竹柏記 山本周五郎 ⑱
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問題文
(そして、かれがすわるのをまっていたかのように、)
そして、彼が坐るのを待っていたかのように、
(「どうぞおっしゃってくださいまし、わたくしよろこんでおうかがいいたします」)
「どうぞ仰しゃって下さいまし、わたくし喜んでおうかがい致します」
(といった。かれにはつまがなにをいうのか、まるでわからなかった。)
と云った。彼には妻がなにを云うのか、まるでわからなかった。
(するとすぎのは、とつぜんくちびるをゆがめ、さすようなちょうしで、)
すると杉乃は、とつぜん唇を歪め、刺すような調子で、
(「おかむらさまのことでございます」)
「岡村さまのことでございます」
(こうのすけはつまのめをみた。そして、じぶんがそのことをてつまから)
孝之助は妻の眼を見た。そして、自分がそのことを鉄馬から
(きいたとき、つまもまたははおやからきいたのだということをりょうかいした。)
聞いたとき、妻もまた母親から聞いたのだということを了解した。
(「そう、やつかのことはかさいからきいた、しかしわれわれには)
「そう、八束のことは笠井から聞いた、しかしわれわれには
(かんけいがないとおもうがね」)
関係がないと思うがね」
(「あなたはあのかたのしょうらいをみとおしていらっしゃいました、)
「貴方はあの方の将来をみとおしていらっしゃいました、
(すえをまっとうすかたではない、ひとをしあわせにすることの)
末を完うす方ではない、ひとを仕合せにすることの
(できないかただというふうに、そうではございませんか」)
できない方だというふうに、そうではございませんか」
(こうのすけはめをふせた。)
孝之助は眼を伏せた。
(「それがそのとおりになりました、あなたがおっしゃったとおりに、)
「それがそのとおりになりました、貴方が仰しゃったとおりに、
(あなたのおめのただしかったことが、こんなにもはやくじじつになったのです、)
貴方のお眼の正しかったことが、こんなにも早く事実になったのです、
(どうしてこれを、ごじぶんのおくちからわたくしにおきかせくださいませんの」)
どうしてこれを、御自分のお口からわたくしにお聞かせ下さいませんの」
(「もういちどいうが」できるだけおだやかに、つまのかおをみながら、)
「もういちど云うが」できるだけ穏やかに、妻の顔を見ながら、
(こうのすけがいった。「おかむらとわれわれとは、もうなんのかかわりもない、)
孝之助が云った。「岡村とわれわれとは、もうなんの関わりもない、
(かれがおとがめをうけたことは、きのどくにおもうけれども、わたしはくわしいじじょうを)
彼がお咎めを受けたことは、気の毒に思うけれども、私は詳しい事情を
(しらないし、しっていたにしても、おまえにはなすひつようはないとおもう」)
知らないし、知っていたにしても、おまえに話す必要はないと思う」
(「わたくしがのぞんでもでございますか」)
「わたくしが望んでもでございますか」
(「だれがのぞんでもだ」かれはしずかに、しかしきっぱりといった、)
「誰が望んでもだ」彼は静かに、しかしきっぱりと云った、
(「わたしたちのあいだでは、けっしておかむらのなをよばないように、)
「私たちのあいだでは、決して岡村の名を呼ばないように、
(これだけはよくおぼえていてもらいたい」)
これだけはよく覚えていて貰いたい」
(けっこんしていらい、はじめての、きっとしたいいかただった。)
結婚して以来、初めての、屹っとした云い方だった。
(すぎのはいかりのめでかれをみ、ひざのうえでりょうてをにぎりしめた、)
杉乃は怒りの眼で彼を見、膝の上で両手を握りしめた、
(かれはしずかにたってそこをでた。しゅうげんのよるのときよりも、)
彼は静かに立ってそこを出た。祝言の夜のときよりも、
(こうのすけのこころはふかくきずついた。つまはかれをあいそうとしない、)
孝之助の心は深く傷ついた。妻は彼を愛そうとしない、
(これまでふうふのかたらいなどもあまりにつめたく、ほとんどいしにたいするような)
これまで夫婦のかたらいなどもあまりに冷たく、殆んど石に対するような
(ものであった。それはあるてんまでしょうちのうえだし、)
ものであった。それは或る点まで承知のうえだし、
(じかんをかけるかくごはできていた。けれども、そのばんのたいどでは、)
時間をかける覚悟はできていた。けれども、その晩の態度では、
(たんにかれをあいさないばかりでなく、まだおかむらをわすれないでいるらしい。)
単に彼を愛さないばかりでなく、まだ岡村を忘れないでいるらしい。
