竹柏記 山本周五郎 ⑥
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問題文
(しゅうげんのみっかまえ、ごごからあめになったひのことであるが、こうのすけが)
祝言の三日まえ、午後から雨になった日のことであるが、孝之助が
(しろをさがってくるとやなぎのつじのところで、おかむらやつかによびとめられた。)
城をさがって来ると柳の辻のところで、岡村八束に呼びとめられた。
(「ちょっとそこまで、つきあってもらいたいんですがね」)
「ちょっとそこまで、つきあって貰いたいんですがね」
(かさをかたむけて、こちらをのぞきこんだ、そのいきはつよくさけのにおいがした。)
傘を傾けて、こちらを覗きこんだ、その息はつよく酒の匂いがした。
(「おてまはとらせない。ほんのちょっとですよ」)
「お手間はとらせない。ほんのちょっとですよ」
(こうのすけはとものものをみて、さきへかえれ、といいやつかにうなずいてみせた。)
孝之助は供の者を見て、先へ帰れ、と云い八束に頷いてみせた。
(あめのためだろう、あたりはもうくらくなりかけ、)
雨のためだろう、あたりはもう暗くなりかけ、
(つじどおりにあるやなぎなみきのえだから、わずかにのこっているはが、)
辻通りにある柳並木の枝から、僅かに残っている葉が、
(しきりとみちのうえにちっていたぜんしょうじばしのとおりを、まっすぐにゆき、)
しきりと道の上に散っていた禅昌寺橋の通りを、まっすぐにゆき、
(まちやへはいったところを、ひだりにまがった。)
町家へはいったところを、左に曲った。
(つきあたるとかがみがわのきしで、そのてまえにはなやかないっかくがある。)
つき当ると鏡川の岸で、その手前に華やかな一画がある。
(ぞくに「せんたくまち」とよばれているが、ずっとむかしそこにじょうちゅうのごようをうける、)
俗に「洗濯町」と呼ばれているが、ずっと昔そこに城中の御用を受ける、
(せんたくながやがあったという。むろんしんいのほどはわからないが、)
洗濯長屋があったという。むろん真偽のほどはわからないが、
(のちにゆうじょやができ、りょうていがたち、うたやおどりのおんなししょう(まだげいぎとは)
のちに遊女屋が出来、料亭が建ち、唄や踊の女師匠(まだ芸妓とは
(いわなかった)などがすみついてあまりひんのよくないはなまちができた。)
いわなかった)などが住みついてあまり品のよくない花街ができた。
(「ごみぶんにかかわりますかね」こうのすけがちょっとためらうのをみて、)
「御身分にかかわりますかね」孝之助がちょっとためらうのをみて、
(やつかはこういいながら、てでおしやるような、みぶりをした。)
八束はこう云いながら、手で押しやるような、身振りをした。
(「しかしここもにんげんのあそぶところです。いいけいけんになりますよ」)
「しかし此処も人間の遊ぶところです。いい経験になりますよ」
(そして、ほとんどひきたてないばかりに、よこちょうへおれてゆき)
そして、殆んど引立てないばかりに、横丁へ折れてゆき
(「かねだ」とそであんどんのでた、ちいさなりょうていふうのいえの、もんへつれこんだ。)
「かね田」と袖行燈の出た、小さな料亭ふうの家の、門へつれこんだ。
(おもいきっていやしい、ちゅうねんのじょちゅうがふたり、あけすけにみだらなことを)
思いきって卑しい、中年の女中が二人、あけすけにみだらなことを
(いいながら、ぎしぎしきしむ、せまいろうかをさきにたって、)
云いながら、ぎしぎし軋む、狭い廊下を先に立って、
(はちじょうばかりのうすぐらいへやへあんないした。)
八帖ばかりのうす暗い部屋へ案内した。
(みぎがかべ、ひだりがふるびたふすま。にわでもあるのか、いっぽうだけしょうじになっている。)
右が壁、左が古びた襖。庭でもあるのか、一方だけ障子になっている。
(「そうしかくばってないで、はかまでもぬぎませんか」)
「そう四角張ってないで、袴でもぬぎませんか」
(やつかはれいしょうしながら、「かたひじをいからしていても、)
八束は冷笑しながら、「肩肱をいからしていても、
