契りきぬ 山本周五郎 ⑩

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プレイ回数1224難易度(4.1) 2937打 長文
不遇を脱する一心で、ある侍を口説く賭けにのる花街の女の話。

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問題文

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(うたはそのころまだつづけていた。)

謡はそのころまだ続けていた。

(いつかにいちどずつししょうがけいこをつけにくる。)

五日にいちどずつ師匠が稽古をつけに来る。

(そういうひはししょうがかえってからも、ひとりでよくふくしゅうしているが、)

そういう日は師匠が帰ってからも、独りでよく復習しているが、

(それはそういうものをきくみみをもたないおなつにも、)

それはそういうものを聞く耳をもたないおなつにも、

(きわめてけげんなはがゆいものにおもわれた。)

きわめてけげんなはがゆいものに思われた。

(はじめてかれのいまへちゃをいれにいったときのことであるが、)

初めて彼の居間へ茶を淹れにいったときのことであるが、

(こちらでゆをさまし、ちゃをいれていると、かれはそのうたのふくしゅうをしていた。)

こちらで湯をさまし、茶を淹れていると、彼はその謡の復習をしていた。

(なにをうたっているのかおなつにはわからない、)

なにを謡っているのかおなつにはわからない、

(なにしろまのびしたちょうしで、こえはよろよろしたり、とまどったり、)

なにしろまのびのした調子で、声はよろよろしたり、戸惑ったり、

(とぎれたりもつれたりする、どうにもがまんできなかった。)

とぎれたりもつれたりする、どうにもがまんできなかった。

(いそいでたもとでくちをおさえたがまにあわず、ついくくとふきだしてしまった。)

いそいで袂で口を押えたがまにあわず、ついくくとふきだしてしまった。

(「どうしたんだ、ああ、おれのうたか」せいのすけはこういってにがわらいをした。)

「どうしたんだ、ああ、おれの謡か」精之助はこう云って苦笑いをした。

(「ごめんあそばせ、たいへんしつれいいたしました」)

「ごめんあそばせ、たいへん失礼いたしました」

(「なに、じぶんでもおかしいんだ」そうしててれたようにあごをなでた。)

「なに、自分でも可笑しいんだ」そうしててれたようにあごを撫でた。

(なのかめごろからいよにいわれて、せいのすけのせわをするようになった。)

七日めごろから伊代に云われて、精之助の世話をするようになった。

(ちゃやしょくじのきゅうじ、がいしゅつやきたくのときのきがえ、)

茶や食事の給仕、外出や帰宅のときの着替え、

(そしてともだちがきたときのせったい、)

そして友達が来たときの接待、

(なかにはいよでなければならないこともあるが、)

なかには伊代でなければならない事もあるが、

(たいていはおなつがようをたした。ことにゆうじんたちがあつまると、)

たいていはおなつが用を達した。ことに友人たちが集まると、

(そのひとたちのほうでおなつをはなさなくなった。)

その人たちのほうでおなつを放さなくなった。

など

(「なつさんこのあいだのこいこくはのこっていませんかね」)

「なつさんこのあいだの鯉こくは残っていませんかね」

(きぬまきははじめのうちはそんなふうにいってよくおなつをまごつかせた。)

衣巻は初めのうちはそんなふうに云ってよくおなつをまごつかせた。

(「まあ、いくらなんでもそんなに、いつまでとってはおけませんですわ」)

「まあ、いくらなんでもそんなに、いつまでとってはおけませんですわ」

(「それはざんねん、ではひとつつくってください」)

「それは残念、ではひとつ作って下さい」

(つまりそれがかれのねだりかたなのであった。もっともよくたずねてくるのは、)

つまりそれが彼のねだり方なのであった。もっともよく訪ねて来るのは、

(きぬまきだいがくとつだきちべえ、かわのまたさぶろうのさんにんである。そのほかにも、)

衣巻大学と津田吉兵衛、河野又三郎の三人である。そのほかにも、

(おおつき、わたり、かまたなどといって、かおぶれはほとんどきまっていた。)

大槻、渡、鎌田などといって、顔触れは殆んどきまっていた。

(おそらく「みよし」などへきたのはこのなかまであろう。)

