契りきぬ 山本周五郎 ②
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問題文
(おんなたちはなおしきりに、そのごにんづれのさむらいきゃくのうわさをつづけた。)
女たちはなおしきりに、その五人づれの侍客の噂を続けた。
(かれらはきぬまきなにがしという、ふとったわかものをちゅうしんに、)
かれらは衣巻なにがしという、肥った若者を中心に、
(いつもおなじかおぶれでやってくる。)
いつも同じ顔ぶれでやって来る。
(おなつはいちどしかそのざしきへでないが、)
おなつはいちどしかその座敷へ出ないが、
(ごにんともひんのいいわかもので、)
五人とも品のいい若者で、
(こんなところのおんなだからといってみくだすふうもなく、)
こんなところの女だからといってみくだすふうもなく、
(むしろおもしろそうにのんであそんで、)
むしろ面白そうに飲んで遊んで、
(ときにはかなりたがくなかねをおいてゆくということであった。)
ときにはかなり多額な金を置いてゆくということであった。
(「でもきたはらってひとだけはべつだわね」)
「でも北原ってひとだけはべつだわね」
(「あのひとおんなぎらいなんですってよ」)
「あのひと女嫌いなんですってよ」
(「わらわしちゃいけないよ」おきくがはなでせせらわらいをした。)
「笑わしちゃいけないよ」お菊が鼻でせせら笑いをした。
(「おとこでいておんながきらいならかたわものさ、)
「男でいて女が嫌いなら片輪者さ、
(いまはまあかたそうにすましてるけど、むっつりなんとかって、)
今はまあ堅そうに澄ましてるけど、むっつりなんとかって、
(あんなのがいちどあじをおぼえたらたいへんなんだから」)
あんなのがいちど味を覚えたらたいへんなんだから」
(「じゃあおきくさんくどいたらどう」)
「じゃあお菊さんくどいたらどう」
(「だめよ、おきくさんふられちゃったのよ」)
「だめよ、お菊さん振られちゃったのよ」
(「なにさ、そういうおまえだって」)
「なにさ、そういうおまえだって」
(きゃあとさけびごえがあがって、またたたいたりおしたりして、)
きゃあと叫びごえがあがって、また叩いたり押したりして、
(みだらなことばをなげあった。)
みだらな言葉を投げあった。
(かのじょたちはそれぞれで、きたはらせいのすけというそのさむらいを、)
彼女たちはそれぞれで、北原精之助というその侍を、
(ひそかにじぶんのきゃくにしようとこころみたらしい。)
ひそかに自分の客にしようと試みたらしい。
(もっともきりょうのわるいおぎんというおんなまで、)
最もきりょうのわるいお銀という女まで、
(あたしもよといいだしたので、)
あたしもよと云いだしたので、
(みんなはまたはじけるようにわらいくずれた。)
みんなはまたはじけるように笑い崩れた。
(「よし、こうなったらいじだわ、)
「よし、こうなったら意地だわ、
(なんとかしてあのひとをきゃくにしようじゃないの、)
なんとかしてあのひとを客にしようじゃないの、
(もしくどきおとしたら、そうだね、みんなでかねをあつめてさ、)
もしくどきおとしたら、そうだね、みんなで金を集めてさ、
(それをそのくどきおとしたものにやることにしようじゃないの」)
それをそのくどきおとした者にやることにしようじゃないの」
(「それあいいわ、やりましょう、)
「それあいいわ、やりましょう、
(そういうはげみがつけばうでによりをかけて」)
そういう励みがつけば腕によりをかけて」
(「まあまってよ、はげみをつけるにはかねだかによるわよ、)
「まあ待ってよ、励みをつけるには金だかによるわよ、
(いったいいくらくらいあつめるの」)
いったい幾らくらい集めるの」
(「なにしろうちとしちゃごくじょうとびきりのおきゃくなんだから、)
「なにしろうちとしちゃ極上とびきりのお客なんだから、
(かあさんにものってもらって、そうね、まあごりょうってところかしらね」)
かあさんにも乗って貰って、そうね、まあ五両ってところかしらね」
(さあしめた。それうそじゃないわね。すぐかあさんにはなしてよ。)
さあしめた。それ嘘じゃないわね。すぐかあさんに話してよ。
(だいじょうぶ、あいてがあいてだからきっとかあさんものるわ、)
大丈夫、相手が相手だからきっとかあさんも乗るわ、
(それっぽっちすぐとりかえせるんだもの。)
それっぽっちすぐ取り返せるんだもの。
(じゃかあさんにみんなださせちまえ。)
じゃかあさんにみんな出させちまえ。
