契りきぬ 山本周五郎 ⑯
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問題文
(「わかったね、なつ、ーーせつめいはいらないだろう、)
「わかったね、なつーー説明は要らないだろう、
(あのおんなあるじはおまえがしっそうしたものとしんじている、)
あの女あるじはおまえが失踪したものと信じている、
(きぬまきたちもおまえがあのいえにいたことはしらない)
衣巻たちもおまえがあの家にいたことは知らない
(これまでのことはすべておわったんだ、)
これまでのことはすべて終ったんだ、
(これからなつのあたらしいひがはじまるんだ、わかるだろう」)
これからなつの新しい日が始まるんだ、わかるだろう」
(「いいえ、いいえわたくし」「いやなにもいうことはない、)
「いいえ、いいえわたくし」 「いやなにも云うことはない、
(ふたりのあいだにはもうことばなどはいらないんだ、)
二人のあいだにはもう言葉などは要らないんだ、
(なつこっちへきてごらん」せいのすけはこういってたった。)
なつこっちへ来てごらん」精之助はこう云って立った。
(そうしておなつをぶつまへみちびいていき、)
そうしておなつを仏間へみちびいていき、
(そこのぶつだんのわきにかけてあるふたはばのがぞうをみせた。)
そこの仏壇の脇に掛けてある二幅の画像をみせた。
(きょうづくえのうえにろうそくがみじかくなって、かえってあかるくほのおをたてていた。)
経机の上に蝋燭が短くなって、却って明るく焔を立てていた。
(がぞうのひとつはさむらい、ひとつはふじんである。)
画像のひとつは侍、ひとつは婦人である。
(あさがみしもをきたおとこのほうはさんじゅうしごにみえるが、)
麻裃を着た男のほうは三十四五にみえるが、
(ふじんはずっとわかく、むすめのようなういういしいおもざしをしていた。)
婦人はずっと若く、娘のようなういういしい面ざしをしていた。
(「ちちとははだ」せいのすけはこころのこもったこえでいった。)
「父と母だ」精之助は心のこもった声で云った。
(「こんやのためにこれをかざっておいたんだ、)
「今夜の為にこれを飾って置いたんだ、
(こどもらしいとおもうかもしれないが、)
子供らしいと思うかもしれないが、
(おふたりにもよろこんでもらいたかったんだよ」)
お二人にも喜んで貰いたかったんだよ」
(なつはかたくみをちぢめ、あおじろくこわばったかおで、)
なつは固く身を縮め、蒼白く硬ばった顔で、
(じっとふじんのがぞうをみまもっていた。)
じっと婦人の画像を見まもっていた。
(せいのすけはそばをはなれながら、ささやくようにいった。)
精之助は側を離れながら、囁くように云った。
(「おまえのしゅうととしゅうとめだ、あいさつをして、すんだらいってやすむがいい、)
「おまえの舅と姑だ、挨拶をして、済んだらいってやすむがいい、
(なにもかんがえることはないからね、なにもかもおれにまかせて)
なにも考えることはないからね、なにもかもおれに任せて
(あんしんしておやすみ、わかったね」そうしてかれはでていった。)
安心しておやすみ、わかったね」そうして彼は出ていった。
(おなつはかれがさるとまもなくきたはらのいえをぬけだした。)
おなつは彼が去るとまもなく北原の家をぬけ出した。
(ひがしのそらがほのかにしらんでいるくらいで、まちはまだくらくねむっていた、)
東の空が仄かに白んでいるくらいで、街はまだ暗く眠っていた、
(しきりにふるあめのなかを、あたまからぬれて、)
しきりに降る雨のなかを、頭から濡れて、
(はだしで、ただきたへとはしった。)
はだしで、ただ北へと走った。
(じょうかまちをではずれたのも、はっちょうづつみといわれるなわてみちをとおったのも、)
城下町を出はずれたのも、八丁堤といわれる畷道を通ったのも、
(なかばむちゅうであった、そうしてやがて、あさいがわのきしにたって、)
