのを堪えていたものか、

(ひくいしゃがれたこえで、とぎれとぎれにこたえた。)

低いしゃがれた声で、とぎれとぎれに答えた。

(「わたしをおさしあそばしたときの、わかぎみのおこころのうちは、)

「私をお刺しあそばしたときの、若君のお心の内は、

(わたしにはよくわかっておりました、おうらみもうす・・・)

私にはよくわかっておりました、お恨み申す・・・

(いいえ、はんざぶろうはあのとき、よろこんでおてにかかりました、)

いいえ、半三郎はあのとき、よろこんでお手にかかりました、

(おうらみもうすどころではございません、よろこんで・・・)

お恨み申すどころではございません、よろこんで・・・

(それがとうぜんのことでございましたから」)

それが当然のことでございましたから」

(「それは、しっていたからといういみか」)

「それは、知っていたからという意味か」

(「はじめから、ごてんにあがりますときから、ぞんじておりました」)

「初めから、御殿にあがりますときから、存じておりました」

(はんざぶろうはいっそうこえをひくめた、)

半三郎はいっそう声を低めた、

(「おあいてにあがりますまえ、ちちがひじであるよしをひそかにつげ、)

「お相手にあがりますまえ、父が秘事である由をひそかに告げ、

(おそばへあがったらよくよくちゅういして、わかぎみのおこころをみださぬよう、)

お側へあがったらよくよく注意して、若君のお心をみださぬよう、

(ひじのためにおこころをいためることのないようにと)

秘事のためにお心を傷めることのないようにと

(くりかえしきびしくもうしつかりました、)

繰り返しきびしく申しつかりました、

(ごてんにあがったのはななさいのときでございます、)

御殿にあがったのは七歳のときでございます、

(おそばにつかえてねんねんとごせいちょうあそばすおすがたをはいけんしながら、)

お側に仕えて年々と御成長あそばすお姿を拝見しながら、

(わたしはおそれながら・・・」)

私はおそれながら・・・」

(「いってくれ、えんりょはいらない、)

「云って呉れ、遠慮はいらない、

(かまわずなにもかもすっかりはなしてくれ」)

構わずなにもかもすっかり話して呉れ」

(「もうしてはならぬことでございますが」)

「申してはならぬことでございますが」

(「いやききたい、なにもかものこらずききたいのだ」)

「いや聞きたい、なにもかも残らず聞きたいのだ」

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