竹柏記 山本周五郎 ㉓
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問題文
(そしておかむらやつかは、はんしゅのさんきんのともにくわわって、えどへさった。)
そして岡村八束は、藩主の参覲の供に加わって、江戸へ去った。
(そのあと、こうのすけにたいして、かなりひろくいやなひょうがつたわった。)
そのあと、孝之助に対して、かなりひろくいやな評が伝わった。
(れいのかくしきこうしんのねがいがかれのりんしょくからでたというのである。)
例の格式更新の願いが彼の吝嗇から出たというのである。
(ぶぎょうしょくになれないふまんだろう、とか。)
奉行職になれない不満だろう、とか。
(かくしきよりもかねのほうがだいじなんだろう、とか。)
格式よりも金のほうが大事なんだろう、とか。
(さむらいらしくない、かちゅういっぱんのめんもくにかかわる、などというのである。)
侍らしくない、家中一般の面目にかかわる、などというのである。
(なかでもっともあくしつなのは、たかやすはひそかにかねかしをしている。)
なかでもっとも悪質なのは、高安はひそかに金貸しをしている。
(といううわさだった。これはほかのひょうよりずっとおくれて、)
という噂だった。これは他の評よりずっと後れて、
(ごがつころからきゅうに、ひろまりだしたのであるが、)
五月ころから急に、弘まりだしたのであるが、
(こうのすけはもちろんしらず、つまからちゅういされてはじめてわかった。)
孝之助はもちろん知らず、妻から注意されて初めてわかった。
(すぎのはよほどしんがいだったらしい、めずらしくかのじょのほうからへやへきて、)
杉乃はよほど心外だったらしい、珍しく彼女のほうから部屋へ来て、
(こういうひょうばんがあるが、じじつかどうか、とひらきなおってきかれた。)
こういう評判があるが、事実かどうか、とひらき直って訊かれた。
(「ばかなことをいってはいけない」)
「ばかなことを云ってはいけない」
(こうのすけはうんざりしながらこたえた。)
孝之助はうんざりしながら答えた。
(「わたしがそんなことをするかどうか、かんがえてみてもわかるはずではないか、)
「私がそんなことをするかどうか、考えてみてもわかる筈ではないか、
(このはるあたりからふゆかいなかげぐちをいろいろきくが、)
この春あたりから不愉快な蔭口をいろいろ聞くが、
(せひょうなどというものはむせきにんだから」「それではかくしきねがいのことも)
世評などというものは無責任だから」「それでは格式願いのことも
(ねのないうわさでございますか」すぎののくちぶりはいがいにはげしかった。)
根のない噂でございますか」杉乃の口ぶりは意外に激しかった。
(こうのすけはつまのかおをみなおした。すぎのはこをうんでからすこしこえ、)
孝之助は妻の顔を見なおした。杉乃は子を産んでから少し肥え、
(いろもしろくけっしょくもよくなり、けんこうななまめかしさがあふれるようにみえた。)
色も白く血色もよくなり、健康な嬌めかしさが溢れるようにみえた。
(けれども、そのときはかおもきびしくこわばり、)
けれども、そのときは顔もきびしく硬ばり、
(あおざめてめはとがめるようなひかりをおびていた。)
蒼ざめて眼は咎めるような光りを帯びていた。
(「かくしきねがいのことはじじつだ」こうのすけはおだやかにいった。)
「格式願いのことは事実だ」孝之助は穏やかに云った。
(「しかしあれは、ことわるまでもないとおもうが、こんご、たかやすのいえをたもち、)
「しかしあれは、断わるまでもないと思うが、今後、高安の家を保ち、
(こしょうなくおやくをつとめてゆくためには、やむをえないことであって、)
故障なくお役を勤めてゆくためには、やむを得ないことであって、
(ひろまつさんともそうだんのうえであるし、ひとのうわさするようないみは)
広松さんとも相談のうえであるし、人の噂するような意味は
(すこしもないのだ」「ひとのうわさにおひれのつくことはしっております、)
少しもないのだ」 「人の噂に尾ひれの付くことは知っております、
(おひれのことはもうしあげません。けれどもかくしきねがいが)
尾ひれのことは申上げません。けれども格式願いが
(ねのないことでなかったとしますと、かねかしうんぬんというひょうばんも、)
根のないことでなかったとしますと、金貸しうんぬんという評判も、
(なにかそうしたじじつがあるのではございませんか」)
なにかそうした事実があるのではございませんか」
