契りきぬ 山本周五郎 ⑦

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プレイ回数1216難易度(4.1) 3184打 長文
不遇を脱する一心で、ある侍を口説く賭けにのる花街の女の話。

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問題文

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(まだかなりつよくあめがふっている。)

まだかなりつよく雨が降っている。

(おなつはくらいろじをきたへぬけ、まっしぐらになかどおりをよこぎって、)

おなつは暗い路地を北へぬけ、まっしぐらに中通りを横切って、

(おけやちょうのろじをこばばのわきへでた。)

桶屋町の路地を小馬場の脇へ出た。

(ぶけまちへかえるにはかならずそこをとおらなければならない。)

武家町へ帰るには必ずそこを通らなければならない。

(いわば「かしっぷち」へのでいりぐちにあたっているのである。)

いわば『河岸っぷち』への出入り口に当っているのである。

(こばばのさくにそって、ふるいおおきなやなぎのなみきがしげっている、)

小馬場の柵に沿って、古い大きな柳の並木が茂っている、

(おなつはそのこかげにはいって、はじめていきをついた。)

おなつはその樹蔭にはいって、はじめて息をついた。

(かみのけのじからはだまでぬれとおっていた。)

髪毛の地から膚まで濡れとおっていた。

(はだぎぬのそででみだれかかるかみのしずくをかきあげ、)

肌衣の袖で乱れかかる髪のしずくをかきあげ、

(ふたのだけのひざをちぢめた。)

二布だけの膝を縮めた。

(あたまをいくたびもつよくよこにふり、)

頭を幾たびも強く横に振り、

(なにもかんがえまいと、くちびるをひきむすんだ。)

なにも考えまいと、唇をひきむすんだ。

(「だれがあいてだってかまうもんか」)

「誰が相手だって構うもんか」

(ほおへたれてくるしずくをてでふきあげ、)

頬へ垂れてくるしずくを手で拭きあげ、

(きらきらとひかるめでくらいちゅうをみあげた。)

きらきらと光る眼で暗い宙を見あげた。

(「かてばいいんだかつんだ」)

「勝てばいいんだ勝つんだ」

(きものをぬいだのも、かみをといたのも、)

着物をぬいだのも、髪をといたのも、

(そうしてここまでそんなすがたではしってきたのも、)

そうしてここまでそんな姿で走って来たのも、

(すべてはしょうどうてきですこしのこんきょもない。)

すべては衝動的で少しの根拠もない。

(ただそうするほかにしゅだんがないという、)

ただそうするほかに手段がないという、

など

(ばくぜんとしたちょっかくにおうじただけである。)

漠然とした直覚に応じただけである。

(いけない、そんなことはいけない。)

いけない、そんなことはいけない。

(おかえり、そのままかえるんだよおなつ。)

お帰り、そのまま帰るんだよおなつ。

(ときおりかぜがくると、たれたやなぎのえだがゆれて、)

ときおり風がくると、垂れた柳の枝が揺れて、

(ばらばらとしずくがふりかかった。)

ばらばらとしずくが降りかかった。

(そのしずくのおとのなかから、)

そのしずくの音のなかから、

(そうよびかけるこえがきこえるようである。)

そう呼びかけるこえが聞えるようである。

(そんなかっこうで、どうしようというの、おかえり、おなつ、かえるんだよ。)

そんな恰好で、どうしようというの、お帰り、おなつ、帰るんだよ。

(おなつはみぶるいをした。ともするとこころがくじけ、)

おなつは身ぶるいをした。ともすると心が挫け、

(そのままついかけもどりそうになる。さむいのだろうか、とりはだがたち、)

そのままつい駈け戻りそうになる。寒いのだろうか、とりはだがたち、

(はがかちかちふれあうほどからだがふるえた。)

歯がかちかち触れ合うほど体がふるえた。

(そのときかれがきたのである。)

そのとき彼が来たのである。

(ゆっくりしたあるきぶりで、しるしいりのかさをさして、)

ゆっくりした歩きぶりで、印いりの傘をさして、

(かれだということはすぐにわかった。)

彼だということはすぐにわかった。

(おなつはいきをつめ、じぶんのまえをとおってゆくかれのすがたをじっとみまもった。)

おなつは息をつめ、自分の前を通ってゆく彼の姿をじっと見まもった。

(いけない、おやめなさい。こういうこえをきいたようにおもい、)

いけない、おやめなさい。こういう声を聞いたように思い、

(そのこえにつきとばされたかのごとく、おなつはこかげからでるとはしりだした。)

その声につきとばされたかの如く、おなつは樹蔭から出ると走りだした。

(はだしのあしがなにかをふみ、するどいいたみでああとさけんだ。)

