異妖編「龍を見た話」1 岡本綺堂

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江戸時代の怪異談
「K君はこの座中で第一の年長者であるだけに、江戸時代の怪異談をたくさんに知っていて、それからそれへと立て続けに五、六題の講話があった。そのなかで特殊のもの三題を選んで左に紹介する。」

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問題文

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(ここにはまた、りゅうをみたためにみをほろぼしたというひとがある。それはえどに)

ここにはまた、龍をみたために身をほろぼしたという人がある。それは江戸に

(おおじしんのあったよくねんで、あんせい3ねん8がつ25にち、えどにはすさまじいぼうふううが)

大地震のあった翌年で、安政三年八月二十五日、江戸には凄まじい暴風雨が

(しゅうらいして、しんさいごようやくほんぶしんのできあがったもの、まだかりふしんのままで)

襲来して、震災後ようやく本普請の出来あがったもの、まだ仮普請のままで

(あるもの、それらのいえいえのやねはたいていふきめくられ、ふきとばされてしまった。)

あるもの、それらの家々の屋根は大抵吹きめくられ、吹き飛ばされてしまった。

(そのうえにつなみのようなたかなみがうちよせてきて、しながわやふかがわのおきにかかっていた)

その上に津波のような高波が打寄せて来て、品川や深川の沖にかかっていた

(おおぶねこぶねはことごとくはまべにうちあげられた。ほんしょ、ふかがわにはしゅっすいして、)

大船小舟はことごとく浜辺に打揚げられた。本所、深川には出水して、

(おしながされたいえもあった。できししたものもあった。きょねんのじしんといい、ことしの)

押流された家もあった。溺死した者もあった。去年の地震といい、ことしの

(あらしといい、えどのひとびともずいぶんざんこくにたたられたといってよい。)

風雨(あらし)といい、江戸の人々もずいぶん残酷に祟られたといってよい。

(そのぼうふううのもっとももうれつをきわめている25にちのよるのよっつ(ごご10じ)すぎ)

その暴風雨の最も猛烈をきわめている二十五日の夜の四つ(午後十時)過ぎ

(である。しもやおかちまちにすんでいるもろずみいしろうというおかちぐみのさむらいが、)

である。下谷御徒町に住んでいる諸住伊四郎という御徒士組の侍が、

(よんどころないようむきのかえりみちににほんばしのはまちょうがしをとおった。 かれはこの)

よんどころない用向きの帰り路に日本橋の浜町河岸を通った。  彼はこの

(ぼうふううをおかして、しかもよふけになぜこんなところをあるいていたかというと、)

暴風雨を冒して、しかも夜ふけになぜこんなところを歩いていたかというと、

(しんおおばしのたもとにあるまつだいらさがみのかみのしもやしきにじぶんのおばがたねんつとめていて、それが)

新大橋の袂にある松平相模守の下屋敷に自分の叔母が多年つとめていて、それが

(きゅうびょうにかかったというつうちをきょうのゆうこくにうけとったので、いしろうはとりあえず)

急病にかかったという通知をきょうの夕刻に受取ったので、伊四郎は取りあえず

(そのみまいにかけつけたのである。おばはなにかのしょくあたりであったらしく、)

その見舞に駈け付けたのである。叔母はなにかの食あたりであったらしく、

(いっときはひどくとしゃしてくるしんだ。なにぶんろうねんのことでもあるので、やしきのものも)

一時はひどく吐瀉して苦しんだ。なにぶん老年のことでもあるので、屋敷の者も

(しんぱいして、さっそくにおいのいしろうのところへしらせてやったのであったが、)

心配して、早速に甥の伊四郎のところへ知らせてやったのであったが、

(おもいのほかにはやくなおって、いしろうがかけつけたころにはもうやすらかにゆかのうえに)

思いのほかに早く癒って、伊四郎が駈け付けた頃にはもう安らかに床の上に

(よこたわっていた。きゅうげきのとしゃでもちろんひろうしているが、もうしんぱいすることは)

横たわっていた。急激の吐瀉でもちろん疲労しているが、もう心配することは

(ないといしゃはいった。へいぜいがたっしゃなたちであるのでおばもげんきよくくちをきいて、)

ないと医者はいった。平生が達者な質であるので叔母も元気よく口をきいて、

など

(さっそくみまいにきてくれたれいをいったりしていた。いしろうもまずあんしんした。)

早速見舞に来てくれた礼を言ったりしていた。伊四郎もまず安心した。

(しかしわざわざでむいてきたのであるから、すぐにかえるというわけにも)

しかしわざわざ出向いて来たのであるから、すぐに帰るというわけにも

(いかないので、びょうにんのまくらもとでしばらくはなしているうちに、あめもかぜもはげしくなって)

いかないので、病人の枕もとで暫く話しているうちに、雨も風も烈しくなって

(きた。そのうちにはこやみになるだろうとまっていたが、よるのふけるにつれて)

来た。そのうちには小歇みになるだろうと待っていたが、夜のふけるにつれて

(いよいよつよくなるらしいので、いしろうもおもいきってでることにした。おばは)