(ここではべつにぎょうてんするものはいませんからね」)
此処ではべつに仰天する者はいませんからね」
(「ほんとにおくつろぎなさいよ、こちら」じょちゅうのひとりがこうのすけのうでをつかんだ。)
「ほんとにお寛ぎなさいよ、こちら」女中の一人が孝之助の腕を掴んだ。
(「ごうにいったらごうにしたがえってね、こんなところできどったって)
「郷に入ったら郷に従えってね、こんなところで気取ったって
(だれもほめやしないわ、すましてると、あたしたちではだかにしちまうわよ」)
誰も褒めやしないわ、すましてると、あたしたちで裸にしちまうわよ」
(「わたしはすぐかえるんだ」こうのすけはしずかに、おんなのてをはらいのけて、)
「私はすぐ帰るんだ」孝之助は静かに、女の手をはらいのけて、
(やつかのかおをみた。「ようがあったらいってくれないか」)
八束の顔を見た。「用があったら云って呉れないか」
(「じゃあ、まず、さけをもってこい」かれはじょちゅうにてをふった、)
「じゃあ、まず、酒を持って来い」彼は女中に手を振った、
(「だいじょうぶだ、こんやははらってやる。ここにきんしゅがいるんだから、)
「大丈夫だ、今夜は払ってやる。ここに金主がいるんだから、
(これまでのぶんもきれいにするし、こんやのぶんもはらうし、きさまたちにも)
これまでの分もきれいにするし、今夜の分も払うし、きさまたちにも
(こころづけをくれてやる、だいじょうぶだからどんどんもってこい」)
心付けを呉れてやる、大丈夫だからどんどん持って来い」
(じょちゅうたちがさるとすぐ、「ことわっておくが」とこうのすけがいった、)
女中たちが去るとすぐ、「断わっておくが」と孝之助が云った、
(「わたしはかねはもっていないし、たとえもっていたにしても、)
「私は金は持っていないし、たとえ持っていたにしても、
(ここのしはらいなどはしないからね」「なあにはらうさ、そのことなら)
ここの支払いなどはしないからね」「なあに払うさ、そのことなら
(わたしがほしょうしてもいい、たかやすこうのすけはここのかんじょうをはらうし、)
私が保証してもいい、高安孝之助はここの勘定を払うし、
(そのほかににひゃくりょうこしらえて、わたしのまえにならべるよ」)
そのほかに二百両こしらえて、私の前に並べるよ」
(やつかはなまあくびをしながら、ひとをばかにしたようなくちぶりでそういった。)
八束はなま欠伸をしながら、人をばかにしたような口ぶりでそう云った。
(こうのすけはだまってそういうかれのかおをみていた。)
孝之助は黙ってそう云う彼の顔を見ていた。
(「ようじというのはそれだけか」やがてこうのすけがいった。)
「用事というのはそれだけか」やがて孝之助が云った。
(「さあ、いまのところはね」とやつかがこたえた、)
「さあ、今のところはね」と八束が答えた、
(「あとはまた、おいおいのそうだんにしよう」こうのすけはかたなをもってたった。)
「あとはまた、おいおいの相談にしよう」孝之助は刀を持って立った。
(かれのそうぞうしたことと、このばのじじつとは、あまりにちがっていた。)
彼の想像したことと、この場の事実とは、あまりに違っていた。
(ちがいすぎていた。このよごれた、どろまみれの、いやらしいくうきは、)
違いすぎていた。この汚れた、泥まみれの、いやらしい空気は、
(とうていたえることのできないものである。)
とうてい耐えることのできないものである。
(こうのすけはだまってふりかえり、でてゆこうとしてふすまをあけた。)
孝之助は黙ってふり返り、出てゆこうとして襖をあけた。
(すると、そこのろうかにさんにんいやしいふうていのおとこが、)
すると、そこの廊下に三人卑しい風態の男が、
(みちをふさぐように、たちはだかっていた。そして、そのひとりは、)
道を塞ぐように、立ちはだかっていた。そして、その一人は、
(もっているながわきざしのつかに、てをかけながらいった。)
持っている長脇差の柄に、手をかけながら云った。
(「どうぞおしずかになすってください、いまさけがまいります」)
「どうぞお静かになすって下さい、いま酒がまいります」