竹柏記 山本周五郎 ㉖
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問題文
(こうのすけはうかないかおつきで、とぼんとにわをながめていた。)
孝之助は浮かない顔つきで、とぼんと庭を眺めていた。
(つくえにかたひじをつき、てであごをささえたかっこうや、)
机に片ひじをつき、手で顎を支えた恰好や、
(せいのぬけたようなめや、にごったさえないはだのいろなど、)
精のぬけたような眼や、濁った冴えない膚の色など、
(ふかいひろうをしめしているようである。)
深い疲労を示しているようである。
(かれはつかれていた、げっそりとつかれていた。)
彼は疲れていた、げっそりと疲れていた。
(なのかまえにはんしゅがかえってから、ずっとやくどころがたぼうだった。)
七日まえに藩主が帰ってから、ずっと役所が多忙だった。
(それには、さんねんまえにはんのちょっかつではじめた、しんでんかいはつのじぎょうで)
それには、三年まえに藩の直轄で始めた、新田開発の事業で
(しざいかんけいのとくしょくもんだいがおこり、さいわいおおごとではなかったが、)
資材関係の涜職問題が起こり、さいわいおおごとではなかったが、
(かんじょうぶぎょうしょから(ごくかきゅうのもので)ふたり、れんるいしゃがでた。)
勘定奉行所から(ごく下級の者で)二人、連累者が出た。
(やくどころにはかんけいがなかったし、うまくりようされたくらいのことだったが、)
役所には関係がなかったし、うまく利用されたくらいのことだったが、
(ぶかからそういうものをだしたいじょう、ぶぎょうしょくとしていちおう)
部下からそういう者を出した以上、奉行職としていちおう
(せきにんをおわなければならない。)
責任を負わなければならない。
(それほどのひつようはあるまい。しゅういではそういったが、)
それほどの必要はあるまい。周囲ではそう云ったが、
(こうのすけはともかくしんたいうかがいをだした。)
孝之助はともかく進退伺いを出した。
(そして、たいにんするばあいにそなえて、じむのせいりをしていたのである。)
そして、退任するばあいに備えて、事務の整理をしていたのである。
(きこくしたはんしゅによって、きのう、たいにんにおよばず、というめいがくだった。)
帰国した藩主によって、昨日、退任に及ばず、という命が下った。
(それをつたえたのはおかむらやつかであった。)
それを伝えたのは岡村八束であった。
(しちねんまえ、えどづめになってさったかれは、いらいぐんぐんしゅっせし、)
七年まえ、江戸詰になって去った彼は、以来ぐんぐん出世し、
(ことしのにがつにはそばようにんにあげられた。)
今年の二月には側用人に挙げられた。
(こうのすけはきのうはじめてあったのだが、やつかはすっかりふうぼうがかわり、)
孝之助は昨日初めて会ったのだが、八束はすっかり風貌が変り、
(こえて、けっしょくのいいつやつやとしたかおをしていた。)
肥えて、血色のいい艶つやとした顔をしていた。
(はんしゅのめいをつたえたあと、やつかはすわっていたいちをちょっとしざって、)
藩主の命を伝えたあと、八束は坐っていた位置をちょっとしざって、
(しばらくでした、おかわりもないようでけっこうです。こうあいさつした。)
暫くでした、お変りもないようで結構です。こう挨拶した。
(したしいくちぶりであるが、たいとうのしたしさではなかった。)
親しい口ぶりであるが、対等の親しさではなかった。
(ちからのあるがんこうや、びしょうするくちもとなどに、)
力のある眼光や、微笑する口もとなどに、
(かなりはっきりとひややかな、みくだすようないろがあった。)
かなりはっきりと冷やかな、見くだすような色があった。
(かえるとすぐにあいたかったのだが、ごようがおおくてそのひまがなかった。)
帰るとすぐに会いたかったのだが、御用が多くてその暇がなかった。
(ついては、みょうせきよじからじたくでちゆうとかいしょくすることになっている、)
ついては、明夕四時から自宅で知友と会食することになっている、
(ぜひごふさいできてくれるように。やつかはこういった。)
ぜひ御夫妻で来て呉れるように。八束はこう云った。
(たかやすさんごふさいがしゅひんですから、ぜひともきていただきたい、)
高安さん御夫妻が主賓ですから、ぜひとも来て頂きたい、
(ぜひともですよ。ねんをおされて、こうのすけはしょうちした。)
ぜひともですよ。念を押されて、孝之助は承知した。
(きょうはやくどころはやすみである。よじまでにはおかむらへゆかなければならない。)
今日は役所は休みである。四時までには岡村へゆかなければならない。
(つまにはまだそのことははなしてないし、はなせばおそらく)
妻にはまだそのことは話してないし、話せばおそらく
