契りきぬ 山本周五郎 ㉒(終)
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問題文
(「ひろいよのなかでおもいおもわれ、あいしあいされるということは、)
「ひろい世の中で想い想われ、愛し愛されるということは、
(それだけでうつくしい、きれいな、とうといものだとおもうの、)
それだけで美しい、きれいな、尊いものだと思うの、
(それだけはよごしてはいけないとおもうの、)
それだけはよごしてはいけないと思うの、
(あたしひとりでいきるわ、あのかたにあいしていただいたこと、)
あたし独りで生きるわ、あの方に愛して頂いたこと、
(これまであいしていてくだすったこと、それだけでうまれてきた)
これまで愛していて下すったこと、それだけで生れて来た
(かいがあるわ、あたしひとりでりっぱにいきるの、)
甲斐があるわ、あたし独りで立派に生きるの、
(あのこをあのかたのおこらしくりっぱにそだてるわ、)
あの子をあの方のお子らしく立派に育てるわ、
(それがそれが、たったひとつの」そこでおなつのことばがきれた。)
それがそれが、たったひとつの」そこでおなつの言葉が切れた。
(それがゆいいつのしょくざいといういであろうか。)
それが唯一の贖罪という意であろうか。
(それともあいのあかしといいたかったのだろうか、ことばはそこできれたまま、)
それとも愛の証といいたかったのだろうか、言葉はそこで切れたまま、
(おなつはくずれるようにそこへなきふしてしまった。)
おなつは崩れるようにそこへ泣き伏してしまった。
(「わかったわ、よくわかったわなつさん」)
「わかったわ、よくわかったわなつさん」
(いねはためいきをつき、めのまわりをそっとなでながら、)
いねは溜息をつき、眼のまわりをそっと撫でながら、
(ひくいこえでこうささやいた。「あたしがおんなでなければ、こんなきもちは)
低い声でこう囁いた。「あたしが女でなければ、こんな気持は
(わからないかもしれない、いいわ、ならさきというかたは)
わからないかもしれない、いいわ、楢崎という方は
(たいしんのおぶけらしいから、わけをよくはなしてたのんでみるわ、)
大身のお武家らしいから、わけをよく話して頼んでみるわ、
(たかちゃんのためにもおぶけのいえのほうがいい、ふるくから、ごひいきの)
鷹ちゃんのためにもお武家の家のほうがいい、古くから、ごひいきの
(おきゃくだから、きっとしょうちしてめんどうみてくださるとおもうわ、)
お客だから、きっと承知して面倒みて下さると思うわ、
(でもそうして、またあんたがいなくなったらあのかたはどんなに」)
でもそうして、またあんたがいなくなったらあの方はどんなに」
(「おっしゃらないで、それだけは、おねがいですからもうおっしゃらないで」)
「おっしゃらないで、それだけは、お願いですからもうおっしゃらないで」
(おなつはみみをふさいでさけぶようにいった。)
おなつは耳を塞いで叫ぶように云った。
(たかじろうととこをならべてねたのはやはんすぎであった。)
鷹二郎と床を並べて寝たのは夜半すぎであった。
(せいのすけはいえのほうのしたくをして、あらためてむかえにくるという、)
精之助は家のほうの支度をして、改めて迎えに来るという、
(しかしそのときはもうおなつはここにはいないであろう)
しかしそのときはもうおなつはここにはいないであろう
(いねにうちあけて、なくだけないた。)
いねにうちあけて、泣くだけ泣いた。
(もうなにもかんがえてはいけない。なにもおもわずにねよう、)
もうなにも考えてはいけない。なにも思わずに寝よう、
(こうじぶんにいいきかせてめをとじた。かたくとじたまぶたのうちに、)
こう自分に云いきかせて眼を閉じた。かたく閉じた瞼のうちに、
(ふいとしょうじろうさまのかおがうかびあがった。)
