竹柏記 山本周五郎 ㉑
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問題文
(ちちのいっしゅうきのすこしまえに、つまのすぎのがおとこのこをうんだ。)
父の一周忌の少しまえに、妻の杉乃が男の子を産んだ。
(ちちのなくなるぜんご、いをやんでいると(すぎのじしんも)おもっていたのが、)
父の亡くなる前後、胃を病んでいると(杉乃自身も)思っていたのが、
(まもなくにんしんだとわかってから、こうのすけのこころにはひとつの)
まもなく妊娠だとわかってから、孝之助の心にはひとつの
(きたいがうまれていた。こをもつとおんなのかんじょうはかわるという、)
期待がうまれていた。子を持つと女の感情は変るという、
(こどもはふたりのちをつなぐものだから、そのこをつうじて、つまのこころが)
子供は二人の血をつなぐものだから、その子を通じて、妻の心が
(せっきんしてくるかもしれない。どうかそうあってくれるように。)
接近してくるかもしれない。どうかそうあって呉れるように。
(こちょうしていえばいのるようなきもちで、かれはそうねがっていた。)
誇張していえば祈るような気持で、彼はそう願っていた。
(しゅっさんのよていびのなのかまえから、かさいのぎぼがきていてくれた。)
出産の予定日の七日まえから、笠井の義母が来ていて呉れた。
(ふうふのなかがうまくいっていないことを、かのじょもうすうす)
夫婦の仲がうまくいっていないことを、彼女もうすうす
(かんづいていたのだろう、おしちやをすませてかえるとき、)
感づいていたのだろう、お七夜を済ませて帰るとき、
(こうのすけのへやへきて、さりげないくちぶりでいった。)
孝之助の部屋へ来て、さりげない口ぶりで云った。
(「わがままもので、いろいろごふまんもございましょうが、)
「わがまま者で、いろいろ御不満もございましょうが、
(これでははおやにもなったことですし、すこしはおちついてくれる)
これで母親にもなったことですし、少しはおちついて呉れる
(だろうとおもいます。どうかもうしばらくがまんしてやってくださいまし」)
だろうと思います。どうかもう暫くがまんしてやって下さいまし」
(こうのすけには、ぎぼのことばよりも、そのさりげないくちぶりが、みにしみた。)
孝之助には、義母の言葉よりも、そのさりげない口ぶりが、身にしみた。
(ははにもなったことだし。ははおやであるかのじょのくちからきくと、)
母にもなったことだし。母親である彼女の口から聞くと、
(それはいかにもじっかんがあり、しんじてもいいようにおもわれた。)
それはいかにも実感があり、信じてもいいように思われた。
(そしてまたきたはたのおばは、かぜぎみででられないからと、)
そしてまた北畠の叔母は、風邪ぎみで出られないからと、
(つかいのものにてがみといわいのしなをもたせてよこしたが、)
使いの者に手紙と祝いの品を持たせてよこしたが、
(そのてがみにもおなじように、これでうまくおさまるだろう、)
その手紙にも同じように、これでうまくおさまるだろう、
(といういみのことがかいてあった。)
という意味のことが書いてあった。
(もうひとつ、そのときからはんとしほどまえに、)
もう一つ、そのときから半年ほどまえに、
(おかむらやつかがはんしゅのおこえがかりで、うままわりにあげられ、)
岡村八束が藩主のお声がかりで、馬廻りにあげられ、
(なおしょくろくをにひゃくごくかぞうされる、というできごとがあった。)
なお食禄を二百石加増される、という出来ごとがあった。
(これはいずのかみとしひでがとおのりにでて、そのじょうばがいっそうしたとき、)
これは伊豆守利秀が遠乗りに出て、その乗馬が逸走したとき、
(やつかがとおりあわせてあやうくとめた。)
八束が通りあわせて危うく止めた。
(そのこうによるものであって、いらい、かれはたいそうとしひでのきにいられ、)
その功によるものであって、以来、彼はたいそう利秀の気にいられ、
(つねにそばちかくつかえるようになった。やくめをおわれ、しょくろくをはんげんされて、)
つねに側ちかく仕えるようになった。役目を逐われ、食禄を半減されて、
(しついのそこにあったやつかには、てんよのきかいともいうべきものであったし、)
失意の底にあった八束には、天与の機会ともいうべきものであったし、
(こうのすけにとっては、くらくふさがれていたせいしんてきふたんからかいほうされ、)
孝之助にとっては、暗く塞がれていた精神的負担から解放され、
(ほっといきをつくおもいであった。そして、おそらくすぎののきもちも)
ほっと息をつく思いであった。そして、おそらく杉乃の気持も
(かるくなることだろう、とかんがえていたのである。)
軽くなることだろう、と考えていたのである。
(こうしてうちにもそとにも、じじょうのこうてんするじょうけんがそろっていた。)
こうして内にも外にも、事情の好転する条件が揃っていた。
(すべてがよくなるという、きたいをかけても、)
すべてがよくなるという、期待をかけても、
(もうまちがいはあるまいとおもわれたが、やっぱりいけなかった。)
もうまちがいはあるまいと思われたが、やっぱりいけなかった。
(つまのようすはすこしもかわらず、むしろしばしば、)
妻のようすは少しも変らず、むしろしばしば、
(それいぜんよりもひややかで、いこじなたいどをみせるようにさえなった。)
それ以前よりも冷やかで、依怙地な態度をみせるようにさえなった。
(もうすこしがまんしてやってくれ。かれはぎぼのことばをわすれなかった。)
もう少しがまんしてやって呉れ。彼は義母の言葉を忘れなかった。
(きたいのはずれたことにも、ひどくしつぼうしたわけではなかった。)
期待の外れたことにも、ひどく失望したわけではなかった。
(かれはじぶんじしんにたしかめた。)
彼は自分自身にたしかめた。
(じぶんはつまにこうふくなせいかつをあたえようとしてめとった、)
自分は妻に幸福な生活を与えようとして娶った、
(かのじょをかなしみやふこうからまもり、しょうがい、あたたかくへいおんに)
彼女を悲しみや不幸から守り、生涯、温たかく平穏に
(くらすことができるようにと、けっしてじぶんのこうふくや、まんぞくの)
暮すことができるようにと、決して自分の幸福や、満足の
(ためではなかったはずだ。それにいまはこどもがあった。)
ためではなかった筈だ。それにいまは子供があった。
(なはちちのようみょうをとってこたろうとつけたが、)
名は父の幼名をとって小太郎と付けたが、
(よくこえたじょうぶなこで、つまはほとんどできあいしていた。)
よく肥えた丈夫な子で、妻は殆んど溺愛していた。
(かれのぶんしんであるこどもを、なめるようにあいしているつまのすがたは)
彼の分身である子供を、舐めるように愛している妻の姿は
(かれじしんのふまんやさびしさを、かなりつぐなってくれるものであった。)
彼自身の不満や淋しさを、かなり償って呉れるものであった。
(これでいい、じぶんはこのつまとこの、しあわせをまもることにつとめよう、)
これでいい、自分はこの妻と子の、仕合せを守ることに努めよう、
(そのほかのことはすべてときにまかせるのだ。おとこにはせいかつがあった。)
そのほかのことはすべて時に任せるのだ。男には生活があった。