はだしの足がなにかを踏み、鋭どい痛みでああと叫んだ。

(しかしそのままはしってゆき、かれのかさのなかへとびこむようにして、)

しかしそのまま走ってゆき、彼の傘の中へとびこむようにして、

(いきなりすがりついた。「どうぞおたすけください、おわれております」)

いきなりすがりついた。 「どうぞお助け下さい、追われております」

(かれはうというようなこえをあげ、みをひきながらうしろへふりかえった。)

彼はうというような声をあげ、身をひきながら後ろへ振返った。

(おなつはぴったりとよりそい、いきをあえがせ、)

おなつはぴったりと寄り添い、息をあえがせ、

(ぜんしんをわなわなとふるわせた。)

全身をわなわなとふるわせた。

(「だいじょうぶだ、おってくるものはないようだ」)

「大丈夫だ、追って来る者はないようだ」

(「どうぞはやく、ここからおつれくださいまし、)

「どうぞ早く、ここからお伴れ下さいまし、

(おおぜいでかならずおってまいります、とらえられましたら、)

大勢で必ず追ってまいります、捉えられましたら、

(わたくししんでしまいます」)

わたくし死んでしまいます」

(「いえまでおくってあげよう、どこです」)

「家まで送ってあげよう、どこです」

(「は、あのずっと、えんごくでございます」)

「は、あのずっと、遠国でございます」

(おなつはこえまでおののいていた。「ここにはしるべもございません。)

おなつは声までおののいていた。 「ここにはしるべもございません。

(わけがあって、だまされまして、ああもう、どういたしていいか」)

わけがあって、騙されまして、ああもう、どう致していいか」

(「これをかたへかけておいでなさい」)

「これを肩へ掛けておいでなさい」

(かれはろのなつばおりをぬぎ、それをおなつのせにかけてやった。)

彼は絽の夏羽折をぬぎ、それをおなつの背にかけてやった。

(それからちいさなからだぜんたいを、じぶんとかさとでかばいかくすようにして)

それから小さな体ぜんたいを、自分と傘とで庇い隠すようにして

(なにごともなかったふうなあしどりであるきだした。)

なにごともなかったふうな足どりで歩きだした。

(「ともかくわたしのいえまでゆくことにしましょう、)

「ともかく私の家までゆくことにしましょう、

(だまっておいでなさい、ああこれは、はだしですね、)

黙っておいでなさい、ああこれは、はだしですね、

(そのあしどうかしたんですか」「むちゅうでとびだしまして、)

その足どうかしたんですか」 「夢中でとびだしまして、

(とちゅうでなにかふんだらしゅうございますの」)

途中でなにか踏んだらしゅうございますの」

(「それはつらいでしょう。はきものやもしめてしまったろうし、)

「それは辛いでしょう。履物屋も閉めてしまったろうし、

(かごではおってにてがかりがつくだろうし、おってゆくわけにもいかないし」)

駕では追手にてがかりがつくだろうし、負ってゆくわけにもいかないし」

(「わたくしだいじょうぶでございます」おなつはいたむのをがまんして、)

「わたくし大丈夫でございます」 おなつは痛むのをがまんして、

(おとこのゆっくりしたおおまたにこばしりでついていった。)

男のゆっくりした大股に小走りでついていった。

(きたはらせいのすけのじゅうきょはかみじょうというところにあった。)

北原精之助の住居は上条という処にあった。

(さんのくるわへゆくいぬいもんのとおりからきたへはいり、)

三の曲輪へゆく乾門の通りから北へはいり、

(やしきまちのいちばんはしにあたっている、おもてからはいると、)

屋敷町のいちばん端に当っている、表からはいると、

(へいにそってすぐみぎに、さむらいながやのようなたてものがある。)

塀に沿ってすぐ右に、侍長屋のような建物がある。

(かれはそのとぐちをたたいて「じんべえ、じんべえ」とよんだ、)

彼はその戸口を叩いて「仁兵衛、仁兵衛」と呼んだ、

(そうしてあかりをもってろうじんがあらわれると、)

そうして灯を持って老人があらわれると、

(「このひとにゆをつかわせて、なにかきるものをだしてあげてくれ、)

「この人に湯をつかわせて、なにか着る物を出してあげて呉れ、

(あしをいためているらしい、くすりをつけて、それから、)

足を痛めているらしい、薬をつけて、それから、

(なにかじじょうがあるようだから、よくきいたうえでせわをしてやってくれ」)

なにか事情があるようだから、よく聞いたうえで世話をしてやって呉れ」

(こういってじぶんはむこうへさった。)

こう云って自分は向うへ去った。

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