(いやだというだろう。そんなことも(からだのつかれよりつよく))
いやだと云うだろう。そんなことも(躯の疲れより強く)
(かれのきもちをおさえつけるのであった。)
彼の気持を押えつけるのであった。
(「しかし、どうしたってゆかなければならない」こうのすけはそっとつぶやいた、)
「しかし、どうしたってゆかなければならない」孝之助はそっと呟いた、
(「だましてでも、おれとすぎのがしゅひんだというのだから、どうしたって」)
「騙してでも、おれと杉乃が主賓だというのだから、どうしたって」
(かれはふとめをすぼめた。さっきからぼんやりとひとところをながめていた、)
彼はふと眼をすぼめた。さっきからぼんやりとひとところを眺めていた、
(さむざむとかれたにわのひとところを。そのしょうてんのぼやけたしやのなかで、)
寒ざむと枯れた庭のひとところを。その焦点のぼやけた視野のなかで、
(いっぽんのきがしきりにかれのいしきへよびかけていた。)
一本の木がしきりに彼の意識へよびかけていた。
(かれはそのきをながめていたのだ、そしていま、)
彼はその木を眺めていたのだ、そして今、
(そのきをながめていたことにきがついた。そのきは、ちくはくであった。)
その木を眺めていたことに気がついた。その木は、竹柏であった。
(こうのすけのひょうじょうは、ほとんどぜつぼうしたもののようにゆがんだ。)
孝之助の表情は、殆んど絶望したもののように歪んだ。
(そういうことはふしぜんではないだろうか。)
そういうことは不自然ではないだろうか。
(おばのせんじゅのこえが、きおくのなかからよみがえってきた。)
叔母の千寿の声が、記憶のなかからよみがえってきた。
(にんげんをそういうふうにみていいだろうか。)
人間をそういうふうに観ていいだろうか。
(さらに、きたはたのさんそうへよばれたときのことがおもいだされた。)
さらに、北畠の山荘へ呼ばれたときのことが思いだされた。
(しったふうに、やつかのしょうらいをよそくしたこと。)
知ったふうに、八束の将来を予測したこと。
(すぎののこうふくをまもるためにかのじょのいにそむいてもかのじょをめとると)
杉乃の幸福を護るために彼女の意に反いても彼女を娶ると
(いったことなど。やつかはいまはんしゅのそばようにんである。)
云ったことなど。八束はいま藩主の側用人である。
(えどかろうてらだしのむすめをつまにしている。)
江戸家老寺田氏の娘を妻にしている。
(そのひとは(うわさによると)いちどかしてもどったのだというが、)
その人は(噂によると)いちど嫁して戻ったのだというが、
(かろうのむすめだということにかわりはない。)
家老の娘だということに変りはない。
(はんしゅのちょうばかりでなく、じゅうしんたちのしんぼうもあついようだ。)
藩主の寵ばかりでなく、重臣たちの信望も篤いようだ。
(かつて、さいしょうのしつがある、とひょうされたが、やつかはみずからそれを)
かつて、宰相の質がある、と評されたが、八束はみずからそれを
(しょうこだてつつある。ちくはくもおおきくなった。)
証拠だてつつある。竹柏も大きくなった。
(さたばいしょからもらって、うえたときにくらべると、みきのふとさもたけも、)
佐多梅所から貰って、植えたときに比べると、幹の太さも丈も、
(ばいいじょうにそだった。あおみをおびてしろくこをふいたようなしぶいみどりいろのはが、)
倍以上に育った。青みを帯びて白く粉をふいたような渋い緑色の葉が、
(すんなりのびたえだに、いかにもひんよくしげっている。)
すんなり伸びた枝に、いかにも品よく繁っている。
(もうじゅうねんになる、もうじゅうねんというつきひがたったのだ。)
もう十年になる、もう十年という月日が経ったのだ。
(ちょうなんのこたろうはななさいになり、さんねんまえにちょうじょのふみがうまれた。)
長男の小太郎は七歳になり、三年まえに長女のふみが生れた。
(しかしこうのすけじしんはあいもかわらぬかんじょうぶぎょうで、)
しかし孝之助自身は相も変らぬ勘定奉行で、
(しょくせいがもとどおりなら、それもこうたいするはずである。)
職制が元どおりなら、それも交代する筈である。
(かしつもないが、きわだってこうせきもない。)
過失もないが、際立って功績もない。
(あんのんではあるがへいぼんきわまるせいかつだ。しかも、ふたりのこまでなしながら、)
安穏ではあるが平凡きわまる生活だ。しかも、二人の子までなしながら、
(ふうふのなかはいぜんとしてつめたい。)
夫婦の仲は依然として冷たい。
(じむのようにきちんとしたあけくれのなかで、つまはかたくじぶんのからを)
事務のようにきちんとした明け昏れのなかで、妻は固く自分の殻を
(とじている。「どうおもうだろう」かれはまたつぶやいた。)
閉じている。「どう思うだろう」彼はまた呟いた。