(「まったくおぼえのないことだが」こうのすけはすこしうるさくなってきた。)
「まったく覚えのないことだが」孝之助は少しうるさくなってきた。
(「いったいそんなことを、だれからきいたのだ」)
「いったいそんなことを、誰から聞いたのだ」
(「かさいのあね(ぎし)にききました」)
「笠井のあね(義姉)に聞きました」
(かさいてつまはそのとしのさんがつにけっこんしていた。)
笠井鉄馬はその年の三月に結婚していた。
(あいてははまだとのもというもののむすめで、なをおぬひといい、さんねんまえから)
相手は浜田主殿という者の娘で、名をおぬひといい、三年まえから
(こんやくができていた。おぬひのびょうきでのびていたところ、)
婚約ができていた。おぬひの病気で延びていたところ、
(ようやくいしゃのゆるしがでて、しきをあげたのであった。)
ようやく医者の許しが出て、式を挙げたのであった。
(「ではかさいもしっているのか」「あねがじっかからきいたのだそうで、)
「では笠井も知っているのか」 「あねが実家から聞いたのだそうで、
(はまだでもがいぶんのわるいおもいをしているともうしたそうでございます」)
浜田でも外聞の悪い思いをしていると申したそうでございます」
(これをききながら、こうのすけはふとやつかのことをおもいだした。)
これを聞きながら、孝之助はふと八束のことを思いだした。
(えどへいったらしゃくざいをかえす。かれはそういった。)
江戸へいったら借財を返す。彼はそう云った。
(むろん、かれがごようしょうにんとけったくして、ふせいにひしょうしたこうきんを、)
むろん、彼が御用商人と結託して、不正に費消した公金を、
(こうのすけがようだててしまつしたかねである。)
孝之助が用立てて始末した金である。
(こちらはもともとかえしてもらうつもりはなかったし)
こちらはもともと返して貰うつもりはなかったし
(「かしかね」などというものとはおよそしゅるいがちがう。)
「貸し金」などというものとはおよそ種類が違う。
(だがもしやつかがはなしたとすると。それもふせいのじじつはのぞいて、)
だがもし八束が話したとすると。それも不正の事実は除いて、
(たんに、かりたかねをべんさいしなければならぬ、というふうにでも)
単に、借りた金を弁済しなければならぬ、というふうにでも
(いったとすると、きいたもののくちから、わいきょくされてつたわったと、)
云ったとすると、聞いた者の口から、歪曲されて伝わったと、
(かんがえられないことはない。すくなくともやつかとのかんけいいがいに、)
考えられないことはない。少なくとも八束との関係以外に、
(そんなうわさのでるげんいんはないのである。)
そんな噂の出る原因はないのである。
(こうのすけはいかりをかんじた、ながろうかであったときの、)
孝之助は怒りを感じた、長廊下で会ったときの、
(やつかのこうぜんとしたたいどがおもいだされる。)
八束の昂然とした態度が思いだされる。
(だらくのぬまからすくいあげられ、いまやおのれのよをむかえつつある、)
堕落の沼から救いあげられ、今やおのれの世を迎えつつある、
(というかくしんのうえにいすわって、(さりげなく)かりたかねのことなど)
という確信の上に居据わって、(さりげなく)借りた金のことなど
(くちにするさまが、こうのすけはあざやかにそうぞうされるのであった。)
口にするさまが、孝之助は鮮やかに想像されるのであった。
(これははっきりすべきときだ。かさいのみみにもはいったとすれば、)
これははっきりすべきときだ。笠井の耳にもはいったとすれば、
(そして、やつかのみぶんもいちおうおさまったのだから、)
そして、八束の身分もいちおうおさまったのだから、
(こういうふゆかいなてんだけでも、はなしておくべきだろう、)
こういう不愉快な点だけでも、話しておくべきだろう、
(こうのすけはそうけっしんしていった。「あした、げじょうのとき、かさいへよるから、)
孝之助はそう決心して云った。「明日、下城のとき、笠井へ寄るから、
(そのじぶんにおまえもいっていてくれ、そこでよくはなすとしよう」)
そのじぶんにおまえもいっていて呉れ、そこでよく話すとしよう」
(「ではやはり」すぎのはくちびるをゆがめた、)
「ではやはり」杉乃は唇を歪めた、
(「そういうことがあったのでございますね」)
「そういうことがあったのでございますね」
(「いやそんなことはない、まるでじじょうがちがうことだ」)
「いやそんなことはない、まるで事情が違うことだ」
(こうこたえてかれはかおをそむけた。)
こう答えて彼は顔をそむけた。