おそらく『みよし』などへ来たのはこの仲間であろう。

(しかしおなつはぶけのざしきにはでなかったし、かれらのせきへも)

しかしおなつは武家の座敷には出なかったし、かれらの席へも

(たったいちど、それもごくわずかなじかんしかでなかったので、)

たったいちど、それもごく僅かな時間しか出なかったので、

(おぼろげにきぬまきのかおをおぼえているほかは、)

おぼろげに衣巻の顔を覚えているほかは、

(だれひとりきおくにのこってはいなかった。)

誰ひとり記憶に残ってはいなかった。

(せいのすけをはじめ、きゃくのひとたちはみんな、)

精之助をはじめ、客の人たちはみんな、

(いっしゅのそんけいといたわりのたいどでおなつにせっした。)

一種の尊敬といたわりの態度でおなつに接した。

(このいえのむすめというかんじでもなく、)

この家の娘という感じでもなく、

(もちろんめしつかいにたいするあつかいではけっしてない。)

もちろん召使いに対する扱いでは決してない。

(きぬまきなどはずいぶんえんりょのないほうだが、)

衣巻などはずいぶん遠慮のないほうだが、

(それでもひとすじはっきりとへだてがあり)

それでもひと筋はっきりと隔てがあり

(れいぎをくずすようなことはすこしもなかった。)

礼儀を崩すようなことは少しもなかった。

(みのまわりのせわをしはじめてから、)

身のまわりの世話をし始めてから、

(はっきりおなつにわかったことであるが、)

はっきりおなつにわかったことであるが、

(せいのすけのどこもしょうじろうににてはいなかった。)

精之助のどこも正二郎に似てはいなかった。

(あのよる、ろうかからすどごしにみたときは、)

あの夜、廊下から簾戸越しに見たときは、

(しょうじろうさまのおさながおにいきうつしのようだった。)

正二郎さまの幼な顔に生き写しのようだった。

(あまりににているのでいきぐるしくなったほどびっくりしたが、)

あまりに似ているので息苦しくなったほどびっくりしたが、

(そばでくらすようになって、おちついてみるとまるでちがう。)

側で暮すようになって、おちついて見るとまるで違う。

(ふとびしょうするときなどに、)

ふと微笑するときなどに、

(きょうつうするおもざしがいくらかあるかもしれないけれど、)

共通するおもざしが幾らかあるかもしれないけれど、

(それでさえにているというほどのものではなかった。)

それでさえ似ているというほどのものではなかった。

(どうしてあのときあのようにみえたのだろう、)

どうしてあのときあのように見えたのだろう、

(まるでしょうじろうさまそっくりにみえたとおもったのに、)

まるで正二郎さまそっくりに見えたと思ったのに、

(これがきのまよいというものかしらん。)

これが気の迷いというものかしらん。

(しかしそれでかえってきもちはかるくなった。)

しかしそれで却って気持は軽くなった。

(こころのなかでたいせつにしてきたひとと、)

心のなかで大切にしてきたひとと、

(おもかげがそれほどにているとしたら、)

おもかげがそれほど似ているとしたら、

(けっしんしたことをやりとげることはできなかったかもしれない。)

決心したことをやりとげることはできなかったかもしれない。

(いまはそんなたじろぎはなかった。おなつは、むしろじぶんで)

今はそんなたじろぎはなかった。おなつは、寧ろ自分で

(じぶんをけしかけながら、そのきかいのくるのをまった。)

自分をけしかけながら、その機会の来るのを待った。

(きかいはひとつしかない。ともだちとどこかでかいごうして、)

機会は一つしかない。友達とどこかで会合して、

(よるおそくよってかえる、それがもっともよいきかいである。)

夜おそく酔って帰る、それがもっともよい機会である。

(おなつはすぐにそうみてとった。)

おなつはすぐにそうみてとった。

(ときにはずっとふけてかえることもあるし、)

ときにはずっと更けて帰ることもあるし、

(そんなときにはいよにかわってしんじょのせわもするから、)

そんなときには伊代に代って寝所の世話もするから、

(ごくしぜんにことがはこびそうであった。)

ごく自然に事がはこびそうであった。

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