いよいよ強くなるらしいので、伊四郎も思い切って出ることにした。叔母は

(いっそとまっていけといったが、よそのやしきのやっかいになるのもこころぐるしいのと、)

いっそ泊って行けと言ったが、よその屋敷の厄介になるのも心苦しいのと、

(このふううではじぶんのいえのこともなんだかあんじられるのとで、いしろうはことわって)

この風雨では自分の家のことも何だか案じられるのとで、伊四郎は断って

(そこをでた。 でてみると、うちでおもっていたよりもさらにはげしいふううであった。)

そこを出た。  出てみると、内で思っていたよりも更に烈しい風雨であった。

(とてもひととおりのことではあるかれないとかくごして、いしろうはたびをぬいで、)

とても一と通りのことでは歩かれないと覚悟して、伊四郎は足袋をぬいで、

(はかまのももだちをたかくとって、すあしになった。かさなどはしょせんなんのやくにも)

袴の股立ちを高く取って、素足になった。傘などは所詮なんの役にも

(たたないので、かれはてぬぐいでほおかむりをして、かたてにかさとげたをさげた。)

たたないので、彼は手拭で頬かむりをして、片手に傘と下駄をさげた。

(せめてちょうちんだけはうまくほごしていこうとおもったのであるが、それも5、6けん)

せめて提灯だけはうまく保護して行こうと思ったのであるが、それも五、六間

(あるくうちにふきけされてしまったので、かれはまっくらなふううのなかをきたへきたへと)

あるくうちに吹き消されてしまったので、彼は真っ暗な風雨のなかを北へ北へと

(いそいでいった。 いまとちがって、そのとうじここらはやしきつづきであるので、)

急いで行った。  今と違って、その当時ここらは屋敷つづきであるので、

(どこのながやまどもみなとじられて、あかりのひかりなどはちっとももれていなかった。)

どこの長屋窓もみな閉じられて、灯のひかりなどはちっとも洩れていなかった。

(かたがわはぶけやしき、かたがわはおおかわであるから、もしこのぼうふううにふきやられてかわの)

片側は武家屋敷、片側は大川であるから、もしこの暴風雨に吹きやられて川の

(なかへでもすべりこんだらたいへんであると、いしろうはなるべくやしきのがわにそうて)

なかへでも滑り込んだら大変であると、伊四郎はなるべく屋敷の側に沿うて

(いくと、ときどきにおおきいやねがわらががらがらくずれおちてくるので、かれはまた)

行くと、時どきに大きい屋根瓦ががらがらくずれ落ちてくるので、彼はまた

(おびやかされた。かぜはとうなんで、かれにとってはおいかぜであるのがせめてものしあわせ)

おびやかされた。風は東南で、彼にとっては追い風であるのがせめてもの仕合せ

(であったが、ふかれて、ふきやられて、ややもすればふきとばされそうに)

であったが、吹かれて、吹きやられて、ややもすれば吹き飛ばされそうに

(なるのを、かれはからくもふみこたえながらあるいた。たきのようにそそぎかかるあめを)

なるのを、彼は辛くも踏みこたえながら歩いた。滝のようにそそぎかかる雨を

(あびて、かれはほねまでもぬれるかとおもった。そのあめにまじって、このはやきのえだは)

浴びて、彼は骨までも濡れるかと思った。その雨にまじって、木の葉や木の枝は

(もちろん、こいしやたけぎれやすだれやしょうぎや、おもいもつかないものまでがとんでくるので、)

勿論、小石や竹切れや簾や床几や、思いも付かないものまでが飛んでくるので、

(かれはじぶんのからだがふきとばされるいがいに、どこからともなしにふきとばされて)

彼は自分のからだが吹き飛ばされる以外に、どこからともなしに吹き飛ばされて

(くるものをもふせがなければならなかった。 「こうとしったら、いっそとめて)

くる物をも防がなければならなかった。 「こうと知ったら、いっそ泊めて

(もらえばよかった。」と、かれはいまさらにこうかいした。 さりとてふたたびひっかえすのも)

もらえばよかった。」と、彼は今更に後悔した。  さりとて再び引っ返すのも

(なんぎであるので、いしろうはもろもろのきけんをおかしていっしょうけんめいにあるいた。そうして)

難儀であるので、伊四郎はもろもろの危険を冒して一生懸命に歩いた。そうして

(ともかくもいっちょうあまりもいきすぎたとおもうときに、かれはふとなにかひかるものを)

ともかくも一町あまりも行き過ぎたと思うときに、彼はふと何か光るものを

(みた。おおかわのみずはくらくにごっているが、それでもいくらかのみずあかりできしにそうた)

みた。大川の水は暗く濁っているが、それでもいくらかの水あかりで岸に沿うた

(ところはぼんやりとうすあかるくみえる。そのみずあかりをたよりにして、かれはそのひかる)

ところはぼんやりと薄明るく見える。その水あかりを頼りにして、彼はその光る

(ものをすかしてみると、それはちをはっているもののふたつのめであった。)

ものを透かしてみると、それは地を這っているものの二つの眼であった。

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