(そんなさわぎがしだいにとおくなり、)
そんな騒ぎがしだいに遠くなり、
(おなつはまたいつかおもくるしいねむりにひきこまれた。)
おなつはまたいつか重苦しい眠りにひきこまれた。
(そこはごじゅうよまんごくのはんかなじょうかまちのうちで)
そこは五十余万石の繁華な城下町のうちで
(ぞくに「かしっぷち」といわれ、)
俗に『河岸っぷち』といわれ、
(さんじゅうしちはっけんのかとうなしょうかがあつまっていっかくをつくっている。)
三十七八軒の下等な娼家が集まって一かくをつくっている。
(すぐそばをおおたがわがながれているのでそうよばれるのだろうが、)
すぐ側を太田川がながれているのでそう呼ばれるのだろうが、
(やなぎちょう、まつおかちょうなどというほかのはなまちのものとはくべつされて、)
柳町、松岡町などというほかの花街の者とは区別されて、
(きものもかみかたちもいっていのきかくがあり、)
着物も髪かたちも一定の規格があり、
(まちのこどもたちなどにも、かしっぷちのごけということは)
町の子供たちなどにも、河岸っぷちの後家ということは
(ひとめでみわけがつくし、すぐわるくちのたねにされた。)
ひと眼でみわけがつくし、すぐ悪口の種にされた。
(「ごけ」というだいめいしはほかのとちにもあるようだが、)
『後家』という代名詞はほかの土地にもあるようだが、
(ここではずっとむかし、つまがおっとのしごに)
ここではずっとむかし、妻が良人の死後に
(ふりんなことをしたばあい、それがほうにふれるとそこへおとされて、)
不倫なことをしたばあい、それが法に触れるとそこへ落されて、
(しょうふにされたのがおこりだという。)
娼婦にされたのが起りだという。
(じじつはどうかわからないけれども、じょうかまちのひとたち、)
事実はどうかわからないけれども、城下町の人たち、
(なかでもふじんたちはいまでもかたくそうしんじていて、)
なかでも婦人たちは今でも固くそう信じていて、
(そこにいるおんなたちをとくにいやしくみていることはたしかであった。)
そこにいる女たちを特に卑しくみていることは確かであった。
(しかしふしぎなことには、)
しかしふしぎなことには、
(そこはやなぎちょうやまつおかちょうよりもはんじょうするばかりでなく、)
そこは柳町や松岡町よりも繁昌するばかりでなく、
(あそびきゃくもしょくにんやひようとりにんそくどものほかに、)
遊び客も職人や日雇取人足どものほかに、
(おおきなしょうかのむすこやぶけのものなどが、)
大きな商家の息子や武家の者などが、
(こういうところあほんとうのゆうとうのあじがあるなどといっては、)
こういうところあ本当の遊蕩の味があるなどといっては、
(かなりしげしげかよってきた。)
かなりしげしげかよって来た。
(おなつは、この「みよし」へきてひゃくにちあまりになる。)
おなつは、この『みよし』へ来て百日あまりになる。
(かのじょはこのくにのとなりにあるちいさなはんのあしがるのこであった。)
彼女はこの国の隣りにある小さな藩の足軽の子であった。
(ここではおおたがわというそのかわが、おなつのふるさとではあらいがわといい、)
ここでは太田川というその川が、おなつの故郷では荒井川といい、
(すこしおおあめがつづくとはんらんして、)
少し大雨が続くと氾濫して、
(たはたをうめじょうかまちまでひたしてしまう。)
田畑を埋め城下町まで浸してしまう。
(そのためかしゅうぶぎょうというやくしょがあり、)
そのため河修奉行という役所があり、
(おなつのちちとあにとはそのやくしょにぞくしていた。)
おなつの父と兄とはその役所に属していた。
(それがちょうど、きょねんのはちがつはじめのことであるが、)
それがちょうど、去年の八月はじめのことであるが、
(あめがいつかほどふったあとのひじょうなぼうふううで、)
雨が五日ほど降ったあとの非常な暴風雨で、
(りょうないのところどころにやまくずれがあり、あらいがわはだいこうずいになって、)
領内の所々に山崩れがあり、荒井川は大洪水になって、
(みずはおしろのいしがきのねにまでついた。)
水はお城の石垣の根にまでついた。
(たはたのひがいはもちろん、じょうかのいえもかなりながされたり、)
田畑の被害はもちろん、城下の家もかなり流されたり、
(とうかいしたりしてごひゃくなんじゅうにんもしんだり、)
倒潰したりして五百何十人も死んだり、
(うめられたりし、せんにんをこすふしょうしゃがでた。)
埋められたりし、千人を越す負傷者が出た。