契りきぬ 山本周五郎 ⑳
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問題文
(「ああ」おなつはさけんでたとうとするようにみえたが、)
「ああ」 おなつは叫んで立とうとするようにみえたが、
(みがすくんでうごくことができず、わなわなとふるえながらわきへかおをそむけた。)
身が竦んで動くことができず、わなわなと震えながら脇へ顔をそむけた。
(いねもなにかいおうとしたが、もはやじぶんのくちをだすばあいでは)
いねもなにか云おうとしたが、もはや自分の口をだすばあいでは
(ないとおもったのだろう、こどもをだいて、)
ないと思ったのだろう、子供を抱いて、
(たちあがって、そっとろうかへでていった。)
立ちあがって、そっと廊下へ出ていった。
(「なつ、ーーあいたかった」せいのすけはそういって、そこへすわった。)
「なつ、ーー逢いたかった」 精之助はそう云って、そこへ坐った。
(「おまえどうしていえをでたんだ、あのばんあれだけいったのに、)
「おまえどうして家を出たんだ、あの晩あれだけ云ったのに、
(おまえには、おれがしんじられなかったのか」)
おまえには、おれが信じられなかったのか」
(おなつはだまってふるえていた。)
おなつは黙って震えていた。
(「まだしきもあげず、ちゃんとはなしもきめないうちに、)
「まだ式も挙げず、ちゃんと話もきめないうちに、
(ああいうことになったのは、おれがわるかったかもしれない。)
ああいうことになったのは、おれが悪かったかもしれない。
(たしかにじょうしきはずれであった。しかしあのときは、)
たしかに常識はずれであった。しかしあのときは、
(おれには、そうするほかにしあんがつかなかったのだ。)
おれには、そうするほかに思案がつかなかったのだ。
(はじめからのことをすっかりいってしまおう」)
初めからのことをすっかり云ってしまおう」
(かれはこういって、しずかにかたりだした。)
彼はこう云って、静かに語りだした。
(おなつがきたはらのいえにきてまもなく、)
おなつが北原の家に来てまもなく、
(きぬまきたちのれいのなかまと「みよし」へいった。)
衣巻たちの例の仲間と『みよし』へいった。
(そしておきくから、おなつのたくらみをきいた。)
そしてお菊から、おなつのたくらみを聞いた。
(ひじょうにいがいだったが、かれはしらをきった。)
ひじょうに意外だったが、彼はしらを切った。
(そんなものはこない、あいもしない。こういいとおした。)
そんな者は来ない、会いもしない。こう云いとおした。
(それでけっきょくおなつはそのままどこかへにげたということになった。)
それで結局おなつはそのままどこかへ逃げたということになった。
(かれはじぶんのためにそんなことになったのだからと、)
彼は自分のためにそんなことになったのだからと、
(おてつをよんで、たくみにいいくるめて、)
おてつを呼んで、巧みに云いくるめて、
(おなつのしゃっきんをはらい、しょうもんをうけとった。)
おなつの借金を払い、証文を受取った。
(そうして、おなつのにちじょうのようすをちゅういしていた。)
そうして、おなつの日常のようすを注意していた。
(かのじょがあしがるのむすめであることや、そこへみをおとしたじじょうは、)
彼女が足軽の娘であることや、そこへ身を堕した事情は、
(おてつからきいてしっていたが、)
おてつから聞いて知っていたが、
(ちゅういしてみるとたちいのさほうもきちんとしているし、)
注意して見ると起居の作法もきちんとしているし、
(よみかきも、にたきも、ぬいつくろいも、)
読み書きも、煮炊きも、縫いつくろいも、
(ひととおりいじょうのたしなみがある。)
ひととおり以上のたしなみがある。
(これはかれがそうみとめるまえに、かれをそだてたいよのほうがさきにかんしんして、)
これは彼がそう認めるまえに、彼を育てた伊代のほうがさきに感心して、
(しきりにいいむすめだとほめだした。)
しきりにいい娘だと褒めだした。
(すじょうさえはっきりすれば、あなたのおよめにほしいくらいですね。)
素性さえはっきりすれば、あなたのお嫁にほしいくらいですね。
(そんなことをいうようになったが、せいのすけはそのぜんごから)
そんなことを云うようになったが、精之助はその前後から
(じぶんでもそのつもりになり、さえぐさのおじをたずねてあらましのじじょうを)
自分でもそのつもりになり、三枝の叔父を訪ねてあらましの事情を
(「みよし」のことはべつにして、はなした。)
『みよし』のことはべつにして、話した。
(するとおじふさいもいちどみようということになり、)
すると叔父夫妻もいちど見ようということになり、
(ふたりできておなつをみたうえ、おばのほうがこれまたすっかり)
二人で来ておなつを見たうえ、叔母のほうがこれまたすっかり
(ほれこんでしまった。あのひとならもうしぶんなしよ、)
惚れこんでしまった。あのひとなら申し分なしよ、
(よそへとられないうちにはやくおもらいなさい。)
よそへとられないうちに早くお貰いなさい。
(こういってすすめたそうである。)
こう云ってすすめたそうである。
(このあいだにはしたしいともだちのいけんもきいたが、)
このあいだには親しい友達の意見もきいたが、
(みんなさんせいで、すじょうがはっきりしないてんをのぞいては、)
みんな賛成で、素性がはっきりしない点を除いては、
(だれにもいぎがなかった。せいのすけはおなつのすじょうがわかっていたし、)
誰にも異議がなかった。精之助はおなつの素性がわかっていたし、
(なにしろさえぐさのおばがたいそうのりきで)
なにしろ三枝の叔母がたいそう乗り気で
(さえぐさのようじょにすればいいというくらいだったから、)
三枝の養女にすればいいと云うくらいだったから、
(そのてんはしんぱいすることはないとおもった。)
その点は心配することはないと思った。
(「こうしてまわりのもののいこうはすっかりきまった。)
「こうしてまわりの者の意向はすっかりきまった。
(だがそうしているうちにひがたった。)
だがそうしているうちに日が経った。
(きくところによるとさんじゅうにちというひぎりだそうだ、)
聞くところによると三十日という日切だそうだ、
(おれはしょうめんからそれまでのゆくたてをはなそうかとおもった。)
おれは正面からそれまでのゆくたてを話そうかと思った。
(しかしおまえのきしょうでは、それをきいたらはじて、)
しかしおまえの気性では、それを聞いたら恥じて、
(でてゆくだろうとおもった」せいのすけはめをふせ、)
出てゆくだろうと思った」精之助は眼を伏せ、
(かんじょうをおさえるようにいきをついてから、またしずかにつづけた。)
感情を抑えるように息をついてから、また静かに続けた。
(「くわしくうちあければ、はじてでてゆくだろうし、)
「詳しくうちあければ、恥じて出てゆくだろうし、
(そのままにしていても、にちげんがきれればでてゆくだろう、)
そのままにしていても、日限が切れれば出てゆくだろう、
(おまえのようすでそれがわかった、どうしたらでてゆかずにすむか。)
おまえのようすでそれがわかった、どうしたら出てゆかずに済むか。
(どうしたらひきとめることができるか、)
どうしたらひきとめることができるか、
(いろいろかんがえたうえ、ほうほうはひとつしかないとおもった、)
いろいろ考えたうえ、方法はひとつしかないと思った、
(ことばもうたもいらない、たしかなあいじょうでむすびつくのがさきだ、)
言葉も詩も要らない、たしかな愛情でむすびつくのがさきだ、
(ほかのことはすべてそのあとでいい、そうおもった」)
ほかのことはすべてそのあとでいい、そう思った」