なかば夢中であった、そうしてやがて、浅井川の岸に立って、
(はやせのくらいみずをながめているじぶんにきづき、)
早瀬の暗い水を眺めている自分に気づき、
(とつぜんめのさめたようなきもちで、ぬれたくさのうえへくたくたと)
とつぜん眼のさめたような気持で、濡れた草の上へくたくたと
(くずれるようにすわった。かんにんしてくださいまし、どうぞかんにんしてくださいまし。)
崩れるように坐った。堪忍して下さいまし、どうぞ堪忍して下さいまし。
(あたまのなかでだれかほかのにんげんがつぶやいているように、)
頭のなかで誰かほかの人間が呟いているように、
(たえずおなじことをくりかえすのがきこえた。なつがわるうございました、)
絶えず同じことを繰り返すのが聞えた。なつが悪うございました、
(どうぞかんにんしてくださいまし。あとでかんがえると、)
どうぞ堪忍して下さいまし。あとで考えると、
(まっすぐにそこへいったのはしぬつもりだったかもしれない。)
まっすぐにそこへいったのは死ぬつもりだったかもしれない。
(そして、もしそのときそのひとがとおりかからなかったら、)
そして、もしそのときその人が通りかからなかったら、
(ほんとうにしんだかもしれないとおもう。そのひとはえちぜんのきぬものしょうだそうで、)
本当に死んだかもしれないと思う。その人は越前の絹物商だそうで、
(くにへかえるためじょうかのやどをはやくたってきた。)
国へ帰るため城下の宿を早く立って来た。
(そこへきかかったときまだとものものはちょうちんをもっていたが、)
そこへ来かかったときまだ供の者は提灯を持っていたが、
(かわぎしのくさのなかにすわっているおなつをみつけ、)
川岸の草の中に坐っているおなつをみつけ、
(はじめはきょうじんかとおもったそうである。)
はじめは狂人かと思ったそうである。
(おなつはいしきなしにいったらしいが、じぶんはさるやまのとうじばのもので、)
おなつは意識なしに云ったらしいが、自分は猿山の湯治場の者で、
(まちからかえるとちゅうわるものにあってきていたものをはがれた。)
町から帰る途中悪者に遭って着ていた物を剥がれた。
(そんなふうにいったのである。さるやまというちめいがくちにでたのは)
そんなふうに云ったのである。猿山という地名が口に出たのは
(「みよし」のおんなあるじからよくはなしをきいていたのと、)
『みよし』の女あるじからよく話を聞いていたのと、
(そのはなしにきいたやどへゆけばなんとかなるという、)
その話に聞いた宿へゆけばなんとかなるという、
(ばくぜんとしたかんがえに、しはいされたからのようだ。)
漠然とした考えに、支配されたからのようだ。
(「それではみちじゅんだから、さるやままではゆけないがふたまたまでおくってあげよう」)
「それでは道順だから、猿山まではゆけないが二俣まで送ってあげよう」
(そのきぬものしょうにんはおなつのことばをしんじてこういった。)
その絹物商人はおなつの言葉を信じてこう云った。
(そしてしたぎいちまいでふるえているのをみて、とものものにはさみばこをおろさせ、)
そして下着一枚でふるえているのを見て、供の者に挾箱を下ろさせ、
(なかからじぶんのきがえをだしてきせたうえ、)
中から自分の着替えを出して着せたうえ、
(なおとものもののあまがっぱをうえからかけてくれた。)
なお供の者の雨合羽を上から掛けて呉れた。
(「これはあげてもいいのだが、もしきがすまないようだったら、)
「これはあげてもいいのだが、もし気が済まないようだったら、
(ふくいじょうかのかどやいちべえあてにおくってくださるがいい、)
福井城下の角屋市兵衛あてに送って下さるがいい、
(しかしこのままきすてにしてくれていいのだから」)
しかしこのまま着捨てにしてくれていいのだから」
(そしてかれはふたまたまでおくってくれ、)
そして彼は二俣まで送ってくれ、
(そこからかわをこしてえちぜんへさっていった。)
そこから川を越して越前へ去っていった。