(あなたのそうぞうどおりになった、さぞゆかいであろう。)
貴方の想像どおりになった、さぞ愉快であろう。
(そういういみをふくめたことばと、あのめと、そのさすようなちょうしとは、)
そういう意味を含めた言葉と、あの眼と、その刺すような調子とは、
(あきらかにおかむらやつかのがわにたったものである。)
明らかに岡村八束の側に立ったものである。
(せなかにやつかをかこって、こちらへいどみかかるようなしせいだった。)
背中に八束を囲って、こちらへ挑みかかるような姿勢だった。
(そうだ、あれはまだおかむらをわすれてはいない、)
そうだ、あれはまだ岡村を忘れてはいない、
(わすれていないばかりか、ことによるとあいしておるのかもしれない。)
忘れていないばかりか、ことによると愛しておるのかもしれない。
(そうおもうのはたえがたいことであった。)
そう思うのは耐え難いことであった。
(しかもわるいことには、そうおもいながらなおじぶんがつまをあいしていて、)
しかも悪いことには、そう思いながらなお自分が妻を愛していて、
(そのあいがたちきれなくなるばかりだということである。)
その愛が断ち切れなくなるばかりだということである。
(そんなにまでしてけっこんすることは、ふしぜんではないだろうか。)
そんなにまでして結婚することは、不自然ではないだろうか。
(きたはたのおばはいつかそういった。かれはそうかんがえなかった。)
北畠の叔母はいつかそう云った。彼はそうは考えなかった。
(このよにあることは、すべてがぐうぜんのくみあわせである。)
この世に在ることは、すべてが偶然の組み合せである。
(こいはしばしばしんぴてきなひょうげんでかざられるけれども、)
恋はしばしば神秘的な表現で飾られるけれども、
(ふたりにとって、おたがいがぜったいだということはない。)
二人にとって、お互いが絶対だということはない。
(こうおつのだんじょがむすびつくのはぐうぜんのきえんであって、)
甲乙の男女が結びつくのは偶然の機縁であって、
(さればこそしっぱいし、あいわかれるれいがおおいし)
さればこそ失敗し、相別れる例が多いし
(にどめさんどめのけっこんでおちつくばあいも、すくなくはない。)
二度め三度めの結婚でおちつくばあいも、少なくはない。
(こうのすけはすぎのをあいしていた。そして、どんなことがあっても、)
孝之助は杉乃を愛していた。そして、どんなことがあっても、
(かのじょをおかむらのてにわたしたくなかった。それだけであった。)
彼女を岡村の手に渡したくなかった。それだけであった。
(もとめてすぎのをめとったきもちも、そのためにしょうじたやつかとのあらそいも、)
求めて杉乃を娶った気持も、そのために生じた八束との争いも、
(つよくあいするものをこうふくにしよう、というじょうねつ、)
強く愛する者を幸福にしよう、という情熱、
(ほかのだいぶぶんのおとこのもつへいぼんなじょうねつといっぱんではないか。)
他の大多分の男のもつ平凡な情熱と一般ではないか。
(「だがこれは、やっぱりじぶんのいっぽうてきな)
「だがこれは、やっぱり自分の一方的な
(かんがえかただったかもしれない」かれはそうつぶやく、)
考え方だったかもしれない」彼はそう呟く、
(「けっこんしてしまえば、そこからしぜんとあいじょうがうまれるとおもった、)
「結婚してしまえば、そこから自然と愛情が生れると思った、
(せいかつはひとのかんじょうやしゅうかんをかえるものだから、)
生活は人の感情や習慣を変えるものだから、
(しかし、どんなにしてもかわらないものもある、)
しかし、どんなにしても変らないものもある、
(それをかえようとするのはたしかにふしぜんだ」)
それを変えようとするのはたしかに不自然だ」
(おかむらのふぎょうせきがあかるみにで、きびしくばっせられたことがわかっても、)
岡村の不行跡が明るみに出、厳しく罰せられたことがわかっても、
(かれにたいするすぎののきもちはかわらない。)
彼に対する杉乃の気持は変らない。
(えいきゅうにかわらないかもしれないし、それをかえるちからはにんげんにはない。)
永久に変らないかもしれないし、それを変える力は人間にはない。
(ではどうしようか。こうのすけはくるしんだ。まじめにりこんを)
ではどうしようか。孝之助は苦しんだ。まじめに離婚を
(かんがえさえしたが、もちろんそんなことができるわけもなく、)
考えさえしたが、もちろんそんなことができるわけもなく、
(けっきょく、そのくるしさにじぶんをならしてゆくよりしかたがなかった。)
結局、その苦しさに自分を慣らしてゆくよりしかたがなかった。