ふいと正二郎さまの顔がうかびあがった。
(どういういしきのはたらきだろう、おなつはそのおもかげにむかって、)
どういう意識のはたらきだろう、おなつはそのおもかげに向って、
(こころのなかでかなしくよびかけた。)
心のなかで哀しく呼びかけた。
(ええほんとうでしたわ。しょうじろうさま、あなたはほんとうにたくさん、)
ええ本当でしたわ。正二郎さま、あなたは本当にたくさん、
(いいものをみつけてくださいましたわ、あたしのないたのが、)
いい物をみつけて下さいましたわ、あたしの泣いたのが、
(かなしいだけではなかったということ、あなたにはわかっていただけますわね、)
悲しいだけではなかったということ、あなたにはわかって頂けますわね、
(なつはこれまでよりげんきで、つよくいきてまいりますわ、)
なつはこれまでより元気で、強く生きてまいりますわ、
(みていてくださいましね。そのよるはずっとふりつづいたのだろう、)
みていて下さいましね。その夜はずっと降りつづいたのだろう、
(あさになるとやまもたにもいちめんのゆきで、めずらしくさんすんあまりもつもっていた。)
朝になると山も谷もいちめんの雪で、珍しく三寸あまりも積っていた。
(おなつはたかじろうをだいて、かえってゆくせいのすけをみちまでみおくった。)
おなつは鷹二郎を抱いて、帰ってゆく精之助を道まで見送った。
(かれはいかにもわかれがおしいらしく、いくたびもこどもをだきとったり、)
彼はいかにも別れが惜しいらしく、幾たびも子供を抱き取ったり、
(こんどこそまっていてくれとねんをおしたりした。)
こんどこそ待っていてくれと念を押したりした。
(おなつはできるだけあかるいちょうしで、かれのめをみつめ、)
おなつはできるだけ明るい調子で、彼の眼をみつめ、
(びしょうして、まっていますとちかった。)
微笑して、待っていますと誓った。
(「ではちかいうちに」せいのすけはやがておもいきったというふうに)
「では近いうちに」精之助はやがて思いきったというふうに
(くちをいちもんじにしたわらいかたで、こちらをみつめながらわかれをつげた。)
口を一文字にした笑いかたで、こちらをみつめながら別れを告げた。
(「しごにちのうちにはくる、それまでおまえもぼうやも、きをつけてね」)
「四五日のうちには来る、それまでおまえも坊やも、気をつけてね」
(「はい、あなたさまもどうぞ」「ではゆくよ」)
「はい、あなたさまもどうぞ」「ではゆくよ」
(かれはゆきのなかをおおまたにさっていった。)
彼は雪のなかを大股に去っていった。
(もうふりかえらなかった。たくましいかたをみせ、しっかりとした、)
もう振返らなかった。逞しい肩をみせ、しっかりとした、
(おおきなほちょうでずんずんさってゆく。)
大きな歩調でずんずん去ってゆく。
(おなつはたかじろうをだきあげ、そのうしろすがたをゆびさしながらいった。)
おなつは鷹二郎を抱きあげ、そのうしろ姿を指さしながら云った。
(「よくみておくのよ、たかちゃん、あれがあなたのおとうさまよ、)
「よく見ておくのよ、鷹ちゃん、あれがあなたのお父さまよ、
(あなたもいまにおとうさまのような、りっぱなひとになるのね、)
あなたもいまにお父さまのような、立派なひとになるのね、
(さあもっとよくみるの、ようくみるのよわかって、)
さあもっとよく見るの、ようく見るのよわかって、
(あれがたかちゃんのおとうさまなのよ」)
あれが鷹ちゃんのお父さまなのよ」
(あふれてくるなみだをそのまま、おなつはけんめいにびしょうして、)
あふれてくる涙をそのまま、おなつはけんめいに微笑して、
(なおたかくこどもをだきあげるのであった。)
なお高く子供を抱きあげるのであった。
(せいのすけのすがたはすでにとおくちいさくなっていた。)
精之助の姿はすでに遠く小さくなっていた。